ある掲示板で次のような問いかけがなされていた。
≪なぜ人は死ぬのに頑張るのですか?最近死についてずっと考え辛くなり。何とか耐えてさぁ頑張ろうとなると次はなぜ死ぬのに頑張るの?とブレーキがかかってしまいます。 どうせ最終的には努力してきた人もしてこなかった人も何も考えられなくなるのに頑張るのかと言う質問です。これは思春期の悩みによくある事なのか、教えてください。≫
本来、「人間がいずれ死ぬ」ということと、何かに対し「頑張る・努力する」ということの間には何の関係もない。「死んで何もなくなるのだから頑張るのはむなしい。」という言い方ができるなら、「いずれ死んでしまうのだから、生きているうちは精一杯生き抜こう。」という方もできる。どちらもそれなりに一理ありそうな言い分ですが、レトリックの問題であるともいえる。要は屁理屈なのでしょう。
人が頑張るのは欲望があるからで、金持ちになりたい、異性にもてたい、権力者になりたい、ノーベル賞を取りたい、人に認められたい、ただ単に達成感を得たい、人はそのようなものに突き動かされているわけです。それらは人間を超越した視点から観れば、確かに空しいと言えるかもしれない。超越的な視点から眺めれば世界がニヒルであるのは当然です。そこには価値観とか欲望はないからです。
しかし現実存在である私たちは、すでになんらかの価値観や欲望を持っているのですからニヒルな視点に立つのは不自然です。美しくてセクシーな恋人がいて、とても惹かれあっているのにもかかわらず、「どうせ死んだら、こんなの意味ないから別れよう」などと言い出す人はいない。ものすごくお腹がすいているのに、「ご飯を食べてもいずれ死ぬのだから意味ない。食べないでおこう。」などと言い出したらなんらかの病気を疑うべきでしょう。
冒頭の質問者もおそらく何らかの屈託を抱えているのでしょう。それが一見哲学的な装いの疑問として現れているのだと思います。
明治時代に藤村操という旧制一高の生徒が華厳の滝に飛び込んだという事件があったのですが、滝の傍らの木の幹が削られていて、そこに「巌頭之感」と題する辞世の詩が記されていました。
≪悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。≫
萬有の眞相が不可解であることと投身自殺は本来何の関係もないはずなのだけれど、煩悶する若者はどうしてもそこに行き着く。惜しむらくは若者の悩みを受け止めてやる大人がそばにいなかったことでしょう。
萬有の眞相が不可解であることはいわば当たり前なのに、必然のとりこになったている現代人は、理由のない実存に不安を感じるのです。その結果奇妙なへ理屈に取り込まれてしまいます。「大なる悲觀は大なる樂觀に一致する」ことを知ったのなら別に死ぬことも無い訳なのに、なぜか意識はネガティブな方を選んでしまう。が、しかし実はそこに整合的な論理はないことを分かってほしかったと思います。不自然な理屈にとらわれることなく、自身の胸の内の本音に耳を傾けてほしい。
この世界が不可解であることの不安は、我々が無意識のうちに充足理由率を原理として受け入れていることから来ています。充足理由率とは「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」ということです。それを原理として受け入れるなら、どうしても究極的な理由を求める形而上の欲求から逃れられなくなるわけです。早い話、深刻に考えなければそこに何の問題もないのですから考えなければよい訳です。仏教ではそれに近いことを言っています。釈尊は形而上の問題にとらわれることなくこの世界をそのまま受け入れよと言います。それが仏教的諦観ということであります。
どうしても充足理由率の呪縛から逃れられない場合には、ユダヤ・キリスト教におけるような創世神を信じて、すべては神の意志であることを信じるという道もあります。