「利己的な遺伝子」という本が一時もてはやされたことがあったが、まるで遺伝子そのものに意志があるかのようなタイトルである。センセーショナルなタイトルだが、たぶん出版社が付けたタイトルであるような気がする。淘汰圧に直接さらされるのは個体であって遺伝子ではないのだから、「利己的な遺伝子」というのは言い過ぎのような気がするのだがどうだろうか。
近年では「代理母」などということも行われていて、生まれた子どもを契約通りに引き渡してくれないなどというトラブルもままあると言われている。このトラブルの原因は、「母親」の概念が「生みの母」と「生物学的母」に引き裂かれていることにある。
実のところ、私はこの「生物学的母」という言葉には大いに抵抗を感じているのである。単に遺伝子を引き継いでいるだけなのだから「遺伝学的母」と言うならまだわかるのだが、遺伝子のことを人間の本質であるかのようにとらえるような風潮には異を唱えたいと思う。
遺伝子はつまるところ4種の塩基による配列からなるデジタル情報である。その遺伝子情報をすべて解読したら、人間が作れるだろうか? 作れるはずがない。遺伝子によって人間が作れると考えるのは、精密な工業製品を工場長一人で作れると考えるのと同じようなことである。もし、その工場長がラインの仕組みをすべて知っていたとしても、そのラインの中のちっちゃな部品の一つも実際に作ってはいないし、また作れないと考えるべきだろう。遺伝子配列だけで決して人間は造れない。それを解読して、必要なものを必要なタイミングでつくり組み合わせる、そういうシステムが遺伝子とは別に備わっていないと人間はできないし、その遺伝子以外のシステムの方がはるかに複雑で大規模なはずである。遺伝子は重要なパーツではあっても、あくまでパーツに過ぎない。遺伝子と人間を同一視するというのはとんでもない錯誤であると思う。
同様な錯誤は言葉に対してもある。
菜の花や月は東に日は西に
ご存じ与謝蕪村の句である。画家である蕪村の句は一般にイメージ喚起力が強い。この句も、菜の花畑を挟んで西と東にひと月が対峙するという、雄大なスペクタクルを想起させるそんな作品である。実は、この句のテキストはコンピュータ的には24バイトの情報量しかない。ちなみに私のコンピューターのモニターの壁紙に使用している写真は2メガバイトを超えている。蕪村の句のざっと10万倍である。蕪村の句が伝えるものが壁紙の10万分の一しかないほど貧弱であるとは思えない。一体これはどういうことだろう。俳句の言語としての情報量はごくわずかなものでしかない。これが芸術作品として成立するためには、作者と鑑賞者に共通の類似体験が前提となっている。素晴らしい光景を目にした蕪村は感動を他者に伝えたいと思い、その光景を「菜の花」、「東の月」、「西の日」という概念に分解し、12文字のテキストにおさめる。鑑賞する側は、テキストにおさめられた概念をKeyとして対応するイメージを自分の経験の中から検索して合成するのである。当然のことだが、読者がイメージを合成する場合のイメージは読者自身の経験によるものであり、作者の経験とは全く無関係である。作品は作者と読者の共通の経験に支えられていると言っても、各個人の経験は他者とは遮断されている。であるから、「菜の花」という概念から読者がイメージするものは、蕪村の見た光景とは全く別のものになるのは当然である。
これはなにも俳句だけの話ではない。言葉が通じるということの裏には、話し手と聞き手の双方に共通の経験が有るということが前提されている。ところが、話し手と聞き手の双方の共通の経験が同じであるとは考えにくい。話し手は自分の経験をもとに言葉に恣意的に思いを託し、聞き手は自分の経験をもとにその想いを恣意的に再構成しているのだ。われわれは話すことと聞くことは一つの行為であると思いがちだが、実は全然別のできごとなのである。われわれは直接言葉を相手に送り届け、また直接受け取っているつもりになっているが、そこに錯覚がある。言語は共通であると言いながら、実は各人が恣意的に運用せざるを得ない宿命にある。
言葉と遺伝子はよく似ていると私は思う。そしてどちらも過大評価されているとも思う。
三つ峠山 (山梨県)