坐禅をしていて、幻覚などの異常心理を悟りであると勘違いすることを、魔境に陥るという。だから修業の際は正師について学ばねばならないというのである。禅では自由な境地を尊ぶが、修行の過程はきっちり型にはめられて、決して放埓は許されない。僧堂の生活は厳格に運営されている。
魔境に落ちた代表的な人物としては、サリン事件で世間を震撼させたオーム真理教の麻原彰晃がいる。我流で修行した結果が招いた惨劇だったと言える。
しかし、誤解を恐れずに云うと、麻原彰晃はある意味において、仏教の神髄に近いとこにいたのではないかと、私は思っている。オームの信者も一人ひとりはまじめな人が多かったと聞いている。麻原のところではなく、ちゃんとした禅寺に行っておれば、ひとかどの人物になっていたと想像できるだけに残念なことだ。
このサリン事件について、ある高僧がこんなことを述べていた。
≪ サリンを撒こうとした時に、その実行犯は「本当にこんなことをしていいんだろうか?」と一瞬思ったそうである。 その時に感じた、「人を殺してはいけないんではないか?」という気持ち、我々の心の中に元々潜んでいるその気持ちを自覚するために、禅の修行をするのである。 ≫
つまり、この僧は「殺すなかれ」という定言命法 が実在すると言っている。我々の心から妄想や煩悩と言ったゴミを取り去れば、定言命法がはっきりと姿を現すというのである。もちろんこのお坊さんは、自分の体験を通した実感に基づいてこう言っているのである。
しかし、懐疑論者の私はこういう話を聞くとどうも下司の勘ぐりをしてしまう。このお坊さんのようにきちんと修行をなしとげる人は、もともとの人格者であって、修行によってその信念を磨きあげているだけではないかと思ってしまうのである。(皮肉を言いたいわけではない。このお坊さんは実に尊敬に値するりっぱな名僧である。)
もし、「殺すなかれ」という定言命法があるのであれば、修行すればするほど人を殺せなくなるはずであり、ついには正当防衛であろうとも人は殺せなくなるはずだ。
しかし、日本において禅は最初、鎌倉武士によって受け入れられたのである。潔さを旨とする武士を支える精神的支柱として禅は広がったのだ。武士はいのちのやり取りを生業とする。おのれの命に執着していては戦えない。その執着を捨てるために禅をとりいれたのである。
禅が執着を断つため、執着を断つのは相手を殺すためならば、禅は相手を殺すためのものとは言えないだろうか。
御坊哲はへ理屈を言っているとお思いだろうか?
不殺生戒は仏教において最も重要な戒律である。それを一時棚上げして成り立つ仏教というのは、もはや仏教の名に値しないのではないかとも思う。
武士に国や大義を守るためという戦うための名分はあっただろうが、サリンをまいたオーム信者にも尊師の教えに従い人々の魂を救済(ポア)するという名分があったのである。私の目には両者が同じだと見える。
ひょっとしたら、悟りが魔境でないと言いきれるのはすごく難しいことなのではないだろうか? 宗教が宗教である限り、普遍的ではありえないのではないかと私は考えているのである。