いわゆる「袴田事件」の再審公判において、検察側は有罪立証する方針であるらしい。本日(7/10)中にもその方針を再審公判が行われる静岡地裁に伝えられるものとみられている。
この事件についてはいろんな人がその研究結果を発表しているが、それらを読む限りこれは冤罪以外のなにものでもないとしか思えない。なぜ袴田さんが事件の容疑者として浮かび上がったか? それは、元プロボクサーだったから。「ボクシングやるような粗野な奴だから‥‥」というイメージによる思い込み以外に、彼を犯人と決めつける要素は何もなかったのである。彼にとって有利な証拠をすべて避けるような不自然なストーリーがでっち上げられ、そのストーリーに沿って証言を誘導していった。そうとしか考えられない。そして唯一の決め手となる物証がなんと逮捕から約1年後にみそタンク内で見つかった「5点の衣類」で あった。しかし、それも今年の三月に東京高裁によって、逮捕後に捜査機関によって捏造された証拠の可能性が「極めて高い」と指摘されたのである。
もはや有罪判決が出る見込みはあるはずもない。検察は一体どうやって有罪を立証するつもりなのか? 有罪立証へのモチベーションがどこから出てくるのかが外部のものには皆目分からない。「組織の惰性」というしかないようなものの仕業としか思えない。検察は半世紀以上も前の事件について新たな証拠を揚げることができるのか? 袴田さんはすでに87歳である。このままずるずると時間切れを狙っているとしたらそれは罪深いことである。
もしねつ造した証拠によって無実の人を罪に陥れたなら、それは立派な犯罪である。半世紀以上に渡るその人の人生を奪うという、金品を奪うなどというのとは比べようもない重篤な犯罪である。2014年の静岡地裁による再審決定の際には次のような意見が付け加えられていた。
《5点の衣類という最も重要な証拠が捜査機関によって捏造(ねつぞう)された疑いが相当程度ある。国家機関が無実の個人を陥れ、身体を拘束し続けたことになる》
《拘置をこれ以上継続することは、耐えがたいほど正義に反する。一刻も早く身柄を解放すべきである》
裁判所がここまで踏み込んだ意見を付け加えているのである。検察が裁判に負けることを恐れて、いたずらに審理を引き延ばそうとしているのならば、それは他人の人生を奪うという犯罪に加担しているのと同じであって、著しく正義に悖る行為であると言わねばならない。 2011年9月に最高検察庁が策定し公表した『検察の理念』なる文書がある。検察の使命と役割を明確にし、検察官が職務を遂行する際に指針とすべき基本的な心構えを示したものだが、その中に下記の一文が含まれている。
≪ あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処罰の実現を成果と見なすかのごとき姿勢となってはならない。≫
このような自戒を規定しているにもかかわらず、依然として「有罪そのものを目的」としているかの如き姿勢が見受けられるのはなぜだろう。その動機の源泉となっているものを私は知りたい。