日本と世界

世界の中の日本

「地方の銀行多すぎる」 菅氏の真意

2020-09-03 18:46:22 | 日記
「地方の銀行多すぎる」 菅氏の真意

自民党総裁選 金融機関 政治

2020/9/3 11:45 (2020/9/3 14:42更新)日本経済新聞 電子版

菅氏は「地方の銀行について、将来的には数が多すぎるのではないか」と述べた

自民党総裁選への立候補を表明した菅義偉官房長官が地域金融機関の統合・合併構想に言及した。

異次元金融緩和を継続する一方で、利ざやの縮小を背景とした地域金融機関の体力がそがれ構造的な問題となってきた。

地銀の競争力を伸ばし、自身が掲げる地方再生の核とする。

菅氏は2日、異次元緩和の副作用への対応について聞かれ「地方の銀行について、将来的には数が多すぎるのではないか」と述べた。

翌3日の記者会見でさらに踏み込み「再編も一つの選択肢になる」と語った。地銀の競争力強化は菅氏の持論でもある。

【関連記事】

菅氏 地域金融機関「再編も選択肢」

秋田県出身の菅氏は「活力ある地方」も政権構想に掲げた。少子高齢化で地方の人口が減少し、事業承継に苦しむ地方の実情を踏まえて「地方銀行は変わらなければいけない」と周囲に漏らしてきた。

大規模金融緩和であふれたマネーを有効に融資へと活用する事業が地方には乏しい。外国人訪日客、農産物の海外輸出を増やす政策を手掛けてきたのは、地方の稼ぎ頭をつくる意図があった。

地銀の体力低下は異次元の金融緩和のボトルネックでもあった。経営体力の弱い中小の地銀にとって再編は収益力回復に向けた選択肢となる。

官房長官としても、地銀再生に布石を打ってきた。

そのひとつが地銀の経営統合や合併について、独占禁止法の適用除外とする特例法だ。これまで困難だった同一県内の地銀合併を促し、経営基盤の強化を促す内容だ。今年5月に成立した特例法は、年内に施行される。

【関連記事】
地銀、強まる再編機運 合併特例法と異業種連携で
地銀再編、異業種が軸に 監視強化で狭まる包囲網
同一県内での合併は寡占状況を黙認することにもつながる。独占禁止法を所管する公正取引委員会と金融庁の見解が分かれ、菅氏が調整にあたった。

当時は長崎県の親和銀行を傘下に持つふくおかフィナンシャルグループと同県の十八銀行との統合計画が、公正取引委員会の承認を得られずに実現まで難航するといった問題も起きていた。

菅氏は7月にまとめた経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)で経営環境の悪化に苦しむ中小企業を対象とした人材支援の明記にもこだわった。フィンテックなどで人材を持て余す大手銀行の専門人材をリスト化する試みだ。地方に人材を供給する仕掛けと考える。

金融危機への対応が最大の争点となった1998年の総裁選で菅氏は、ハードランディング(強行着陸)路線を提唱した梶山静六元官房長官を担ぎ出した経緯もある。

地銀の統合・合併について菅氏は2日の記者会見で「将来的に」と付け加えた。地銀再生への言及からは「菅カラー」が垣間見える。

(政治部 重田俊介)

汚辱の朝鮮史 ヘンドリック・ハメル「朝鮮幽囚記」書評

2020-09-03 18:05:28 | 日記
中国・韓国・日本の近現代史を読む 工藤守のべしゃり

2017 05-04

汚辱の朝鮮史 ヘンドリック・ハメル「朝鮮幽囚記」書評

ヘンドリック・ハメル「朝鮮幽囚記」より

1655年、日本は徳川幕府四代家綱、李氏朝鮮は孝宗(ヒョジョン)の時代。

父、仁祖は現代韓国では傀儡王とも非難される。清国に跪いて臣下の礼を取らされたのが、孝宗(ヒョジョン)の父である。

この時代にオランダ人ヘンドリック・ハメルら36名が済州島で難破して漂着。

彼らオランダ人は帰国を望んだが、なぜか、(非人道的だったからだろう)朝鮮王朝は彼らに帰国の許可を与えることはなく、ソウルに連行して、宮廷守備の訓練都監(フンリョントガム)なる名称の部署に配属した。

そして、宗主国清国の使者が来ると、朝鮮王朝は彼らの存在を隠して拘束していたが、帰国を望んでやまないオランダ人のうちの二名が拘束を逃れて、清国の使者にすがって、帰国を嘆願すると、朝鮮王朝は卑劣にも、清国の役人に多額の賄賂を渡して、黙認するよう求めた。

訴え出たオランダ人二名は、なんとも残酷なことに、朝鮮王朝の手で処刑されてしまったという。

この時点で生存者は33名になっていた。

朝鮮王朝は、彼らオランダに帰国を望む者たちの願いを聞き入れることなく、現在のソウル、から全羅道に移送して兵役に従事させていたが、その待遇は劣悪で、時に物乞いをして飢えをしのぐような有り様だったという。

