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小田原評定

2014-10-05 | 日本語百科
議論の決着がつかないこととしてたとえられる。
それはまた何故か。

もとは、後北条氏における重臣会議のこと。
月2回開かれ、諸事を決した行政機構であるとされるのが評定である。

そしてまた、小田原評定という言葉は、いつになっても結論の出ない会議や相談という意味になっている。
比喩表現として使われるのは、秀吉による小田原攻めにある。
小田原談合、小田原咄などともいうようだが、1590年、天正18年豊臣秀吉が、後北条氏を相模小田原城に攻めたとき、城内の評定で対策が評議されたが、空しく日を過ごすのみであったという故事からである。

一般にいつまでもまとまらない会議、相談を指すようになったと、解説する。
おりから大河ドラマを見ていた、黒田官兵衛が単身、降伏をすすめ和議を申し込むという場面であった。


小田原デジタルアーカイブにも北条市の戦略、とするものがある。
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/008/
北条市の外交戦略
>しかし、本来の「小田原評定」は、後北條氏が当主の専制政治でなく、重臣たちを評定衆とし、いわば民主的な合議政治を行ったことがルーツであった。
 戦国大名というと、何となく「黙ってオレについてこい」式の武将のイメージが描かれるが後北條氏はそうではない。


黒田官兵衛
>諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(読み同じ)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。





デジタル大辞泉の解説
おだわら‐ひょうじょう 〔をだはらヒヤウヂヤウ〕 【小田原評定】
《豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条方の和戦の評定が容易に決定しなかったところから》長引いて容易に結論の出ない会議・相談。



この故事の小田原評定は臨時評定であり、史料で確認できるものとしては、天保8年(1841年)成立の『改正三河後風土記』があり、前年天正17年11月付けの秀吉からの宣戦布告を受けての
天正18年(1590年)1月 - 「籠城」か「出撃」か。
天正18年(1590年)6月 - 「降伏」か「決戦」か。
であって、それぞれに大勢があって落着し、その後の仕儀になった。


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