禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

全知全能の神?

2021-03-31 15:46:30 | 哲学
 初めにことわっておきますが、私はアマチュア哲学者として考えたことをそのまま表現します。特定の宗教や信仰を非難する意図は全くありません。これから述べようとしていることは、キリスト教などの絶対神を信仰している方には受け入れがたいことことかも知れませんが、まあこういう考え方もあるのだなという程度に受け止めていただければと思います。
 もし神が全知全能であるなら、神は私つまり御坊哲という人間を認識していないと思います。もちろん神は全知全能ですから、あらゆることを知っています。しかし、ものごとの認識の仕方がわれわれ人間とはあまりに違い過ぎるのです。私たちは特定の人を思い浮かべる時はたいていその人の顔を思い浮かべます。つまり、私たちにとって「人≒顔」です。その時、その他のことは捨象されています。しかし、神はそのような皮相的なものの見方はしません。神は御坊哲の全てを知り抜いています。人間の表面の顔を見たときはその下のドクロまで見えています。それどころか、その体を構成する全細胞、その細胞を構成する全分子、いやもっと微細なレベルにおいて把握しているはずです。そして、全能であるがゆえに抽象とか捨象とかする必要も無いので、あらゆる素粒子の運動や生成消滅をダイナミックにそのまま把握しているのです。つまり、神にはすべてが見えている。逆説的ですが、御坊哲についてもそのすべてが見えているために、「御坊哲」という意味は後退してしまうのです。
 そろそろ、桜の花が散り始め新緑が鮮やかになる季節です。しかし、私たちか美しいと感じるその景色を神は美しいと感じるかどうかは疑問です。神が見ている景色と私たちが見ている景色は余りにも違いすぎます。私たちには自分の目に入った特定の波長の可視光線しか見えませんが、神は空中を飛び交っているあらゆる電磁波を把握しています。ショパンのピアノ曲を聴くと、私たちはそのメロディーの美しさに感動しますが、神にとってはそれはただの空気振動に過ぎないでしょう。神はこの世界を視覚や聴覚でとらえているわけではないので、ある意味、神は無色無音の世界に居るとも考えられます。眼や耳や触覚の感覚をもとに世界を構成している我々とは、全く違うものを神は見ているのです。
      
 上の図はご存知の方も多いと思いますが、いわゆるアヒルウサギというものです。見ようによってアヒルに見えたりウサギに見えたりします。どちらに見えるかは、視点の置き方によって違います。このことから分かるのは、私たちは自分の視界の中に何か意味(ゲシュタルト)を見出だそうとしているということです。そして、ウサギに見える時はアヒルは無くなり、アヒルに見える時はウサギは無くなります。同じものを見ながら、見ているものが違う。無意識の内に抽象と捨象が行われていることが分かります。われわれの能力は小さいので、よけいな情報は捨象しなければ、ものごとの意味を見いだせなくなって世界はカオスになってしまうでしょう。人間のものの見方はどうしても恣意的にならざるを得ないのです。神は全知全能ですから、世界をすべてそのまま把握します。取り立ててその中に意味を見出す必要などないのです。紙に描かれたアヒルウサギは、単に紙の上のインクの粒子として、その一粒ごとの位置を正確に神は把握している。それだけです。
 神には思考というものも必要ありません。全知全能ですから、いろんなことを比較して検討するということが必要ないからです。つまり神の意思はそのまま最善のものであり、全能であるがゆえに意思すると同時に、それはすでに実現されているはずです。
ん。すると、この世界はすべて神の意思そのものだということになりますね。つまり、「世界=神」だと言い切ってしまっても問題ないような気がします。結局、神がいても無くても同じということにはなりませんか?
 
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