漂着から二年後に清国の役人に取りすがり、それからさらに、全羅道で過酷な幽囚の日々を強いられたオランダ人たちは、10年後の1666年には、生存者が16名になっていた。多くの者は自殺したり、病死したのであろう。

この年、16名のうち、8名が脱出に成功して、8月、日本の五島列島にたどりついて、江戸幕府は彼らを長崎奉行所に送って事情を聞き、オランダ人たちが帰国を望んでいることを知った。



ここで江戸幕府は、朝鮮王朝とはちがって、オランダ人の帰国の願いを了解してはや、11月には、ハメルたちは、バタビヤに到着したのである。

さらに幕府は、ハメルたちが、まだ朝鮮には8名がとらわれている、というのを聞いて、残るオランダ人たちがさぞ故郷に帰りたかろうに、と朝鮮王朝に対して引き渡しを要求。

おそらく、朝鮮王朝は事を荒立てては宗主国清朝に知られてなにゆえにそういった事を隠して勝手な事をしているのか、と譴責されることを恐れたのだろう、江戸幕府の要求を受け入れて釜山に移送。幕府は長崎の出島にあるオランダ商館に渡して休息を与えた後に帰国させたのである。

この時のオランダ人のうち、ハメルという人物が朝鮮について手記を残していた。

それによると、なんと朝鮮人は、すでに徳川綱吉の時点で、オランダ人に対して「朝鮮が貧しいのは、日本や清国の侵略のせいだと、自国の貧しさの理由を他国のせいにしていた」という意味の事を語っていた。

 
彼らオランダ人が漂着して、朝鮮に幽囚されていた頃は、1653年頃だから、文禄・慶長の役が1592年から5年間なので、約35年前の5年間のことについて、朝鮮の貧しさを日本のせいにしていたことになる。

ハメルは朝鮮滞在中に、朝鮮人の悪習を目撃して衝撃を受けている。

何らかの理由、酒乱かなにかで夫の暴力にたえかねてか、ある女が夫を殺害して捕らえられた。

その女は、多くの人の通行する道ばたに肩から下を土に埋められて首から上を出した格好にさせられて、傍らにはのこぎりが置かれてあり、通る人は、おそらく見せしめなのでしょう。のこぎりでひくことを強要されるのだという。

今の北朝鮮が公開処刑の際に死刑を見ることを強要されるのに通じる残虐性があります。

ハメルが聞いたところによると、殺した側が夫であった場合には、納得のいく理由があれば、無罪放免になるというのですが、どんな理由なら、無罪で、妻殺しが許されるのかわかりません。浮気、不倫、他の男にてごめにされた場合も強殺されてそれきりだったのかもしれません。

そういった当時の正当な理由というものがなく、夫が妻を殺害した場合には、罪人に大量に水を無理矢理のませるのですが、その水は、死体を洗ったあとの汚く、くさい水なのだそうです。そしてこれを大量に飲ませたあと、腹を思いきりたたいて、胃を破裂させて死にいたらしめる。

また、盗人については、これは非常に多く、足のうらを執拗にたたいて苦痛でさいなんだ末に死にいたらしめる。

朝鮮人の男性は妻をどれいのごとく扱い、ささいなことで妻を追い出すが、ほとんどの場合、子供は妻に連れていかせる。そして後妻にまた子供を産ませるので、人口が多いのだろうとハメルは推測している。

ハメルは朝鮮人の国民性として、非常に「盗み」「ウソをつく」「人をだます」者が多く、他人に損害を与えることは、むしろ手柄、自慢のたねであり、朝鮮人を信用してはいけない、と書いている。


現代に通じるものがあることに驚きます。

ただハメルはこう言っている。

朝鮮はタルタル人(女真人・清国のこと)が朝鮮の主人になるまでは、非常に豊かで楽しい国だったと聞いているが、日本人(豊臣秀吉)とタルタル人に国土を荒らされてしまって、極貧になったらしい、と。

これなどは、現在の欧米のマスコミが日本の「従軍慰安婦20万人強制連行」を鵜呑みに信じていることに似て、ハメルは、朝鮮人の説明を信じて、昔は豊かだったのか、この国はと信じていたことになる。

ヘンドリック・ハメル 難破して13年間も李氏朝鮮で幽閉されたが、日本に脱出して帰国を果たし、『朝鮮幽囚記』を著して朝鮮をヨーロッパに紹介した。

2020-09-03 17:42:35 | 日記
ヘンドリック・ハメル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ホルクムにあるハメル像。

麗水市にあるヘンドリック・ハメル博物館

ヘンドリック・ハメル(Hendrick Hamel, 1630年 - 1692年2月12日)は、オランダのホルクム出身の船乗りで、難破して13年間も李氏朝鮮で幽閉されたが、日本に脱出して帰国を果たし、『朝鮮幽囚記』を著して朝鮮をヨーロッパに紹介した。


