宗教的つくり話にはある共通点がある。一見難しそうな話でありながら実は簡単な分かりやすい構造になっているということだ。分かりやすくて多くの人々の共感を得られるような話でなくてはならないのである。本当は簡単な話であるからその本質もよくよく考えればどうでもよいような話が多いのである。
前回記事で取り上げた「信心同異の諍論」についてもう少し論じてみよう。
当時知恵第一とうたわれた法然とかけだしの親鸞の信心が同じである、と述べるといかにも逆説的で誰もが一瞬はっとする。そこで、他力の信心は阿弥陀様から頂いたものだから皆同じだと説明すると、一同なるほどと納得するわけである。いたって簡単なしかけである。
しかし、この話はよくよく考えるとおかしいのである。他力の信心であるというなら、それはすべて阿弥陀様次第というべきで、他人の信心と私の信心が同じであるかどうかとやかく言うべきも筋合いのものではない。各々の信心がそれぞれ違ったところで何の不都合があろうか。またそれが同じだと分かったところで何の得があるわけでもない。理屈を言うなら、他人の信心と私の信心が同じであるかどうか分かるはずがないのである。
親鸞も「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」と言っている。それが絶対他力の意味であろう。各々一人ひとりが阿弥陀如来と向き合っているのであって、第三者は関係ない。絶対他力の信心を比較するという発想が宗旨に反している。親鸞がこんなどうでもよい話をするわけがないのである。
どうでもよいことをさも重大事のようにとくとくと信者に説き、また人々はなるほどとありがたがる、はたから見ていてあまり気持ちの良いものではない。