ウィトゲンシュタインは二十世紀最高の哲学者と言われているが、その言説が禅に通じるところがあるとも言われている。現実には、両者の隔たりは大きく、ある意味において対極にあるのではないかと私は考えている。しかし、ウィトゲンシュタインの言葉には確かに禅に通じるものがあることは間違いない。以下に、『論理哲学論考』の5.631項を引用する。
【 5.631 思考し表象する主体は存在しない。
「私が見出した世界」という書物を私が書くとすれば、その書物の中で私の身体についても報告がなされ、また、どの部分が私の意思に従い、どの部分が従わないか等も語られなければならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりもむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法なのである。すなわち、この書物の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。】
つまり、この世界についてのあらゆる事柄を記した書物を書いたとしても、その書物の中に「私」は登場してこない、と述べているのである。目の前に山や川や木がある、カレーライスの匂いがする、鳥のさえずりが聞こえる。しかし、それらを認識している主体「私」はどこにも見つからない。道元禅師の「自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり」という言葉に通じるものがある。万法とは、山や川や木、カレーライスの匂い、鳥のさえずり等のことである。「私」というものはそれらとの関係性の中に構成されたものに過ぎない。
ウィトゲンシュタインと禅者に共通点があるとすれば、虚心坦懐にものを「見る」というところにあるのだと思う。主体の非存在ということは単なる事実であるから、坐禅による瞑想によらなければ知りえないという性質のものではない。西洋哲学においても、いつまでも主客二元的な枠組みにとらわれているわけではないということなのだろう。このことをもって、ウィトゲンシュタインと禅が近いということは言えないように思う。