目次
1 経歴
1.1 朝鮮でのハメル
1.1.1 朝鮮幽囚記
1.2 日本でのハメル
1.3 オランダでの評価
2 脚注・出典
3 参考文献
4 関連項目

経歴

ハメルはオランダ東インド会社 (VOC) の会計係 (boekhouder) だった。1653年7月、交易船「デ・スペルウェール」(De Sperwer) 号に乗船して日本へ向かう途上、朝鮮半島南部沿岸の「ケルパールツ島」(済州島)で破船した。乗組員64人のうち、ハメルを含む36人が生き残った。

朝鮮でのハメル

船員たちは紛れもなく、用意周到な略奪者というよりはむしろ犠牲者であったが、35名のヨーロッパ人の突然の出現は、朝鮮人の間に大きな騒ぎを引き起こした。

漂着者として、ハメルらは遭難の後の最初の数ヶ月は丁寧に取り扱われた。しかしながら、物珍しさが無くなるとすぐに、彼らは再び朝鮮が岸辺より遠ざけたい異国人となった。

日本からのスパイに違いないという憶測が、このオランダ人達の運命に恐らく加わったハメルは、済州でヤン・ヤンセ・ウェルテフレーと出会った。

ウェルテフレーもまたハメルに先立つ1627年(仁祖5年)[1]に、日本へ向かう途上、給水のために朝鮮に上陸したところを捕らえられたオランダ人であった。

彼の時は朝鮮も日本への送還を試みたが、キリスト教徒であることを理由に断られていた[2]。

同時に捕らえられた2人のオランダ人は、丙子の乱で命を落とし、ウェルテフレーは朴延(朴淵、あるいは朴燕とも伝えられる)と名乗って朝鮮王に仕え、ただ一人当地で妻を娶り暮らしていたが、王の命を受けてハメルらの通訳と尋問にあたった。

ウェルテフレー(朴延)は訓錬都監で中国人や日本人からなる部隊の隊長をつとめていたが、25年を超える朝鮮生活のうちにオランダ語をほとんど忘れており、改めて漂着者たちから学び直した。

彼らが逮捕されてまだ冷めやらぬ間に、ハメルらは王のための一種の新奇な貢物として、漢陽(現在のソウル)の王宮へ連れて行かれた。

ウェルテフレーと信頼できる協力者によって、ハメルらは切迫した要請を王(孝宗)に伝えることができた。

即ち、彼らは王に対して、故国へ帰り、妻や子供たちと再会することができるように求めた。

しかしハメルの日誌は、それを拒絶する王の沙汰による落胆を伝えている。ハメルらは訓錬都監に兵士として配属され、朝鮮国王から給与を受ける身となった。

朝鮮人が彼らの行動を制限し続けるつもりであることは、オランダ人にとって明白だった。現地の慣習に従えば、彼らは奴隷も同然だった。

耐えかねた一行のうちの2人が清の使節に日本への送還を直訴したことは、一行の待遇を悪化させた。

朝鮮は清使に賄賂を送ってこの一件を事なきものとしたが、次第に彼らを持て余すようになり[3]、

廟議の末に全羅道へ送ることとした。生活の状態は、中央から派遣される役人の意向によって変転した。

時に給与が滞ったときには物乞いをして命を繋ぐこともあった。

1659年(孝宗9年)には熱病の流行で一行より多くの死者を出し、1660年(顕宗元年)から1663年(顕宗3年)の飢饉で、全羅兵営が彼らを養いきれなくなった後には、全羅左水営、順天、南原に分散されてしまった。

厄介者であった彼らに対して、朝鮮は次第に注意を払わなくなり、彼らは時に綿花の交易のため、周辺を航海することもあった。そしてそれが、後の脱出に繋がることになった。

朝鮮幽囚記

17人の虜囚の中でもっとも高い教育を受けていたハメルは、後に長崎の出島に滞在する間に、朝鮮の風習や滞在中の生活について書き残している。

彼らはデ・スペルウェール号の残骸から浜辺に這い上がった後の、朝鮮人との最初の遭遇をこう書いた。

午後になると大勢の人々がめいめい一本の縄切れを手に持ってやって来ましたので、私たちは彼等が私たちを縛って殺すためにやってきたのではないかと考えて、非常に恐ろしくなりました。

— ヘンドリック・ハメル、『朝鮮幽囚記』生田滋訳

ハメルは、彼らが明白な惨禍として被った、後の屈辱のいくらかについても記している。自由を求めて拒絶された彼らは、その地の習慣を厳守しなければならず、かくして朝鮮での幽囚の身となった。

当地ではタルタル人の支配下にあるとはいえ、国王の権威は絶対です。

国王は国全体を自分の思うとおりに統治し、王国顧問官の意見に従うというようなことはありません。

彼等の間には領主つまり都市や島を領有している人々はいません。

大官たちは彼等の収入を彼等の耕地と奴隷から手に入れます。

私たちは、二・三千人の奴隷を所有する大官を見たことがあります。

— ヘンドリック・ハメル、『朝鮮幽囚記』生田滋訳

すなわち夫を殺した妻は、多くの人々の通る道傍に肩まで土に埋められ、その傍に木の鋸が置かれます。

そしてそこを通る人々は貴族以外は彼女の頸をその鋸で挽いて死にいたらしめなければなりません。

(中略)夫が妻を殺した場合、それについて然るべき理由のあることが証明できる場合は、その理由が姦通であってもなくても、その罪によって訴えられることはありません。

(中略)過失致死犯は次のようにして罰せられます。

彼等は酸っぱい、濁った、鼻をさすような匂いのする水で死者の全身を洗いますが、彼等はその水をじょうごを使って罪人の喉から流し込めるだけ流し込み、それから胃の所を棒で叩いて破裂させます。

当地では盗みに対しては厳重な刑罰が課せられていますが、盗人は非常に沢山います。その刑罰は足の裏を叩いてしだいに死にいたらしめるのです。
— ヘンドリック・ハメル、

『朝鮮幽囚記』生田滋訳 p. 41

一般の人々は彼等の偶像の前で、ある種の迷信を行います。しかし彼等は偶像よりも自分の目上の人に対してより多くの敬意を払います。

大官や貴族は偶像に対し敬意を表するということをまったく知りません。なぜならば彼等自身がそれよりも偉いと考えているからです。

— ヘンドリック・ハメル、『朝鮮幽囚記』生田滋訳 p. 43

大官たちの家は非常に立派ですが、一般の人々の家は粗末なものです。これは自分の考えに基づいて家を建築することは誰にも許されていませんし、彼らの許可なしに屋根を瓦でふくことも許されていないからです。

— ヘンドリック・ハメル、『朝鮮幽囚記』生田滋訳 p. 46

詳細は「李氏朝鮮の身分制度」を参照

この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります。夫は子供を引き取ろうとはしませんので、子供は妻が連れて行かねばなりません。したがってこの国は人口が多いのです。

— ヘンドリック・ハメル、『朝鮮幽囚記』生田滋訳 p. 48

彼等(朝鮮人)は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。


— ヘンドリック・ハメル、『朝鮮幽囚記』生田滋訳 p. 52

彼等(朝鮮人)は病人、特に伝染病患者を非常に嫌います。病人はただちに自分の家から町あるいは村の外に出され、そのために作られた藁ぶきの小屋に連れて行かれます。

そこには彼らを看病する者の外は誰も訪れませんし、誰も彼等と話をしません。その傍を通る者は必ず病人に向かってつばを吐きます。

病人を看病してくれる親戚を持たない人々は、病人を看病に行かないで、そのまま見捨ててしまいます。

— ヘンドリック・ハメル、『朝鮮幽囚記』生田滋訳 p. 53

清朝に従属していること、極度の男尊女卑、朝鮮人の衣食住の貧しさ、刑罰の残虐性、国王の権威が絶大であり、封建社会における領主が存在しない郡県制であることが挙げられている[4]。

「彼らは、嘘をつく傾向が強い…」という当時の朝鮮人に対する悪印象を記述するくだりは、韓国内でも自虐的に引用されることがある[5]。

日本でのハメル

1666年、彼らが囚われてから13年後、ハメルを含む8名が脱出に成功した。

彼らはどうにか小船を奪い、オランダとは友好関係にあった江戸時代の日本、現在の長崎県の五島列島に辿り着いた。

五島列島の領主であった福江藩主五島盛勝は彼らを保護し、オランダ商館のある長崎の出島へ送った。

江戸幕府の長崎奉行はハメルらをオランダ商館に預け、朝鮮の事情や滞在中の生活について尋問した後に帰国を許可した。

オランダ商館長ウィレム・ボルガーの依頼を受け、いまだ朝鮮に滞在している「デ・スペルウェール」号の生存者についても、幕府の対朝鮮外交の窓口となっていた対馬藩主の宗氏を通じて日朝間で送還の交渉が行われ、朝鮮への残留を希望した1名を除く7名が、対馬を経由して日本へ送られ、長崎のオランダ商館に引き渡された。

オランダでの評価

ハメルは故郷のホルクムに帰って1692年に死去した。オランダ領東インド総督および17人委員会に宛てた彼の報告書は、1667年以降、幾つかの出版社が出版した[6]。

彼らのありそうもないが本当にあった冒険について書かれたその報告書は、ヨーロッパに初めての朝鮮に関する詳細かつ正確な描写を与えた。日本では生田滋によって訳出された『朝鮮幽囚記』(東洋文庫)として知られている。

17世紀のオランダにおいてハメルは、冒険譚を持つ多くの元東インド会社乗組員の一人に過ぎなかった。

彼は、何ダースもの東インド会社の交易船が、戦い、災難を生き延び、発見を為し冒険を楽しんだ時代に、7つの海を旅していた。

彼の報告書によって述べられた出来事が、単に物珍しいものとしてのみ注目されたのは、意外なことではない。

東インド会社は改めて朝鮮との交易を検討したが、清と朝鮮の特別な関係、あるいは朝鮮と日本の外交関係によって見送られることとなった[7]。

最近になって、ハメルの故郷は調査者として彼の役割を認めた。その素晴らしい旅人に敬意を表す動きとして、ホルクムの古い要塞町では、ハメルの彫像を誇らしげに飾っている。

ハメルがオランダにおいて一般の人々に認知されるようになったのは、20世紀初頭に、オランダ国内のある通りが彼の名にちなんで名付けられたことによる。その通りは今も、存在している。

「韓国の嘘文化」を専門家が分析 盲目的な反日に疲れ、嘘に気付く韓国民も現れる?

