本当の自分というものについて考えてみよう。
多くの人は、自分の肉体と精神をまとめて自分だと考えている。しかし、ここでぎりぎりの本当の自分について考えてみるのである。例えば、自分の手はどうだろう。自分の手は自分の一部だと思っているかもしれないが、なにかの事故で切断されたらもう自分の一部とは言えない。手だけではなく、肉体の大抵の部分は自分の本質とは別物であるということが理解できるだろうか。
「なるほど、筋肉や骨格は自分と切り離すことができるかもしれないが、脳みそこそ自分そのものと言えるのではないか。」とあなたは言うかもしれない。が、しかし脳みそも肉体であることには変わりがない。新陳代謝しているのである。最近物忘れがひどくなった私などは若い頃に比べて脳細胞が半減しているかもしれない。いずれにしろ10年前と現在の私の脳は細胞レベルで見ればまったく別物になっている。
物質的なものは自分そのものというわけにはいかないようである。ならば記憶はどうだろう。積み重なった記憶が私を構成しているというふうに考えられそうである。しかし、既に述べたのであるが、この頃私は物忘れがひどい。このままいくとそのうち何もかも忘れてしまいそうである。記憶喪失になればある意味で別人になったと言えるかもしれない。しかしここで問題としているのはそういうことではない。私が記憶をすべてなくしてしまったとしても、「私の世界」は相変わらず私に開けているということである。その限りにおいて、私は私に他ならないのである。
要は、私自身の「意識」というものを今問題にしているのだが、意識の内容は様々に変わる。その変わる要素を排除していくと必然的に「無意識」にたどり着いてしまう。その結果、無意識こそが意識そのものであるということになる。では、意識そのものである「無意識」とはなんだろう。ここで問題になるのは、意識そのものは意識のなかには無いということである。決して意識そのものを意識することはできない。前回記事の「いかなるものでないもの」を対象化できないという構造がここにもある。「無」を追求しようとすると、どのような道をたどっても必ずこの難問に突き当たる。
(つづく)
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