「なぜ世界は存在しないのか」という本のタイトルが以前から気になっていたが、読みかけの本がたくさんあるので、なかなか手が回らない。で、先日本屋で頭の50頁ほど立ち読みしたのだが、なかなか面白そう。「新実在論」とやらについては皆目見当もつかないが、とりあえず、不思議なタイトルの謎については大体理解できた(と思う)。
われわれは何気なく「世界」という言葉を使用しているが、その言葉の意味はそれほど明晰ではない。それはあらゆるものを含む言葉とされているが、論理の世界においては、この「あらゆる」というのはかなり問題含みの言葉である。というのは、未だ遭遇したことのないもの、考えたこともないものまで含んでいるとされるからである。端的に言うと、「世界」には私の知らないものまで含まれている。厳密に言えば、私は「世界」という言葉をその指示対象がなんであるかを分からないまま使用しているのである。
「あらゆる盾をつきとおす矛」と「あらゆる矛を撥ね返す盾」は明らかに両立しない。それぞれ単独であれば概念として成立しているかのように見える。しかし、「あらゆる」は私の想定外のものまで含めてしまうので、「あらゆる盾をつきとおす矛」という言葉が意味するところを、実は私は知らないのである。
「世界」という言葉もそのような類の言葉である。つまり、私が口にする「世界」というようなものは実は存在しない。
ウィトゲンシュタインは、「世界とはものではなく事実の総体である」と言っている。彼の言う「事実」というのは真なるものという意味である。真であるためには論理的に明晰であらねばならない。論理的に経験可能でなければ真偽を問えない。しかし、日常語としての「世界」は論理的に不可能なものまで含んでいると考えられるのである。
当該本については今年中に読んで、その内容についてもご報告したいと考えている。
先週久々に冠雪の富士を見た。
世界は何で構成されているか?地球や人や犬猫その他の動物,松梅桜その他の植物,・・・etc.と考えるのが普通ですが、論理学上はそうではないとヴィトゲンシュタインは言います。モノではなくセンテンスの総体が世界だ、というのです。
はじめまして。
私は具体的事実しか経験できない。ものはその事実の中に含まれているのであって、ものの存在そのものだけがむき出しで表れることはない。
というふうに考えれば、「世界は事実の総体であって、ものの総体ではない。」というのは、パラダイムの転換というよりむしろ当たり前のような気がします。
「(真なる)センテンスの総体が世界だ」は言い過ぎで、そこは「世界像」とすべきと思います。
第3章(↓)
https://blog.goo.ne.jp/mobilis-in-mobili/e/c22eb957954260fb9f6823fbcebb1842
というのは独我論者であったらしいくらいしか
知識がありません。あると無いを決めるのは
個人だとおもいます。