2020-09-03 13:38:24 | 日記
「韓国の嘘文化」を専門家が分析 盲目的な反日に疲れ、嘘に気付く韓国民も現れる?


2020年08月26日 20時06分 デイリー新潮

記事まとめ

日韓関係史が専門の李東原氏が「韓国人、韓国政府はしょっちゅう嘘をつくのか」を分析

『反日種族主義』が売れたのは盲目的反日に疲れを感じる人が少なくないことを示すとも

反日民族主義的歴史認識の嘘や歪曲に、韓国国民も少しずつ気づくようになったという

韓国人と嘘のDNA…詐欺犯罪率は先進国トップ、教科書で「嘘はNG」と教えず

2020年08月25日 17時00分 デイリー新潮



■漂着オランダ人や自国の教育者も認めていた悪習

 日本はかねて韓国の嘘に振り回されてきた。慰安婦しかり徴用工しかり。この嘘のDNAはどこから来たものなのか。教科書に載るウサギとスッポンの説話では嘘は非難の対象にならず、現代の韓国では詐欺に絡んだ犯罪率は先進国トップであり、かつてかの国に漂着した西欧人も彼らのそんなメンタリティを指摘していた。日韓関係史が専門の李東原(イ・ドンウォン)氏による分析。


 人と人との関係もそうだろうけれど、国と国の関係で一番大事なのは、何と言っても信用だ。信用のない関係が長続きすることはほとんどない。これは近代社会の基本中の基本だ。しかし長年、世界のどこの国よりも密接な付き合いをしてきたはずの日韓両国の関係が、いま信用の問題で危ない。

 国際法を無視し、国内の政治の動向によって、条約や合意を簡単に破棄してしまう。国と国との約束を守らない韓国に愛想をつかれた日本の方も多いだろう。集団は個人の集まりだから、これは韓国人それぞれの信用の問題でもあるのだ。信用というのは、まずお互い嘘をつかないで、真心で向き合うことから始まるものだ。どうして韓国人は、また韓国政府はしょっちゅう嘘をつくのか、韓国人の嘘のルーツをさぐってみたい。

 人類の歴史上、最初の嘘は、西洋では旧約聖書に登場するカインが弟のアベルを殺した後、これを隠すために放った言葉だという。日本では、神話の中で腹違いの兄弟たちが大国主神を欺いて死なせる場面でも嘘が登場する。みな死と関係があるシーンで嘘が働く。


■善と悪を分ける基準は正義ではなく、主君に対する忠誠心にある国

 世の中には、理由のいかんを問わず、嘘は罪悪とみなされる文化があれば、その目的が善なら大目にみる社会もある。後者の場合をイギリスでは、「白い嘘」といい、韓国では「善意の嘘」という。日本にも「嘘も方便」ということわざがあるのをみると、場合によっては嘘が許される社会なのだ。また「お世知」といって事実に反したり、大げさに人をほめることで、相手を慰めたり、気分をよくする言葉がある。これも大きな範疇の中では嘘の一種で、社会的に容認される「白い嘘」に属するだろう。

 韓国人の嘘のルーツを語る時、よく例に出される話がある。朝鮮時代に流行った「鼈主簿傳(べっしゅぼでん)」という説話がそれである。竜王様の肝の移植手術のためにウサギの肝が必要で、陸にあがってウサギを竜宮まで誘って連れてくる任務をつとめるスッポンとウサギにまつわる話だ。

 スッポンは、竜宮に行けば幸せに暮らせると嘘をついて、ウサギを竜宮まで連れてくることに成功する。しかし、ウサギは肝を取られる寸前に、肝を陸に置いてきたという機転の利いた嘘をついて、自分の命を救ったのだ。インド説話に根ざした仏典説話だったこの話を、私は小学校の時に教科書で習った。

 さて、この物語でスッポンとウサギが交わす嘘は、ぜんぜん否定的に描写されていない。また、韓国の教科書にこの話が載っていることは、生徒に嘘は悪いことだという教訓を語るためでもない。この話の主眼は、竜王に対するスッポンの忠誠心にある。すなわち、主君に対する臣下の忠誠心なのだ。儒教的な価値観が社会を支配していた時代、スッポンの嘘は非難の対象にならず、ウサギの嘘はむしろ知恵の象徴と見なされたりした。善と悪を分ける基準が、主君に対する忠誠心にあったのだ。


