ビタミンちょっぴり ときどき日記

ラジオビタミンのとりこだった暇人 
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初七日

2015-04-13 20:06:35 | 日記

2015.4.13(月)曇りのち雨

初七日、叔父や叔母たち、親戚のF子さんとK子さんの姉妹が来てくれた。

お坊様のお経が20分ほど、その間にお焼香。

お坊様がお帰りになられたあとに家で食事。昔話に花が咲いていた。

 

母が亡くなった日に実家に次男夫婦が来てくれて、お嫁さんは「お母さん大丈夫ですか?」と私のことを気遣ってくれた。そして泣いてくれた。

三男も来てくれた。親戚もご近所さんもびっくりしたと来てくれた。

母の遺影はとびっきりの笑顔のものにした。

葬儀屋さんから「DVDを流すので写真を10枚ほど用意してください」と言われたので急いでいいようなものを探した。用意しておかなかったのでいいものはなかったのだが・・

丹波市主催の「ありがとう」の企画が今年度(から?)は中止になったと、村上さんのブログに書いてあったのを思いだして、そうだ・・・「ありがとう」のあの作品を読んでもらうことはできるだろうか?と葬儀屋さんに伝えると「いいですよ」とのことだったので作品集を渡した。(文章の一部を変えて)

お通夜の日、長男家族も夕方には到着。その後に母のいる実家へ。孫たちは騒いでいた。

4歳のゆーちゃんは分かったようでお嫁さんが「○○○おばあちゃんだよ。天国に行ったんだよ」と言うと、「○○○おばあちゃんは、ゆーのことを『いいこちゃんだねぇ』と言ってくれた」と。母の真似を上手にして言っていた。それを聞いて私もゆーちゃんに「いいこちゃんだねぇ」を繰り返していた。

自宅から葬儀場へ移動。葬儀会場に入ったら、あまりのたくさんのお花にびっくり!そして、母の笑顔の遺影。今にも飛び出してきそうなほどのどアップの遺影。

お通夜には集落の戸数の人、そして親戚、私の同級生のるーちゃんとミーちゃん、みーちゃんとたーちゃんも来てくれた。

お通夜が始まってからすぐに私の母への感謝の思いとして「ありがとう」(コピー)を読んでくれた。そして、それは出棺の際にたくさんの花と一緒に母のひつぎの中に入れられた。

お通夜で、お坊様は長いお経のあとに御詠歌をお歌いになった。

とてもいい歌だったので今ネットで探したら「まごごろに生きる」(2006年?)(作詞・作曲 南こうせつ)さんだったのねぇ。このユーチューブは初音ミクさんが歌っているが、お坊様の低い声は本当にお上手で悲しさを増したが、歌詞は救われる歌でもあった。

歌詞がとってもよくて、特に

「出逢いも別れも抱きしめて 生きてる今を愛して行こう」 心に沁みました。新しい歌だったから年配の方も知らなかったのですね。私も初めて聞きましたがとってもよかったです。

お通夜振る舞いでは集落の人たちとや親戚の人たちと母との思い出話。

 

翌日の葬儀も無事終わりました。遠いところでは愛知県から私の従兄弟二人。熱狂的な中日ファン!

こういうことでもないと会えない親戚もいました。以前会ったのは13年前の私の兄葬儀だったから、みなさんずいぶんと歳をとったねぇ・・なんて言いながら。

集落の人、親戚や孫、ひ孫に囲まれて旅立った母は幸せだったと思いたいです。

たくさんの人から母のことを「幸せだったわね。こういう死に方したいねぇ。」なんて言葉をかけてもらいました。

 

長男家族は葬儀の翌日の1時過ぎに帰っていきました。

そうそう、4歳と2歳の孫は母のロシア語の動画を見せると、すぐに1から5までを覚えて帰りました。脳細胞が活発なのね。私は何度聞いても覚えなかったのに・・「アジェン(1)・ドア(2)・テレェ(3)チテレェ(4)・ピアシェ(5)」だったかな・・この次来た時には6~10までもすぐに覚えるのだろうなぁ。

 

このたびの母のことに際してはブログのコメント欄で皆様からお悔やみのお言葉をいただき、慰めていただきとっても心強く思いました。

お電話や弔電、お悔やみもいただきました。そして一緒に悲しんでくださり本当にありがとうございました。ご心配をおかけいたしました。

 

母を思い出しては時折涙を流す事があります。母が「な~に、泣いているんで?」と心配して悲しむとような気がしますが・・

葬儀の祭壇に飾られたたくさんのお花を束ねて参列の皆様に渡していました。私ももらってきたので花瓶にさしてその前に母の写真を置いて、ご飯やおかずをおいて一緒に食べています。

母の霊は49日間歩いて彼方へ行くようです。私の家には霊は居ませんが母が側にいると思っています(^。^)

コメント (6)
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