こんばんは、白黒茶々です。
天竜二俣駅前のお店で転車台カレーを回したり、いるハズのない大垣千明と記念撮影をしたり、………と、鉄道関係でいろいろと楽しんだ後は、気持ちを天竜区の歴史散策に切り替えました。 天竜二俣駅の東、二俣本町駅から程近いところにある山道を車で登っていき、山頂付近の駐車場から歩いていったら………
そのお城の大手道に入りました。 さらにその先には………
まわりを石垣で囲まれた本丸跡があり………
その正面入口となる大手口は、開口が大きく開けられています。 これらの特徴から、これはどのお城かおわかりでしょうか?
………って狛ちゃ、こんな肝心な場面で気を緩めないでください
こちらは鳥羽山城であります。 さらに北西に500m程のところには二俣城があって、そのお城をめぐる徳川氏と武田氏との攻防戦の際には、こちらに徳川方の本陣が築かれました。
関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)以降は豊臣方の堀尾吉晴の統治下におかれ、石垣を有する近世の城に改築されました。
ただし大手口が開放的で、枯山水の庭園跡が出土したことから、鳥羽山城は軍事的な要素より、迎賓機能を備えた領主の居館だったと推定されています。
標高108mの山頂にある本丸跡は広い広場となっていて、その南端に設けられた展望台からは………
天竜川を隔てて浜北区一帯を眺めることができます。 ただしこれから向かう二俣城は、こちらとは逆方向にあるのですよ。
………ということで、二俣城にやって来ました ちょっとわかりづらいのですけど、その眼下には天竜川が流れています。
こちらのお城は、天竜川と二俣川に囲まれた丘陵という天然の要害の地に築かれました。
まずは、北曲輪跡に創らた旭ヶ丘神社を参拝してから………
焦らすというか、いきなり本丸跡に入っていくのもナンなので、二の丸大手門跡に廻りました。 この高いところに石垣が聳えている景観は、いいと思いませんか?
この二俣城は、徳川家と武田家の攻防戦の舞台にもなりました。 元亀3年(1572年)10月に、武田信玄は大軍を率いて信濃から遠江に侵攻しました。
その際に、息子の勝頼の軍が二俣城を攻撃することに。二俣城は当時徳川家康が本拠としていた浜松城の北の重要な守りで、もし落ちるようなことがあったら、家康は大ピンチに陥ります。
とはいっても、二俣城は立地からしても難攻不落の城なので、よっぽどのことでもない限り大丈夫なハズです。
二俣城の北部の清瀧寺には、かつてお城にあったとされる水の手櫓が復元されています。 二俣城では城兵がこの櫓から天竜川の水を汲み上げて、利用していました。そのことに着目した勝頼は大量のいかだを天竜川に流して、水の手櫓を破壊。
水源を絶たれた籠城側は戦意を失い、二俣城は落城してしまいました。
さらに武田信玄の軍は、12月23日に三方ヶ原で徳川家康・織田の連合軍と対決。
相手を完膚なきままに叩きのめしました。
こちらは二の丸跡から見た蔵屋敷跡です。それらは堀切によって仕切られています。
信玄は三方ヶ原の戦いから間もなくして死去。 彼のあとを継いだ勝頼はメキメキと勢力と領地を拡大していきました。
そのような中、天正3年(1575年)5月21日におこなわれた長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍に大敗。
形勢が逆転したこともあって、家康は鳥羽山城を含めた包囲網を築いて二俣城の攻略に取り掛かり、同年の12月に開城に至りました。
私たちは、喰い違い虎口となっている本丸北門跡に差し掛かりました。
再び徳川方のものとなった二俣城には、家康の重臣の大久保忠世が入りました。 天正7年7月に、織田信長は徳川家康に彼の正室の築山殿と長男の信康を処断するように命じました。
通説では、彼女らが武田勝頼に内通していたからとされているのですけど、信康が信長の嫡男の信忠より優秀で、将来脅かす存在になるのを避けるためだったとも云われています。
しかしそのような理由だけで、信長の娘の徳姫の嫁ぎ先で、同盟関係でもった家康の長男をこの世から葬り去ろうとするのでしょうか?
波と狛の後方に見えるのは、天守台の石垣です。 家康が天正18年(1590年)に関東に移封した後、この地方は堀尾吉晴の統治下となり、二俣城は近世の城に改築されました。
天守台などの石垣は、この時に築かれたとされています。
話は戻って、家康は浜松城に移り住む際に、それまでいた岡崎城には築山殿と信康を残していきました。 そこからやがて浜松派と岡崎派で対立するようになり、そのお家騒動を鎮めるために信康が犠牲になったのかも知れません。
天守台の上からは、本丸の全体像を眺めることができます。 それにしても、波と狛は高いところでも平気みたいですね。
天正7年(1579年)9月15日、二俣城の大久保忠世のもとに身を寄せていた徳川(松平)信康は切腹して、21年の短い生涯を終えました。
私たちは再び清瀧寺を訪れました。 こちらは、信康を祀るために家康が建立したお寺です。
信康山という山号からも、息子への愛情を感じます。
本田宗一郎さんが少年時代に、弁当の時間を早めるために無断で突いたという鐘や………
静かに佇む本堂を仰ぎ見て、さらに奥のほうに行くと………
信康の廟所があります。 若くして無念の死を遂げた彼は、悲劇の武将として語り継がれています。
来年放送される大河ドラマ「どうする家康」でも、信康が死に追いやられた経緯は避けて通れないというよりは、ドラマの重要な要素となるハズです。 そのドラマではどのように描かれるのか、とても気になります。
そんな彼は地元でも愛されていて………
信康さんなるご当地キャラまで爆誕しました 波狛日記では3年ほど前に登場したことがあるのですけど、覚えている方はいらっしゃるでしょうか?
とにかくゆるくはないものの、どこか愛嬌のあるキャラクターです。
信康を追って清瀧寺に来てしまいましたけど………
今回の日記は二俣城で締めさせていただきます。 こちらで写真を撮っている間に、私は天竜二俣駅で取ってきた「ゆるキャン△」の大垣千明のQRデータがまだスマホの中に残っていることに気付きました。
もしかしたら、こちらにも彼女を召還することができるのではないでしょうか
おおっ、現れましたよ 冷静を装ってはいるのですけど、不意に連れてこられたあきちゃんは「わっ
、なんで私はこんなところにいるんだ
」と言っているのかも知れません。
それはさておき、軍事的な二俣城と迎賓的な鳥羽山城はそれぞれ異なる性質を持ちながらも、一体となって機能していた「別郭一城」の構成遺産として、平成30年(2018年)にともに国の史跡に指定されました。 なので、両方合わせて訪れることをオススメします。
あと余力があったら、清瀧寺の信康のお墓もお参りしてくださいませ。
「どうする家康」の放送に伴って、信康さんの露出度が増えることを密かに期待している彼の隠れファンの方は、こちらに投票してやってください。
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