秋刀魚の歌
佐藤 春夫
あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝えてよ
―――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
秋刀魚を食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて 女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さな箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(わた)をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝こそは見つらめ
世のつねならぬかの団樂(まどい)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証せよかの一ときの団樂(まどゐ)ゆめに非ずと。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫に去られざりし妻と
父を失はざりし幼児とに
伝へてよ
―――男ありて
今日の夕餉に ひとり
秋刀魚を食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま、
さんま苦いか塩っぱいか、
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
永遠にやって来ない女性
室生 犀星
秋らしい風の吹く日
柿の木のかげのする庭にむかひ
水のやうに澄んだそらを眺め
わたしは机にむかふ
そして時時たのしく庭を眺め
しほれたあさがほを眺め
立派な芙蓉の花を讃めたたへ
しづかに君を待つ気がする
うつくしい微笑をたたへた
鳩のような君を待つのだ
柿の木のかげは移つて
しつとりした日ぐれになる
自分は灯をつけて また机に向ふ
夜はいく晩となく
まことにかうかうたる月夜である
おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ
玉のやうな花を愛し
ちひさな笛のやうなむしをたたへ
歩いては考へ
考へてはそらを眺め
そしてまた一つの塵をも残さず
おお 掃ききよめ
きよい孤独の中に住んで
永遠にやつて来ない君を待つ
うれしさうに
姿は寂しく
身と心とにしみこんで
けふも君をまちまうけてゐるのだ
ああ それをくりかへす終生に
いつかはしらず祝福あれ
いつかはしらずまことの恵あれ
まことの人のおとづれあれ
のちのおもひに
立原 道造
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引き草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しずまりかへった午さがりの林道を
うららかに 青い空には陽が照り 火山は眠っていた
―――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれも聞いてゐないと知りながら 語りつづけた...
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥の中に
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
立原 道造
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引き草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しずまりかへった午さがりの林道を
うららかに 青い空には陽が照り 火山は眠っていた
―――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれも聞いてゐないと知りながら 語りつづけた...
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥の中に
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう