前回記事に引き続き「世界はなぜ『ある』のか?」(ジム・ホルト著)から、神の存在論的証明というものをご紹介したい。中世ヨーロッパの神学者、聖アンセルムスは初めて神の存在を純粋な理論によって証明しようとした人である。その論証過程をジム・ホルトは次のようにまとめている。
① 神は、想像し得る何かのなかでもっとも偉大である。
② 単なる想像上の何かよりも、存在する何かの方が偉大である。
ゆえに、③ 神は存在する。
①は問題ない、それが神の定義なのだから。問題があるとすれば②だろう。西洋人が考える神の「偉大さ」というのはすべての能力と性質を兼ね備えているという意味があるのだろう。だから「存在する」という性質もその「偉大さ」の中に含まれているということになる。
したがって、もし神が存在しないものであると仮定したら、私達はそれが存在することを想像することができるのであるから、「神以上のもの」を想像できることになってしまう。それは神の定義としての①に矛盾するから、神は存在するはずだという理屈である。
要は①のの定義の中に、「存在するもの」が含まれている。だから、③は結局「存在するものは存在する」と言っているに等しい。たいていの日本人の感覚からすると、いわゆる屁理屈の部類に入るものだが、当時のヨーロッパの最高の知性が真剣にこういうことを考えていたのである。
この「存在するものは存在する」という結論を、カントは「哀れなトートロジー」と呼んだ。本当なら「『存在するもの』と定義されたものは存在する」と表記しなければならない、見せかけのトートロジーである。当然のことだが、『存在するもの』と定義されただけでは存在するとは言えないのは、小学生でもわかる道理である。
アンセルムスは1000年も前の人であるが、驚いたことにこうした努力は現在も引き継がれているのである。20世紀における最高の論理学者と言われるクルト・ゲーデルまでもが「様相論理」という高度なツールを使用して、神の存在を証明したと言われている。アンセルムスの証明の仕組みは私でも理解できるほど簡単なものであったが、ゲーデルの方は難しすぎてよく分からない。もしかしたら、本当に神さまはいるのかも知れない‥‥。