悲しと思う せつなさよ~
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今日の長崎は あれから71回目の原爆忌である。
合掌
長崎と言えば
♪鐘が鳴る鳴る マリヤの鐘が 坂の長崎ザボン売り~
で知られ
♪恋の涙か 蘇鉄の花が 風にこぼれる石畳~
の街である。
私ごとながら ウン十年の初恋の人と
♪逢えば別れがこんなにつらい~
思い出の街である。
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タイムスリップしてその日を覗いてみる。
朝から、ラジオの勘高い声が鳴り響き、軍艦マーチ.が鳴り止まない。
“臨時ニュース・臨時ニュースを申し上げます”
―帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戰鬪状態に入れり―
(大本營陸海軍部發表・十二月八日午前六時)
陸軍は 英植民地のマレ―・コタバルへ敵前上陸、
海軍は ハワイ・真珠湾へ奇襲攻撃を同時に敢行している。
(時差の関係で陸軍が早い)
ここでは、「真珠湾攻撃」をみる。
日本海軍は空母6隻(飛行機353機)で奇襲攻撃、敵戦艦4隻を撃沈するなど、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えている。
この報は、暗電・トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)で本国にもたらされているが、それさえ聞けずに名誉の戦死を余儀なくされた兵士達が居たことを忘れてはならない。
なかでも、この作戦で用いられた特殊潜行艇・甲標的「全長:24m・全幅:1.85」5隻(2人乗り)に乗り組んだ九軍神たちである。(1人は捕虜)
結果として、彼等の現場での戦果は定かでないが、本戦争における両国民の意識高揚の小道具となったのでる。
即ち、日本では、大本営による「敵艦アリゾナ轟沈」の小道具に使われ、国民の熱狂を誘引することとなる。
一方、米国では、座礁で捕虜となったS少尉の特殊潜行艇を市中引き回しならぬ、全米本を土引き回して、ルーズベルト大統領の軍事国債発行に係る正当性の小道具に使われている。
”帰艦かなわぬ軍神たちはトラトラトラを黄泉で聞く”
後に彼等は軍神と崇められ、4ヶ月後に日比谷公園で海軍合同葬を営んで貰ったとあるが、そのご遺族には、12月8日は“痛恨の極み”の一日であったに違いない。
そして昭和20年8月15日、全戦没者310万人(軍人・軍属230万人、民間人・800万人)に及ぶ尊い人命の犠牲をもって漸く終戦を迎えたのである。
あれから73年、大きな代償を払った先人たちのお陰をもって我々が、今日の平和な御世を送らせて貰っていることを決して忘れてはならない。
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約4万5000人が参列して、犠牲者を悼んだ。
69年前の昭和20年(1945)8月6日、中部太平洋のテニアン基地から飛来した米戦略爆撃機B29エノーラ・ゲイは、午前8時15分17秒、広島に原子爆弾(リトル・ボーイ)を投下した。
『リトル・ボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。
間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、高度約580mの上空で核分裂爆発を起こし一瞬にして広島を廃墟の町に変えた。
爆心地から半径500mにいたほとんどの人々が即死したのである。』
式典には、被爆者や遺族代表、安倍首相のほか、核保有国の米、英、仏、露など68か国と欧州連合(EU)代表部の代表らが出席した由。
今日では、同式典に首相が出席するのは当たり前だが、
『初めて佐藤栄作首相が出席した1971年(昭和46)は、首相が原爆慰霊碑に献花する際に女性が突然駆け寄り「あんたなんか帰って」と叫ぶハプニング。
更に「出席阻止」を叫ぶデモ隊が機動隊と衝突する中、「戦争即時停止、核不使用協定締結」を訴える平和宣言が出されている。』
なお全国の被爆者は3月末現在で19万2719人で、前年同期から9060人減ったとある。
平均年齢は79・4歳で、前年より0・6歳上がったそうな。
今日の式典はひとり広島だけのものではなく、核の根絶は全人類の願いであり、広島・長崎の輪を全世界にもっともっと広めてゆかねばならないのである。
――黙祷・合掌――
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台風並みの暴風に見舞われた。
地表付近で南からの春の暖気と北からの寒気がぶつかり、
更に上空の気圧の谷が重なりあって急速に発達する「爆弾低気圧」
となったものだそうな。
「和歌山市で3日午後1時15分頃、最大瞬間風速41・9メートルを記録した」とある。
台風以外にこんな大きな風は初めてのことである。
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「サンフランシスコ講和条約」が調印された日である。
太平洋戦争を名実ともに終結させる対日講和会議は、1951年9月4日からサンフランシスコで開かれ、吉田茂は8日に48か国と講和条約を締結している。
会議に参加した52か国のうち、日本が講和を結んだのは、英米などの48か国である。ソ連(当時)、チェコスロバキア(同)、ポーランドは調印式を欠席した。日本は西側陣営との「単独講和」を結ぶこととなった。
ソ連などの社会主義国も含む「全面講和」か「単独講和」かは、国内でも大きな論争となっていた。吉田茂は前年5月、南原繁・東大総長の全面講和論を「曲学阿世の徒にほかならない。学者の空論だ」と激しく批判していたそうな。
※曲学阿世の徒(きょくがくあせいのと)とは、
「学(真理)を曲げて 世(特定者)に阿(おもね)る徒(ひと)」の意。
難しい時代での 吉田の英断である。
昨日もサッカーで盛り上がった。
1日のロンドン五輪出場をかけたアジア予選で、”なでしこジャパン”の勝ち点3に続き、昨夜から男子のW杯アジア3次予選が始まり、ザック・ジャパンも見事勝ち点3をとった。
ロスタイムに入り押し気味の日本、引き分けを狙う北朝鮮ゴールに怒涛のように攻め込み、MF清武のアシストでDF吉田が決勝弾を打ち込み勝ち点3をもぎとる。痛快哉。
サッカーは我々の世代では、”巨人・大鵬・玉子焼き”ではなかっが、近年その面白味を覚えたところであり、ロスタイムを含め、テレビに釘付けの声援にも力が入った。
今夜は”なでしこ”、台風そっちのけに 今からキックオフが待ち遠しい!
