仏教では「色即是空」ということをよく言います。が、しかしこの「空」という文字がもともと空っぽを意味する言葉なので、時には真意が伝わっていないのではないかという気がします。「空」が何か幻のようなもの、というような神秘的なイメージで受け取られているのではないかと感じるのです。
仏教において「空」というときは、何物にも実体がないということを意味します。「実体」というのはちょっと難しいですが、それ独自で存在する絶対的なものを意味します。プラトンの言うイデアのようなものです。
人間は一人一人違っても、みな人間であるとわかります。その理由について、プラトンは一人一人が人間のイデアをもっているからだと言います。人間のイデアはどの個別の人間でもないが絶対不変の範型として形而上の領域に存在する、というのがプラトンの考えです。
一方仏教は、この世界は流動的、偶然的で固定的なものは何もないと考えます。流動的な質料の中で、偶々たんぱく質や遺伝子や生物ができたと考えます。人間もその中でたまたまできたものにすぎません。もし地球上に初めて生まれた人間というものを特定できるなら、その親は人間でないということになります。人間が人間以外からは生まれないのだとしたら、人間は存在しなかったでしょう。つまり人間と人間以外を区別する厳密な境界も定かではないと言いたいのです。たまたまいま生きているよく似たもの同士を互いに「人間」と呼び合っているに過ぎない。
西洋哲学では、「真・善・美」ということをよく言いますが、仏教ではそれも普遍的なものであるとは認めません。一切皆空を標榜する仏教では、いかなる概念の絶対性も認めないのです。当然、究極的な意味においては「善悪」というものもあり得ない、その時代その人の立ち位置によって恣意的に判断しているにすぎない、ということになります。
「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」 (歎異抄より)
親鸞にすれば、ものごとを善悪で割り切ることも「有無の邪見」にとらわれていることに他なりません。
なにごとも固定的な概念規定にとらわれない、というのが「色即是空」の趣旨でしょう。「空」とは何もないとか空っぽとかいう意味ではありません。一切皆空であると観じたなら、見たままの世界を既成概念による臆見にとらわれず、ありのままリアルに受け止めるというのが本来の趣旨でしょう。最近は、「『色即是空』もまた空である」というような言い回しをよく聞きますが、一切皆空なのだからそんなことは当たり前であります。しかし、意味も考えずに紋切り型にそのようなことを口走るのはもっともその言葉の精神に背くことでもあります。
固定観念や臆見にとらわれない、というのは言葉でいうのはたやすいですが、並大抵のことではありません。我々の思考は常に概念に頼っているからです。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」
有名な平家物語の冒頭の部分ですが、無常感を表現しているものとされています。文学的に美しい文章ではありますが、これが仏教的であるかというと異議を唱えたくなります。仏教では、この世界を差配する神というものを想定しないので、その世界観はある意味ニヒルであります。であるから、そこには「盛者必衰の理」などという予定調和もまたあり得ないのです。「無常」は何者の支配も受けず、偶然的で無根拠であるという、冷酷な宇宙観がそこにはあるのです。
釈尊は、その冷酷な宇宙をそのまま受け入れよと説きます。臆見のない目で世界を見つめ、それを受け入れる覚悟ができたなら、そこに妙が生まれるということなのです。