■韓国人である私は、顔から火が出るような思いをした

 2016年6月14日、日本のある経済専門誌は、「韓国人が息をするかのように嘘をつくということは、韓国人も否定できない」とし、韓国社会に蔓延する「嘘文化」について分析、批判する記事を掲載した。

 同記事によると、2000年に韓国で偽証罪で起訴された人は1198人、誣告罪は2956人、詐欺罪は5万386人だったが、2013年には偽証罪が3420人、誣告罪が6244人、詐欺罪は29万1128人に急増したと指摘した。特に、「詐欺被害額は43兆ウォンに達しており、これは韓国が世界一の詐欺大国であり、腐敗した大国だという証拠だ」と付け加えた。

 そして、上は大統領、政治家や公務員から下は一般国民に至るまで「国全体が嘘の学習の場で、大統領など影響力の大きい社会指導層が大胆に嘘をつく」と、韓国社会に蔓延している嘘の数々を、数字で示した。

 また、「韓国は結果至上主義の社会であって、過程においてどんな手段を選び、どれだけ努力をしたかはあまり重要ではない。不正なことをしても、結果的に富と地位を手に入れた人は尊敬される。あらゆる手段を講じてでも、熾烈な競争を勝ち抜いた者は称えられ、敗れた者は勝者に屈服する社会」と結論づけている。

 この記事を読んで、韓国人である私は、顔から火が出るような思いをした。そして私自身どれだけ多くの嘘をついてきたかを考え、そして反省をした。自分自身の過ちを誰かに指摘された時、これについて真剣に考え、その指摘が間違っていなかったら自分を振り返って反省し、二度とそのようなことをしないことを誓うのが世の常であろう。聞きづらいからといって、言い訳をしたり、また嘘をついたりしてはいけないだろう。そうしなければ、人も社会も一歩も前へ進めない。


■『朝鮮幽囚記』に記された嘘の遺伝子、「司法文化が違う」と弁明

 しかし、韓国社会の反応は違った。まず、某ニュース番組でこの指摘について深層分析が行われた。番組では、先に日本人からこのような指摘を受けたことを大変不愉快に思っている空気がありありとあった。そして、結論的に事実を認めながらも、そこには誇張があり、「国ごとに司法文化が違う」というふうに、言い訳で締めくくった。他人の忠告に耳を傾けるよりも無視し、言い訳で一貫した。

 上記の日本の某雑誌を引用するまでもなく、法廷で嘘をつく偽証や、他人を虚偽で告訴・告発する誣告事件の数において韓国は、世界最高水準であることは事実だ。理解を助けるために日本と比較してみよう。

 2007年、日本は偽証罪で138人が立件され、9人が起訴されたが、韓国は3533人が立件され、1544人が起訴された。起訴された数字は、偽証罪は日本の171倍。それに日本の人口が韓国のおよそ2・5倍であることを考えると、実際には偽証罪は428倍にのぼるとも言える。また、韓国で偽証関連の疑いで有罪判決を受けた人も、2006年に1066人、2007年に1451人、2008年には1792人と、増え続けている。2013年のWHOの発表によると、韓国はOECD各国の中で、詐欺犯罪率はトップだ。

 韓国人の嘘の遺伝子は、最近作られたものではない。オランダ人のハメルは、1627年に朝鮮に漂着して以降、朝鮮での生活経験を『朝鮮幽囚記』に残した。本書でハメルは、「朝鮮人は嘘が上手だ。人を騙すことを恥ずかしく思わず、むしろよくやったと思う」としている。また、韓国では独立運動家・教育者として有名な安昌浩は、「民族改造論」で、「この民族を現在の衰退から救い出して、幸福と繁栄の将来に導こうと思う兄弟姉妹に差し上げます。(中略)第一、嘘と欺く行いがありませんように……」とし、韓民族の直すべき悪習の第一は、嘘と人を欺く行為、すなわち詐欺だと指摘した。


■盲目的反日に疲れを感じる一般市民の数が少なくない

 先日、韓国で『反日種族主義』という本が世間を騒がせた。日本でもかなり反響があったと聞いている。この本が出版された直後、当時青瓦台(大統領府)の民情首席秘書官だった、タマネギ男と称される曺国という者は、「吐き気がする本」と言った。「韓国の嘘文化は、国際的に広く知られている事実」という書き出しで始まるこの本は、右派の独善と情念に偏った本だといった、韓国内での評価にもかかわらず、ベストセラーになった。

 ここで私たちは韓国社会で『反日種族主義』がベストセラーになった理由について考えてみる必要がある。これまで韓国社会で、植民地近代論を称える本がベストセラーになったことは、一度もなく、絶対あり得ないことなのだ。ベストセラーどころか、ややもすると、出版禁止になるのが落ちであった。