太平洋戦争は今から66年前の昭和二十年八月十四日に、日本は連合国に「ポツダム宣言」の受託を通知し、日本の無条件降伏でその幕を閉じている。
振り返れば、昭和16年12月の開戦から3年9ヶ月、昭和12年の日中戦争から数えれば9年、さらに昭和6年の満州事変まで遡ると実に15年に及ぶ長い戦争が日本の大敗北でようやく終っている。ここに、“日出る国・日本帝国”は崩壊したのである。
では、「日本が敗北した要因」は何であったのだろうか?・・・
第一には、その戦争計画の無謀極まる失策にあるように思う。日中戦争の泥沼に踏み込んだまま、貧弱な経済力を無視して、我が身の丈の十倍以上の経済力を有する強大国家との長期に及ぶ対決を余儀なくされたことである。
具体的には、潜水艦や飛行機による海上交通の封鎖で日本商船は壊滅し、日米両国の戦争能力の不均等を拡大させ、やがては日本経済を破綻に追い込んだ。他方、封鎖と並行する連合国の軍事作戦の圧力は、日本の陸海空戦力を次第に消耗と崩壊の一途をたどらせるに至ったのである。
専門書によると、「戦争の帰結は本土爆撃以前(昭和19年末)に、既に太平洋上または外郭防衛線上に決定されつつあった。本土空襲は日本敗北の基本的原因ではなく、日本の敗戦は本土戦略爆撃が開始される以前に既に確定的となっていたのである。そして、連合軍の潜水艦と飛行機の攻撃による日本商船の莫大な損失、日本軍の陸海空三方面における相次ぐ軍事的敗北、原爆と通常爆弾による空からの攻撃、ドイツの敗北、ソ連参戦の衝撃など、一切が相合して日本に降伏を余儀なくさせた」とある。
「太平洋戦争の負債勘定」
1、人的損害 ・・・全戦没者310万人以上(日中戦争死没者18,9万人含む)
① 軍人・軍属の戦死・行方不明:240万人(陸軍約183万人・海軍約57万人)
② 空襲・その他による一般市民の死者:70万人(うち原爆による死者:32万人)
2、物的損害 ・・・兵器の損害は当時の価格で700億円
① 軍事的損失:航空機52,700機 ・ 艦艇870隻
② 商船被害:損失814万トン・大破75万トン
3、戦 費 ・・・当時の価格で総額7,559億円(日中戦争以降の総軍事費)
昭和19年度における軍事費の歳出予算に占める比率は85,5%
4、物的資産被害 ・・・被害総額は当時の価格で653億円
建物・家財道具・港湾・運河・船舶・鉄道・車両・通信設備
「おわりに」
三百十万に及ぶ人命の損失、おびただしい国富、その他物的の莫大な犠牲や巨大な戦費を注ぎ込んだにもかかわらず、日本は無条件降伏に至っている。壮大な大東亜共栄圏のことも夢のまた夢で終り、辛うじて残された日本本土、そして外地の軍人、軍属及び居留民約七百万人が引き揚げねばならなくなった。 これが敗戦当時の日本の姿である。
“こんな無謀な戦争は決して二度と繰り返してはならぬ” 太平洋戦争の最大の教訓である。
太平洋戦争史・完 結
♪燃料片道 テンツルシャン 涙を積んで
行くは琉球 死出の旅 エーエ 死出の旅~
本土の各都市ではB29の焼夷弾による無差別攻撃が始まり、沖縄ではあらゆる特攻兵器が投入され、10万を越える沖縄県民までもが巻き込まれて、尊い命が犠牲になろうとは・・・。しかし日本は、ポツダム宣言を黙視、業を煮やしたアメリカは、広島、長崎に原爆投下に至る。
【戦 況】
1/09 「アメリカ軍、ルソン島(リンガエン湾南岸)に上陸」
2/03 「アメリカ軍、マニラに侵入」・・一ヶ月に及ぶ市街戦へ
04 「ヤルタ会談(米・英ソ)・ソ連対日参戦を決定」
19 「アメリカ軍、硫黄島上陸」・・3/17・日本軍守備隊玉砕
3/25 「アメリカ軍、沖縄・慶良間列島に上陸」
4/01 「アメリカ軍、沖縄本島に上陸」
07 「戦艦大和・徳之島沖で沈没」
※この頃陸海軍の特別攻撃隊、連日沖縄に出撃
♪泣くな嘆くな必ず帰る 桐の小箱に錦着て ああ 逢いに来てくれ 九段坂~
