しょぼい毎日

いつも理想はでっかいが、結果はしょぼい・・・。そんな日常を綴ってみました

J南高校映画部OB会戦場へ!(2)関ヶ原で男の友情とそば湯を知る

2011-12-23 23:11:41 | 映画部OB会行事

2011年11月26日(土)

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空は晴れ、我らの北東方向には、うっすらと雪化粧した伊吹山がそびえ立ちます。少々寒いですが、絶好のサイクリング日和です。他の参加者の高性能な自転車に負けないようにレンタルのママチャリで追いかけます。

【第六の跡】宇喜多秀家の陣跡

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Img_9038自動車の通れる道を折れ、森の中の落ち葉に敷き詰められた未舗装の小道を行くと小さなお宮の傍に西軍副大将宇喜多秀家の陣跡がありました。町が立てた小さな解説の札を見て私が

意外に感じたのが、<敗走中に村人に助けられ、八丈島に流され八十三歳まで生き延びています>との一文でした。「西軍の大名で敗走した大名は島津以外は全員捕えられで刑死したんじゃなかったの?」と呟くと、江戸紫褒太郎氏が後ろから低い声で私にささやきます。「助命してくれた人がいましたから・・・。」こういう時私のiPadより素早く知りたい事を教えてくれる江戸紫氏です。恐るべし・・・・。実際、旅行から帰って宇喜多秀家の関ヶ原以降の人生を調べてみると、私が知らなかった事実ばかりでした。秀家が敗走後に伊吹山山中で地元の猟師矢野五右衛門に出会い匿われ、大坂に脱出し、さらに薩摩に逃れ、遂には徳川に身柄を渡され、最期は八丈島に流されて行く話はドラマチックです。ドラマ化すれば大河ドラマ<江>よりは面白いものになるかも・・・。でも1年間は持たないでしょうね。特に八丈島に流されてからの50年間はしょぼい話になるでしょうから・・・。

【第七の跡】大谷吉継の墓と陣跡

宇喜多秀家の陣跡から大谷義継ゆかりの場所は直線距離では近いのですが、自転車では通れないという事でかなり遠回りとなりました。私的には、東海道本線と並走しながら自転車を漕ぎましたので、楽しいひと時であり、貨物列車と遭遇した際は、このまま同行者に別れを告げ<僕は、これから写真を撮るので、別行動します>と口に出してしまいそうな気分でした。市街地からだいぶ西方に目的の大谷義継ゆかりの地があります。が、そこは自転車では近づけない場所になっています。一同、馬ならぬ自転車を下り、急な坂道を徒歩で登っていきます。

Img_9045この先に何が待っているのかよく分らないままひたすら前進する江戸紫褒太郎氏の後をついて行くと、突然視界が開け何かの史跡が現れます。立て札には大谷吉継の墓とあります。病ゆえの異形の戦国大名として知られる大谷吉継がここで自刃したとあります。大谷吉継自身は、聡明で石田光成に勝ち目の無い事は充分承知していましたが、親友(戦国時代にはあまり無かった概念みたいですが)三成が起つのに殉じ、行動を共にします。そんな大谷吉継の墓には、現在でも花が手向

けられ、彼の生き様がImg_9049 人々の心を打ち続けている事が分ります。お墓から少し南に山道を行くと大谷吉継の陣跡に出ます。木々が生い茂り、必ずしも眺めは効きませんが、近くを走る新幹線の走行音だけが、風に乗り陣跡を通り過ぎます。大谷吉継は、この丘で正面に東軍主力と対峙し、南面にはあらかじめ裏切りを予想していた小早川を睨んで闘いに臨みました。家康に鉄砲を打ちこまれ裏切りを促された小早川は、大谷の陣に襲い掛かりますが、兵力では劣る大谷勢ではありますが、怒りという最強のモチベーションを持った大谷軍により、跳ね返され、甚大な被害をこうむります。ところが本来は小早川に対抗する為に前衛に陣した脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が、突然反転し、大谷勢の側面に襲いかかってきました。これを境に大谷勢は、壊滅状態となり、善戦していた西軍は総崩れとなります。もし、脇坂らの予想外の裏切りが無ければこの関ヶ原の戦に関しては、違った結末になっていたかもしれません。皮肉なことに裏切った4人のうち、2人は戦後改易にされています。。戦後の論功行賞の際、家康は裏切った朽木に対して<あんな(小さな)奴、裏切っても大勢に関係ない>と言い捨ててています。けれど、後の眼から見ればこの人たちの功績大なんですが・・・・。裏切り者の運命はデビルマン?もそうですがろくなものではない・・・。けど小心者の私には、彼らの気持ちも分らなくは無いし・・・・。歴史は奥深い・・・。

