存在を「世界」という絶対的地平でとらえるのではなく、それぞれの「意味の場」においてとらえるというのは一見説得力がありそうに見える。そうすると、大抵のものはなんらかの「意味の場」において、確実に存在すると言えるようになる。問題としたいのは、どんな「意味の場」もさらにそれを包摂する意味の場における対象であるとしていることである。つまり、意味の場は無限の階層を構成する。(それがまたすべてを包摂する基底となる意味の場〔すなわち「世界」〕が存在しないことの理由にもなっている。)それでいいのだろうか? どんな意味の場も本当に対象化されるのだろうか? 新実在論によれば、「竜宮城は存在する」ということがある意味の場では確実に言える。この場合、その意味の場は「浦島太郎の物語」ということになるだろう。「浦島太郎の物語」は初めから対象化されているのでこれについては分かりやすい。
では、街で友人の鈴木君とばったり出会った時、鈴木君はどういう意味の場に現れているのだろうか? 「11月21日午後5時の御坊哲の視野」という意味の場ということで良いだろうか? では、「11月21日午後5時の御坊哲の視野」という言葉で対象化されたものは、どの意味の場に現れているのだろう?
「11月21日午後5時の御坊哲の視野」というのは、その時の自分では対象化できない。私の視野を対象化するためにはその時の私を俯瞰する架空の視点が必要となる。だが禅的視点というのは、「ただ今即今、ここ」にしかない。その時の私の視野には、鈴木君や街の様子がある。しかし、私の視野そのものは私の視野の中には無いのである。実存的な視野は決して対象化されることはない。
実存的視野というものを、あえて西田幾多郎の言葉を借りて表現すれば「無の場所」ということになる。それは決して対象化されない。有るとか無いとか言えるものではない、哲学的に言えば存在者ではないからである。鈴木君は、どんな意味の場でもなく、ただ端的に現れただけなのである。
神鈴の滝遊歩道 ( 山梨県西桂町 )