前回記事で取り上げた平家物語の冒頭部分の「盛者必衰の理をあらわす」という表現には、世間とはこれこれこういうものだよ、というような傍観者的なニュアンスがあります。一般的に日本文学における無常は、西行などに見られるように、無常をはかなんで出世間した視点から詠嘆的に描かれることが多いように思います。仏教は常に我々のリアルな実存を問題にしているのですから、自分自身が無常のど真ん中に居ることを意識しなければ意味がありません。
釈尊はその上で無常の世界をそのまま受け入れよと説きます。このことの意味を悟るのはなかなか難しい。我々はついつい必然の世界に生きていると錯覚してものごとに執着してしまうからです。なぜ自分は金持ちでないのか? なぜ自分の好きな異性が自分を好きになってくれないのか? 日本ハムの大谷選手のように投手として超一流なだけでなく打者としての天分にも恵まれている、おまけに男前でスタイルもいい、そんな人が居るかと思えば、私のように無芸でむさくるしい男もいる。考えてみれば不条理なことでありますが、それはいかんともすることはできないのです。
キサー・ゴータミーという女性がわが子をなくして悲しんでいました。あまりにかわいい子だったのでその母親はわが子の死を受け入れることが出来ませんでした。そこへ釈尊が通りかかったのです。母親は釈尊に何とか息子を生き返らせてほしいと嘆願します。釈尊は「身内からひとりも死者を出したことのない家から白いけしの実をもらって飲ませなさい。そうすればその子は生き返るでしょう。」と答えたのです。そしてゴータミーは必死に駆けずり回って、今までに不幸がおとずれなかった家を探します。もちろん、身内から死者を出したことのない家などあるはずもありません。ゴータミーは行く先々でどの家もさまざまに不幸に見舞われていることを知ります。釈尊の元に戻って来た時には、息子の死は受け入れるしかないのだということを悟っていたのです。
よりよい人生を送るために努力するのはもちろんですが、いくら努力してもかなわぬこともあります。かなわなかった場合、私たちはどうしても「本来こうであったはず」という思いに駆られます。しかし、そういう「必然」はないのであります。仏教では超越神を想定しないのですべては偶然的なのです。東日本大震災の際に、「これは天罰である」とある政治家が言いましたが、このような考えは仏教にはなじみません。罰を与えようとする天の意志というものを認めないからです。災害に見舞われた方々は、何か悪いことをしたから罰せられたわけではなく、たまたまそういう目に遭遇しただけです。
自分の境遇をみじめに感じた場合、人はどうしても現実を受け入れることが出来ず、「本来はこうであったはず」という仮定の必然性に執着してしまいます。しかし現実に起きてしまったことはすべて受け入れるしかない。「仮定の必然性」というのは端的に存在しないのであります。このことを本当に理解するのがなかなか難しいのは、人間に知性がありすぎるからでしょう。人間以外の動物はすべて身に降りかかった運命はそのまま引き受けて、必死に生きているわけです。人間だけがいろんな架空の選択肢を比較します。しかし、実のところ架空の選択肢というものは初めから存在しない。現前しているものは究極的な真実であると諦観するしかありません。
諦観というのはネガティブな印象を免れませんが、それはこの世界の再発見でもあります。現前しているものが最終的な真実であると見極めること、それは一つの悟りです。西洋哲学では真理は見かけの世界の背後に隠れているものというニュアンスがありますが、仏教においてはすべてはこの当たり前の世界に現前していると見ます。そのような視点からこの世界を見据えるとそこに玄妙さが見えてくるのであります。「柳は緑花は紅」というのはそのことであります。
栂ノ尾の明恵上人は、あるとき野原に咲いている一輪のすみれを見つけて落涙されたと言います。「この可憐な花を一体だれが咲かせたのか? まさに玄妙である。」
この世界は苦しみと悲しみに満ちているが、無常の世界は奇跡に満ちた世界でもあります。無常の中に妙を見出すのが空観であります。