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大谷吉継の陣を下りると、大きな碑を発見。平塚為広の碑です。脇坂ら小心もの達の裏切りにより敗死を覚悟した為広が、大谷吉継に送った辞世の句<名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば>が刻まれています。この歌を受け取った吉継は「私も自害して、あの世で再会しようぞ」と言い、次の様な歌を返したそうです。契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 遅れ先だつことはありとも>。この生々しくも、美しい句を前にして、J南映画部の面々はそれぞれが、物思いに耽っておりましたが、阿波影氏が突然「一句浮かんだ!」と自作の歌を詠みあげます・・・。それは残念なことに何十年・何百年と語り継がれるべきものではなく、冷えた関ヶ原の大地に5人の渇いた笑いを響かせただけでした。「先輩!それって川柳ですよ・・・・。」と突っ込みを入れると、一同、自転車にまたがり、市街の方に向かいます。

Img_9055 市街地に入ると阿波影氏が突然車列から脱落。一体何が・・・・。私と人間ミサイル氏が駆け寄り、チェーン系のトラブルに遭って自転車を倒して悪戦苦闘している阿波影氏を見守ります。「先ほどの歌がいけなかったのだろうか・・・。ばちが当たったんやろか?」と阿波影氏が珍しく弱音を吐きます。「そんなの関係無いです」と言いながら、3人がかりでいろんな場所をいじっているうちにトラブルは解消していました。大谷吉継の友情には敵いませんが、部活の絆は今でも生きていると感じた瞬間でした。でも阿波影氏の歌の呪いは、この後もJ南高校映画部OB会一行の行くF1001215_2 F1001214手に影を落としていきます・・・。

時間は午後2時を過ぎようとしています。遅くなりましたが昼食とします。歴史民俗資料館
で教えて頂いた<そば処 幸山 関ヶ原店>に入ります。麺に充分なこしがあり、予想以上の出来です。でも蕎麦以上に我々を魅了したのがポタージュスープの様に濃厚なそば湯で した。これほどのそば湯があるとは・・・・。今回も子育てのため参加できない、そば湯が大好きな映画部同期(サングラスの殺し屋こと)T次氏にも味わってほしかった・・・・。どうも、大谷吉継ゆかりの地を巡ると友の事が気になる様です。

お腹も膨れ、元気を取り戻したところで後半戦スタート!と行きたいところですが、陽も傾いてきました。先を急ぎます。これからは、東軍ゆかりの地を周ります。

Img_9058 【第八の跡】本多忠勝陣跡

徳川四天王の中でも特に武勇で知られる本多忠勝の陣は、新幹線と在来線に挟まれた関ヶ原町市街の中にあります。普通の民家の裏庭と言ってよい場所に小さな祠と石碑がさりげなくあります。今までの陣跡の様な闘いの場という雰囲気では無いので、我々も多少気持ちが緩んでいましたが、江戸紫褒太郎氏だけは、無駄口をたたく事も無く真剣に石碑に向かいあい、そして撮影しています。本当に歴史好きなんだと感心します。

【第九の跡】松平忠吉、井伊直政陣跡と東首塚跡

Img_9062 JR東海道線の線路北側に出ます。鎮守の森と言ってもよい大木の繁る一帯が東軍先鋒となった松平忠吉、井伊直正陣跡です。陣跡を示す看板が無ければ、どこにでもある神社の敷地だと思ってしまいます。二代将軍秀忠の弟松平忠吉は、この戦いの傷がもとで(異説あり)数年後28歳の若さで亡くなっています。井伊直政も島津軍を追撃している際に敵の銃弾が右肘関節に命中し、落馬して大きな傷を負ってしまいます。戦後処理に色々と活躍したものの、この時の傷やら心労で2Img_9061 年もたたないうちに無くなります。勝ち組といえども、その運命は必ずしもバラ色では無い様です。そしてこの陣のすぐ横が戦死者を埋葬した2か所ある塚の一つ、東首塚です。この地で合戦で討ち取られた西軍の将の首は、家康自身により首実検されたと言います。またここの井戸で首を洗ったとの事。闘いの直後は凄惨な光景が繰り広げられたのでしょう。今でこそ静かで平和な光景がひろがっていますが・・・・。

いよいよ、陽も傾き始めました。わずか半日程の時間でしたが、駆け足で関ヶ原の戦いをなぞる事が出来ました。まだまだ行きそびれた史跡も多いのですが、自転車ツアーはそろそろお仕舞いです。一同、起点となった歴史民俗資料館に戻ります。


J南高校映画部OB会戦場へ!(1)自転車で巡る決戦地

2011-12-23 23:10:36 | 映画部OB会行事

2011年11月26日(土)