 それは民主党左派政権が、自分たちの政治的危機の度に「伝家の宝刀」のように使ってきた官製民族主義や愛国主義、つまり、盲目的反日に疲れを感じる一般市民の数が少なくないことを示している。つまり韓国社会に蔓延している反日感情が果たして妥当かどうかを疑い、この30年間従軍慰安婦問題を独占した「正義連」を中心に唱えられてきた、反日民族主義的歴史認識に、嘘や歪曲があったことに、韓国国民も少しずつ気づくようになったことを意味する。

 韓国がいくら未来と和解を叫んでも、国家間の合意や約束を平気で無視し、覆すなら、国際社会で韓国の言葉と行動を信じてくれる国は、どこにもないだろう。

 相手の非をとやかくいう前に、まず自分の非を冷静に振り返るべきではないか。「リプリー症候群」という反社会的パーソナリティ障害がある。リプリーとは、アラン・ドロンが「太陽がいっぱい」でマット・デイモンが「リプリー」で演じた主人公の名で、つき続けた嘘を真実だと信じるようになる病を指す。韓国は、そのリプリー症候群にかかった社会ではないか。

李東原(イ・ドンウォン)
日韓関係史が専門の評論家

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月25日 掲載

文在寅も激励、日本国内の「最後の徴用工村」…政治的に利用されてきた歴史をひもとく

2020-09-03 12:03:55 | 日記
文在寅も激励、日本国内の「最後の徴用工村」…政治的に利用されてきた歴史をひもとく

8/12(水) 5:57配信

李東原(イ・ドンウォン)

日韓関係史が専門の評論家

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月12日 掲載

新潮社

8月4日を機に徴用工の問題が再びクローズアップされている。

日本国内には、「最後の徴用村」として認識されるエリアがある。反日感情を呼び起こす“素材”として消費され、文在寅大統領も「最後の村」に対し、激励の手紙を送っている。

つまり、母国に戻れず、日本に残った在日韓国人(朝鮮人)はすべて強制徴用で連れてこられて苦労ばかりしていた、そのことを歴史として聖域化し、民族受難の主張形成に利用しよう……というわけだ。

しかし、この土地自体、同じ民族間で土地ころがしが行われるなど曰く付きの場所だったことがあるという。日韓関係史が専門の評論家が綴る。

文大統領による激励の手紙

皆さん、ウトロ村(地区)をご存じですか。日本の方はあまりご存じないかも知れないが、韓国人にはかなり知られているところである。

ウトロ村は、京都府宇治市に造成された、在日韓国人(朝鮮人)の集団居住地。いや居住地であった。

韓国では、けっこう前から、戦時中に強制的に連れてこられ、過酷な労働を強いられた元徴用工やその二世、三世が暮らしている集落として知られている。

新装なったウトロ地区

今や従軍慰安婦問題とともに、日韓関係をこじらせるもう一つの火種となっている徴用工問題。

これと深く関係のある、いわゆる民族の受難史を象徴する歴史的場所として記憶されているわけだ。

また、この地区の住民は、数十年に亘って日本政府と日産グループを相手に居住権の保証を要求する闘争を展開してきた。

その点から、日本国内では在日韓国人(朝鮮人)の人権問題の象徴的事例として、また韓国では日本人の非道をもって反日の素材として利用されているのである。

そもそも町が造成された背景は、以下の通りである。

1942年2月、京都飛行場と併設飛行機工場建設が決定され、日本の国際航空工業が建設工事を受注した。

工事には2000人ほどの人員が動員され、そのうちの約1300人が朝鮮人であり、彼らの家族が生活していたところが、まさにウトロ地区であった。

ほとんどが独身で家族連れにも社宅提供、強制動員者が暮らした事実はない

かつてはウトロ地区ツアーも行なわれた

韓国人には、植民地支配体制の下で、京都飛行場建設へ強制的に動員された労務者たちとその家族がついに故国に戻ることなく村をなして住むことになったという意味で、「ハン」(恨み)が宿るところとして認識されている。

では、ウトロ在住の在日韓国人(朝鮮人)が居住権を主張していた根拠は何か。

「ウトロ住民は、1944年9月から1945年3月までの期間、朝鮮半島でも実施された日本政府の『国民徴用令』によって強制的に日本に連れてこられた徴用労務者とその子孫であり、ウトロ住民の居住権は日本政府や日本の国際航空工業の後身の日産車体、更には日産グループが保証しなければならない」というものであった。

しかし、戦時、強制的に徴用された労働者は、ほとんどが独身であり、彼らは通常、会社の寮で生活をしており、まれに家族を連れた場合には、社宅が提供された。

つまり、強制動員された徴用者たちが村を成して暮らした場合はなかったのである。

また、ウトロ住民が作った「ウトロ国際対策会議」(現在はホームページが消えて確認できない)によると、日本の国際航空工業の1300人の朝鮮人労働者は、そのほとんどが国民徴用令や国家総動員によって日本に徴用されてきたのではなく、経済的理由と徴兵などを避けて移住してきた者たちであると明示していた。

また、韓国政府の「日帝強占下強制動員被害者真相究明委員会」における2006年末の報告書にも、ウトロの住民に対して「強制徴用者ではなく、元から日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明示されている。