6/23 「沖縄の日本軍守備隊玉砕」・・戦死=日本軍9万人・一般国民10万人
8/06 「広島原爆投下」
8/08 「ソ連、対日宣戦布告」
※ヤルタ協定によってソ連は対日宣戦を通告。翌日、ソ連極東軍がソ連国境を越えて進攻し、中国東北地方全域を制圧。
8/09 「長崎に原爆投下」
アメリカは長崎にも原子爆弾を投下。熱線と熱風は川沿いの工場・学校・教会、そして爆心地から南へのびる街々を破壊し、約7万人の命が奪われた。今なお多くの人々が原爆後遺症で苦しんでいる。
8/14 「ポツダム宣言・受託」 こうして太平洋戦争(大東亜戦争)は終ったのである。 戦況編(完)
※ポツダム宣言は、7月発表の米・英・中3国の対日共同宣言である。軍国主義の絶滅、領土制限、民主化促進などを終戦の条件とし、無条件降伏を勧告。日本政府は8月14日これを受諾。戦後、占領政策の基点となった。
昨日は終戦の日であったが、残りの太平洋戦争史を完結させる。
♪空に飛び行く 翼に祈り 沖をすぎ行く 煙に誓う
国を挙げての この戦に 湧いて来る来る 撃ちてし止まん
我等はみんな 力の限り 勝利の日まで 勝利の日まで~
(勝利の日まで)
この歌にある“撃ちてし止まん”は、神武天皇が八十建(やそたける)を誅滅した時に久米部の武人に歌わせた一節にある。 昨年2月のガタルカナル撤退以降は、ラジオで”必勝の歌”が多く流れるようになる。歌の各節の末尾は、どれもが「撃たでやまじの血がをどる」で結ばれる歌である。 即ち「我々は、この天皇の大御歌にならい、米英を“うちてし止まむ”と叫ばねばならない」と説き、標題の歌をもって必勝の想いを鼓舞する狙いではあったが、はたして戦況は?・・・
【戦 況】
2/01「アメリカ軍、クェゼリン・ルオット両島(マーシャル群島)に上陸」 2/6・日本軍玉砕
17「アメリカ機動部隊、トラック島大空襲」
29「アメリカ軍、ロスネグルス島に上陸、ラバウル孤立」
3/08「インパール作戦開始」
31「アメリカ機動部隊、パラオに来襲」
6/15「アメリカ軍、サイパン島に上陸」
19「マリアナ沖海戦」(米軍は対空射撃やレーダーによって日本軍を圧倒)
「アメリカ軍マリアナ諸島に上陸」以降、B29の本土空襲の出撃基地となる
7/04「大本営、インパール作戦を中止」
07「サイパン島陥落」(死者:軍=3万・住民=1万)
島の北端へ後退していた日本守備隊は、最後の万歳突撃をして玉砕
(共に後退していた非戦闘員達の多くは兵士と共に死を選んだ)
21「アメリカ軍、グァムの上陸」8/10・日本軍玉砕
24「アメリカ軍、テニアン島に上陸」8/3・日本軍玉砕
9/10「拉孟(雲南)日本軍守備隊・玉砕」
15「アメリカ軍、ペリリュー島に上陸」
10/10「アメリカ機動部隊・沖縄空襲」
20「アメリカ軍、レイテ島に上陸」
24「レイテ島沖海戦」日本の連合艦隊と米太平洋艦隊が戦闘開始。
25「神風特別攻撃隊、アメリカ艦に突入」同隊の敷島隊が、レイテ沖海戦に出撃。 米空母に体当たりし、一隻撃沈、一隻大破させる。以降、終戦までに290回出撃し、2,500人以上の犠牲者を出す。
11/01「マリアナ基地のB29、東京初偵察」
24「B29七十機、東京初空襲」
12/09「大本営、レイテ地上決戦の方針を放棄」
【関 連】・・・「戦時下の国内の様子」
3/01 決戦非常要綱により、歌舞伎座など閉鎖
04 宝塚歌劇、この日限り休場
05 警視庁、高級料理店・バー・待合などを閉鎖
06 全国の夕刊廃止
4/01 国鉄、一等車・寝台車・食堂車全廃(旅行には統制官の承認が必要となる)
07 大都市の国民学校で給食開始
5/07 那須戦時疎開学園開園
7/18 東条内閣総辞職 → 7/22 小磯・米内内閣成立
8/04 東京の国民学校児童、集団疎開開始
22 沖縄からの疎開船・対馬丸撃沈される。
昭和19年はこうして戦っている。
つづく