あるところで「空」について議論していたのですが、その時に「『色』の本質、すなわち実体が『空』なのです。」というような言葉が出てきました。仏教では「色は空なり」というので、そういう言い方ができるような気がするというのは理解できるのですが、哲学的な述語としての「本質」とか「実体」という言葉は用心して使う必要があります。
「本質」も「実体」も不変のものというニュアンスがあります、他に依存しないで独自に存在しえるものです。大乗仏教ではすべては縁起という関係性によって生じるとされているので、「本質」とか「実体」とかいう概念は排除されます。
そもそも、仏教でいう「空」とは「本質」や「実体」がないという意味です。だとすると、「『色』の本質、すなわち実体が『空』である。」という言い方はとても奇妙なものになります。「『色』の実体は実体がないことである。」つまり「『色』は『実体がない』という実体をもつ。」
私には、「『本質がない』という本質」または「『実体をもたない』という実体」が何を意味するのかが分からないのですが、このような言葉の操作が建設的であるとは思えないのです。「空」を一つの性質として見る視点というものは、やはり龍樹に叱られそうな気がします。何事も徹底性が必要です。空という概念もまた空であります、そこに固定的な性質があると見てはならないと思うのです。
仏教において中道を守るというのは非常に難しいことです。我々の思考は惰性に陥りやすいからです。つい言葉を機械的に運用してしまい、その結果言語に支配され考えが偏ってしまうのです。それを避けるために坐禅はあるのでしょう。
上記の問題とよく似た例で今度は「無常」を取り上げてみましょう。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
ご存じ平家物語の冒頭の部分ですが、問題にしたいのは「盛者必衰の理をあらわす」の部分です。仏教における「無常」や「空」は、この世界を支配する超越者がいないというニヒルな世界観からくるものです。だから世界は偶然的であり不規則なのです。「おごった盛者を懲らしめてやろう」というのは人間的価値観です。この世界にはそういったものを調整しようという意志も力も働きません。ある意味「神も仏もない」のが無常の世界の恐ろしさであります。
空であるこの世界には実体がない。実体がないから固定的な形としてはとどまることが出来ない、その変化には差配する主体もないから偶然的である。それが仏教でいう無常です。そこに「盛者必衰の理」などというものがあろうはずはないのです。