つまり、ウトロ地区は、徴用以前から日本に居住していた朝鮮人をベースに、ここに1930年代末に日本に渡ってきた貧しい朝鮮人や被徴用者たちが合流して形成した村であると理解するのが正確だろう。

救援募金が殺到、買い取られた土地は「最後の徴用村」として政治的に利用され

ウトロのために寄付を集めた芸能人たち

かつてウトロ地区の住人が強制収容されるというニュースに接し、韓国と日本で純粋にこれを助けたいという支援団体がいくつかできた。そのなかで「KIN(地球村同胞連帯)」(KINとは韓国内にある在日支援団体)が最も代表的団体であろう。

KINの活動により、2004年9月には韓国で開かれた国際会議にウトロ住民4人が出席し、ウトロ問題を訴えた。

このことを機に、韓国の政府関係者や国会議員グループなどの視察が相次ぎ、韓国内でにわかにウトロ問題への関心が高まった。

さらに、韓国の有名芸能人たちがウトロ村を訪ねて、住民の「ハルモニ(おばあさん)」の手を握り涙を流す「新派劇」さながらの演出をしたりもした。

その後、韓国の市民団体によるウトロ救援募金が殺到し、2007年10月28日、土地を所有する西日本殖産とウトロ町内会で地区全体のほぼ半分を5億円で買い入れる合意が成立した(土地売買にはややこしい流れがあるので後述する)。

今はウトロ村があったところに市営住宅が建ち、55世帯130人の住人がそこに住むことになるとされている。

行くところもない貧しい在日韓国人(朝鮮人)を助けようと運動を行ったのは良いことであり、また、意味のあることであるが、運動を展開する過程でウトロ地区は、日本に残った「最後の徴用村」と呼ばれる歴史的事実の誇張ないしは拡大があった。


だから未だに、韓国国民にとってウトロ地区は、日本内に残っていた朝鮮人たちの「最後の徴用村」として認識され、反日感情を呼び起こす素材として消費されているのである。

私が言いたいことは、在日韓国人(朝鮮人)が日本に定着した過程や経緯は、まさにさまざまであるということである。

にもかかわらず、まるで母国に戻れず、日本に残った在日韓国人(朝鮮人)は、すべてが強制徴用に連れてこられ、苦労ばかりしていたとし、そのことを歴史として聖域化し、民族受難の主張形成に利用してはいけないということだ。


土地ころがしで利益をむさぼったのは同胞
 
また、歴史を歪曲してまで、日韓間の不和を助長し、これを政治的に利用、あるいは扇動してはいけないということ。60万の在日韓国人(朝鮮人)も、自分たちが政治的に利用されることを望んではいないはずである。

付け加えておけば、1945年、日本の敗戦後、ウトロ地区は、軍の飛行場建設事業を受注していた国営企業・日本国際航空工業の所有であった。

軍需企業だった国際航空工業は敗戦後、バスやトラックを製造する自動車会社に変身し、1962年には日産自動車系の日産車体と合併、その時からウトロ地区は、日産の所有地となっている。

その後ウトロ地区は、個人所有を経て、1987年に西日本殖産に転売され、その後もう一回の転売を経て、現在の所有者(ウトロ民間基金財団、韓国政府が支出したウトロ一般財団法人、不動産会社「西日本殖産」)の土地となった。

ところが、この過程で全くとんでもないことが起こった。

日産車体からウトロ地区の土地を買って西日本殖産に土地を転売したのはある個人なのだが、それが他でもないウトロに住んでいた在日韓国人Aだったということである。


買収額は3億円。

この在日韓国人Aに資金を融資したのが、在日本大韓民国民団(『民団』と略称)の幹部Bであり、この幹部Bがウトロ村(地区)を買い取ろうと作った会社が、まさに「西日本殖産」だったのである。

つまり、民団の金持ちの幹部BがAという案山子を立ててウトロ地区を買い入れたということになる。

民団幹部Bがウトロに住む在日韓国人(朝鮮人)の居住権のために土地を買収したのでは? いや、そんなことは絶対になかった。

ところが、私をもっと驚かせたのは、日産から3億円で土地を購入したAがこれを4億円で買い取ったと主張して西日本殖産、すなわちBから4億5000万円を受け取ったということである。

同じ「同胞」に詐欺を働き、巨額の金を手にした在日韓国人Aは、夜逃げをし、Bも1988年に西日本殖産を日本企業に売却してしまったのである。

民団幹部Bがいくらでウトロ地区を日本企業に売り渡したのかは知られていない。

言いたいことはたくさんあるが、少し前に読んだある新聞記事の一節を引用して終わりたい。

「国家間であれ、個人間であれ、『和解』のためには、基本的な情報を得るのが優先である。

耳を傾け、お互いの話を聞くこと。情報を取得し、理解するために感情は最大限に排除すること。深くなった感情の谷は、味方を敵にまわしたりもする」

李東原(イ・ドンウォン)

日韓関係史が専門の評論家

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月12日 掲載

新潮社