女性は子供を産んだその時から母親としての自覚を持つらしいが、男の方はそうでもないと言うか、少なくとも私はそうではなかった。近頃は男性も女性とともに胎教に参加して、出産にも立ち会ったりするそうだけど、私が結婚したころはそういう方面の意識はあまり高くなかった。妻は長男を実家のある田舎の病院で出産したのであるが、私はそこに駆け付けもせず電話で連絡を受けただけであった。息子との初対面を果たしたのは一週間程過ぎた頃であったと記憶している。
赤ん坊はとても可愛かった。瞳をのぞき込むとニカッと微笑み返す、その表情には随分と癒されたものである。しかしそれは単に、「可愛いから可愛い」という域を出てはいなかった。まだまだ血の絆というようなものは感じていなかったような気がする。
それは息子が三歳になる前頃のことだった。ある日私は仕事を終えて帰ってきた時のこと、集合住宅のエレベータを降りると、自宅前の通路で息子と隣の家の友達がしゃがみこんで遊んでいた。
「いったい何をしているのだろう?」と目を凝らしながら近づくと、私の足音に気がついて息子が顔を上げた。その視線が私を捉えたその瞬間、彼ははっと顔を輝かせて立ち上がり、おぼつかない足取りで私の方に駆け寄ってきた。「胸を衝かれる」というのはこのことである。私の胸の中に飛び込んできた小さな体を抱きしめながら、私は分不相応な宝物を得たことをはっきり認識したのである。それもなんの対価も払わずにである。その時から私は父親になったのだと思っている。
たぶん、私と同じ経験をした人は多いと思う。
横須賀 三笠公園入口 (記事本文とは関係ありません)