禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

この世界は信じることによって成り立っている (その1)

2024-09-19 15:46:42 | 哲学
 ある哲学系のSNSで「私たちは科学を(宗教を信じるように)信じている」と述べたら、ほとんどのメンバーから反発を食らってしまった。「信じる」と言う言葉には “根拠なしに゛とか “盲目的に゛というようなニュアンスを感じるのだろう。そういう意味で科学は「信じる」対象以上のものだと感じているのだと思う。しかし、現代哲学では「私たちのほとんどが科学を信じている」ということは常識と言ってもいいほどなのである。

 ここで私が「信じる」と言っているのは、「理性的にはそうではないと疑う余地があるにもかかわらず、感性的にはそうであると認めてしまっている」そういう状態を指します。分かりやすい例えで言うと、あなたが道を歩いている時、一歩一歩踏み進むその足をちゃんと地面が支えてくれると信じているはずです。もしかしたら、その歩道のブロックは張りぼてで落とし穴をカモフラージュしているだけかも知れないとは考えたりしない。そのような可能性をいちいち気にしていたら神経症になってしまうでしょう。あなたは道路の目の前の部分が精巧にカモフラージュされた落とし穴であるかも知れない可能性は全否定はしないはずなのに、そういう不安は全然感じすに安心しながら歩いている。つまりあなたは目の前の道がちゃんとした道であることを信じているわけです。そのように信じる安心感はどこからくるのかというと、長い年月の間道路を安全に歩いてきた実績からきているわけです。ロシアと闘っているウクライナ兵だとそうはいきません。前進するその先の大地にはロシア兵が埋めた地雷があるかも知れないからです。一歩一歩疑心暗鬼で進まなくてはなりません。

 「朝のこない夜はない」 という言葉があります。もしかしたらこのことはあまりにも当たり前すぎて「信じている」ということさえ意識できないかもしれない。しかし、よくよく考えてみれば、私たちの理性はこのことを疑うことができるということが分かるはずです。もしかしたら、光速に近い速度で飛んでいる巨大なエネルギーを持つ粒子が地球にぶつかって破壊してしまうかもしれません。それは絶対にあり得ないことではないのです。それでもやはり、真顔で「明日の朝は来ないかもしれない」などというべきではないでしょう。明日の朝はまず間違いなく来ると私は信じています

 ここで理性が認めることと感性が認める事との違いについて説明しておきましょう。
    大前提:全ての人間は死ぬ。
    小前提:ソクラテスは人間である。
    結論 :ゆえにソクラテスは死ぬ。
上記は誰もが知る三段論法の例ですが、大前提と小前提が正しいなら結論は絶対正しいということは疑いの無いことですね。大前提と小前提が正しいけれど結論が間違っているという事態を私たちは想像することができません。つまり三段論法は私たちの理性を納得させる強制力を持っていることが分かります。三段論法のように理性に沿った思考手順を「論理」と言います。日常会話では論理も理論も同じような意味合いで使用されることがままありますが、理論は論理を組み立てて構成するものです。

 日常会話では、「私はピタゴラスの定理が正しいことを信じる」というようなことはあまり言いません。ピタゴラスの定理は信じようと信じまいと正しいからです。ピタゴラスの定理は正しいことが証明されています。公理を前提として論理を連ねて結論としてのピタゴラスの定理を導き出す、それが証明です。論理は私たちの理性を納得させる強制力を持つので、私たちは証明の結果を受け入れるしかないのです。数学の証明のように論理を連ねることを演繹と言い、演繹によって命題を導き出す方法を演繹法と言います。

 では、科学もすべて論理によって組み立てれば絶対正しいと言えるのではないか? と言いたくなるかもしれませんがそうもいかないのです。数学では勝手に公理を設定し、それを前提として純粋に論理だけで理論を組み立てることがてきますが、現実を扱う科学はそうもいきません。それに演繹法というのは実に当たり前のことを導き出すだけで、前提となる事実以上のゆたかな情報はなんら生み出さないのです。前に挙げた三段論法の例で言うと、結論としての「ソクラテスは死ぬ」ということが分かっていなければ前提としての「すべての人は死ぬ」ということも言えないはずです。演繹法というのは実は私たちの考えを整理するだけの役目しか果たしていないのです。

 現実において有意義な命題はほとんど経験事実からの帰納によって導き出されます。「朝のこない夜はない」 というのは、毎日夜が明けて朝が来るという経験事実から導き出されたものです。経験事実からなんらかの結果としての命題を導き出すことを帰納と言い、そのような方法を帰納法と言います。科学は実験や観察という経験事実から一般法則を導き出す学問ですが、その理論化には数学的な演繹法を用いていますが、そもそも経験事実から出発しているので帰納法も重要な役割を担っています。

(その2に続く)

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