阿波影氏よりメールが着信。メッセージは<武士(もののふ)参集せよ!>です。この檄文に応える為、我らJ南高校映画部OB会の面々が各自夜明け前に家を出て集まります。目的地は<関ヶ原>。毎年恒例のJ南高校映画OB会旅行ですが、今回は関ヶ原古戦場跡サImg_8978イクリングツアーという事で、各自自慢の折りたたみ自転車を持ち込んでいます。神戸で岡山か ら来た金目校長のハイエースに車を乗り越え名神高速を東へと向かいます。関ヶ原ICを11時前に下り、まずは、関ヶ原町民俗資料館に立ち寄ってもらいます。今回の参加者で唯一、自前の自転車を持ち込めなかった私が、レンタサイクルを借りられるようにとの配慮で、ここを起点に東西武将の陣跡を観て廻ります。私が民俗資料館内で手続きをしている間、各自自分の愛馬?(自転車)の準備をします。各自準備が整い、いよいよ出発となります。

このツアーに参戦するのは【コード名】以下、阿波影氏、金目校長、人間ミサイル各先輩と私こと依頼人、そしてこのツアーのキーとなる後輩の江戸紫褒太郎氏の5名です。

【第壱の跡】決戦地跡

戦国史に詳Img_8986 しい江戸紫褒太郎氏の先導で北東方向にある、田んぼの中の小さな丘を目指します。大きな旗と決戦地と刻まれた石碑が立っています。ここは関ヶ原の闘い最終局面で、劣勢となった三成の首を狙おうとする東軍諸隊との激しい闘いが繰り広げられた場所だといいます。今の光景からは、そんな血なまぐさい事があった場所とは思えませんが、各自、遥か昔のその決戦の刻に思いを巡らせています。

【第弐の跡】石田三成の陣跡

Img_8999 Img_9003 すぐ北側に見える笹尾山の中腹に石田三成の陣があります。ひと足早く関ヶ原に到着した三成が付近を一望出来る有利な場所に陣を設けた事が良くわかります。布陣だけを見れば西軍が有利な事が現地を見てよく判るといった感じです・・・。

【第参の跡】島津義弘陣跡

Img_9013 笹尾山から南に下り、自転車で走るには打ってつけな細い道を走り始めると、林の中に島津義弘陣跡が静かに佇んでいます。西軍の敗色が濃厚な中、島津義弘は東軍の度肝を抜く<敵中突破>を行います。撤退時に、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという<捨て奸>と呼ばれる戦法を採り、敵側にも大きな損害を与えました。もちろん自軍の損害はすさまじく撤退時300人いた兵で薩摩に戻れたのは80人程度だといいます。これにより薩摩の強さを家康に見せつけ、戦後処理を有利に進める事が出来、領地を安堵することが出来ました。この場合、退却戦の犠牲も無駄ではなく、ここで家康が薩摩を潰せなかった事が、270年後の倒幕へと繋がっていく・・・・この戦いでの忘れがたいエピソードとなっています。

【第四の跡】開戦地跡

Img_9023 島津義弘陣跡から少し西南方向に走ると、開戦地跡に出ます。いきなり時計は戻りますが、この地で福島正則が宇喜多秀家陣地に鉄砲を打込んだのが、関ヶ原の戦いの始まりでした。時に慶長五年9月15日。時刻は朝の8時頃でしょうか・・・。

【第五の跡】小西行長陣跡

Img_9026 開戦地跡とほぼ隣接していたのが小西行長陣跡。小西行長の名前は私が子供のころ熱心に見ていたNHK大河ドラマ<黄金の日々>で現 松本幸四郎演じる主人公の呂宋助左衛門の親友でした。小野寺昭演じる行長は文治派=良心派大名という役柄だったと思います。こんないい人(ドラマの中では)でも闘いに破れて首を打たれてしまいました・・・。ここまで西軍の陣中心に巡って来たので「西軍に勝たせてやりたかったですね・・・」と呟きます。

すると、それを聴いた金目校長が諭すように語ります。「西軍が勝っていたら、その後の日本はとんでもない事になっていたやろ?」鎖国は無かった→キリスト教勢力増大→内乱→ヨーロッパの植民地→途上国)と言われ、<そうなのか。東軍が勝って良かったんだ・・・・。>と考えを改めます。

Img_9030 すると江戸紫褒太郎氏が後ろから低い声で私にささやきます。「そんな事はありません、あの当時の日本は、世界一の戦闘員と銃の数を有していました。少なくとも陸戦においては、負ける訳ありません。植民地になることは無いでしょう。」とキッパリと言われます。それを聞いて、<そうか、それなら西軍に勝たせてやりたかったな>と意見を変える頼りない自分がいました。

とにかく現地に来て・見て・感じてはじめて判る事がたくさんあります。古戦場跡を巡るサイクリングツアーはまだまだ続きます。