禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

世界はなぜ「ある」のか?

2018-08-18 10:40:21 | 哲学

東日本大震災の際に、被災した人々が過酷な状況の中でも、恐慌をきたさず秩序正しく協力し合っていたことに対して、世界中から称賛の声が寄せられた。こういうことから見て、日本人は西洋の人々に比べて現実を受容する力が強いのではないかと考えられる。おそらく日本人の精神の深層には仏教による影響があるのではないだろうか。仏教的諦観というのは現実に起こってしまったことは受け入れるしかないということを言う。現前する事実を前にして、自分の望むべき架空の状況に執着することは無意味であると仏教は説く。ところが、西洋の人々にとっては、神が造り給うたこの世界は理性が行き届いているはずのものだから、著しい理不尽さというものは受け入れがたいものになるはずである。もちろん個人々々による違いの方が大きいだろうが、大雑把に言ってそのような傾向があるのではないかと思う。 


「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 という疑問も、日本人と西洋人では受け止め方に相当隔たりがあるのではないかと思う。想像するに、大方の日本人にとってこの問題は、「そんなこと考えたって分かるわけねぇじゃないか」という話になるのではないかと思うのである。しかし、西洋人にとってこの問題は我々が考えている以上の切実さがあるらしい。先日から、ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか?」という本を読んでいて、つくづくそういうことを感じたのである。この問題はまた神の存在論的証明と関連付けて論じられている辺りにもうかがえる。 


【 ここには、次のような、より重大な問題が潜んでいる。論理のみで、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに答えられるだろうか? 純粋な思考によって、無に必ず打ち勝つ現実の存在を獲得できるだろうか? バートランド・ラッセルはこう述べた。「どの哲学者もイエスと言いたいと思っている。その理由は、哲学者の仕事は、観察ではなく、思考によって世界に関することを解明することだからだ」。そしてラッセルは、もし「イエス」という答えが正しければ、純粋な思考から確固とした存在への「橋」があると申し添えている。 】( 文庫版 P.201 より ) 

バートランド・ラッセルは私より何十倍も頭が良いことは認めるが、彼がここで述べていることは私には妄想としか思えないのである。いかなることも、事実を経験することから始まるのである。なんの事実(観察)もなく、無の状態から思考(論理の運用)が動き出すということはあり得ない。いくら考えても「イエス」という答えは出てくるはずもない。論理学の大家であるラッセルがそんなことをわきまえていないはずはないのだが、「イエス」と言いたい衝動を持て余しているように見受けられる。やはり西洋文化はロゴスによって支配されているとしか言いようがないような気がする。

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