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米内光政~終戦工作、帝国海軍の幕引きを担った「グズ政」

2020-09-11 18:44:45 | 日記
米内光政~終戦工作、帝国海軍の幕引きを担った「グズ政」


2018年03月02日 公開

3月2日 This Day in History

米内光政

連合艦隊司令長官、海軍大臣、総理大臣を歴任した米内光政が生まれる

明治13年(1880年)3月2日、米内光政が生まれました。

海軍軍人で連合艦隊司令長官の他、海軍大臣、内閣総理大臣などを歴任した人物です。終戦時の海相としても知られます。


米内は明治13年(1880)、旧盛岡藩士・米内受政(ながまさ)の長男として、盛岡に生まれました。

一家困窮の中、苦学の末、明治34年(1901)に海軍兵学校を卒業(29期)。第六潜水艇の佐久間勉艇長は同期になります。

日露戦争従軍後、第一次世界大戦後のロシアとポーランドに大使館附駐在武官として赴任、ロシア革命の混乱を冷静に分析していたといいます。

米内は兵学校の成績は中程度でしたが、一つの問題に対して納得のいくまで、あらゆる角度からアプローチするタイプで、それを知る人たちからは逸材と見られていました。

また、部下からも慕われる人で、山本五十六が絶対の信頼を置いていたこともよく知られます。


米内が連合艦隊司令長官から転身して、海軍大臣に就任したのは昭和12年(1937)、58歳の時のことでした。

間もなく陸軍が主張した日独伊三国軍事同盟締結に、海相の米内と次官の山本五十六、軍務局長井上成美のトリオが真っ向から反対します。

翌年、ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶという背信行為に、平沼騏一郎内閣は総辞職。

米内も海相を辞任し、山本五十六は海軍次官から連合艦隊司令長官に転任しました。

戦後、緒方竹虎(ジャーナリスト・政治家)に「米内・山本の体制があのまま続いていたら、あくまで三国同盟に反対したか」と訊かれると、米内は「無論、反対しました。

でも、殺されていたでしょうね」と語ったといわれます。

間もなく欧州で第二次世界大戦が勃発。昭和15年(1940)、米内は思いがけず首相に就任しました。

欧州の大戦について米内は不介入の立場を堅持しますが、ドイツの快進撃に刺激された陸軍は、三国同盟を認めない米内内閣にこれ以上協力できないとして、陸相が辞表を提出。米内内閣は僅か半年で総辞職となりました。

戦後、昭和天皇は「米内の内閣がもう少し続いていたら、あの戦を避けることができたかもしれないね」と何度か語ったといわれます。

米内退陣の2カ月後、日独伊三国同盟はあっさりと締結され、さらに翌昭和16年末には米英を相手取る太平洋戦争が勃発。米内が最も危惧した事態となりますが、すでに予備役に編入されていた米内には、何もすることができませんでした。

しかし戦局の悪化と時代の急転が、再び米内を表舞台に登場させます。

昭和19年(1944)7月、65歳の米内は小磯国昭内閣の海相に就任。米内は海軍次官に井上成美を抜擢し、井上は部下の高木惣吉少将に終戦工作研究の密命を下しました。一日も早い

戦争終結が、米内、井上らの共通認識だったのです。

しかし、この頃の米内は血圧が250を超えており、いつ脳溢血で倒れるかわからない状態でした。

米内はしばしば井上に「大臣の椅子を譲りたい」と言いますが、状況はそれを許しません。

昭和20年(1945)4月、小磯内閣が倒れ、戦艦大和が沈没したその日の4月7日、鈴木貫太郎内閣が誕生します。

井上次官は鈴木首相の本心が終戦を目指すことにあるのを確認した上で、米内の海相留任を推しました。

もっとも米内も「グズ政」のあだ名があるほどで、政治的駆け引きは得意ではない方です。

ただ自分が正しいと思うことは決して譲らず、梃子でも動きません。その点で鈴木貫太郎首相と通じる部分があり、右腕としての活躍を期待されたのです。

7月26日、連合国側からポツダム宣言が発せられ、鈴木首相が「黙殺する」と言ったことが原子爆弾投下とソ連参戦の口実となりました。

しかしこの黙殺は「ノーコメント」の意味であったのを、外国の新聞が「reject(拒絶)」と訳してしまった側面があります。

やがて2発目の原爆が長崎に落とされ、閣僚たちは否応なく終戦の決断を迫られました。

陸相が本土決戦論を唱え、決定は深夜の御前会議にもつれこむことになる中、米内はここが切所と見て、鈴木首相にこう伝えます。

「多数決で結論を出してはいけません。きわどい多数決で決定が下されると、必ず陸軍が騒ぎ出します。それは死に物狂いの騒ぎですから、どんな事態にならぬとも限りません。決をとらずにそれぞれの意見を述べさせ、その上でご聖断を仰ぎ、それをもって会議の結論とするのが上策でしょう」


果たして鈴木首相は、その通りに見事に会議をリードし、昭和天皇の聖断によってポツダム宣言受諾の裁決が下されました。

8月15日、鈴木内閣総辞職。ところがあれほど海相を辞めたがっていた米内は、体調不良にもかかわらず、自ら望んで東久邇宮内閣、幣原内閣の海相に留任します。

その理由はただ一つ、自分の手で責任をもって、日本海軍の葬式を出すためでした。

11月30日、明治以来の海軍の官制が、ついに廃止。

翌日、宮中に召された米内は昭和天皇より、「米内には随分苦労をかけたね。健康にくれぐれも注意するように」というねぎらいの言葉と記念に硯箱を賜りました。

硯箱を持って退出した米内は、廊下で声を殺して泣いたといわれます。

3年後の昭和23年、米内は没します。享年69。

戦争終結と日本海軍の幕引きのために、まさに精魂を使い果たしての最期でした。

米内が逝去した年の暮れ、小泉信三が米内について雑誌に書いた記事を読んだ昭和天皇は、小泉と顔をあわせた時に「あれを読んで、米内が懐かしくなった」と語り、さらに続けて、「惜しい人をなくした」と言われたといいます。

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拉孟守備隊の戦い

2020-09-11 17:29:49 | 日記
拉孟守備隊の戦い

 拉孟は、中国南西方の雲南省を南北に貫流する怒江の西岸、ラングーン(現ヤンゴン)と昆明を結ぶビルマ公路の要衝にある。レド公路(インドのレドから昆明に達する中国支援ルート。

途中からビルマ公路と合流する)啓開を目指す中国軍にとっては、彼の地を攻略しない限り公路の打通は望み得ない極めて重要な地点であった。
 
この地は、1942年春の日本軍進攻以来、歩兵第113連隊第2大隊が守備しており、陣地構築に力を注いでいた。

43年中期以降、中国雲南遠征軍の攻勢準備が進展すると、拉孟は、最小限の兵力をもって空陸からする猛攻に対してもこれを固守して、師団(第56師団)主力の作戦を容易にするように命ぜられ、陣地の耐久力も格段に強化された。
 
44年5月11日、雲南遠征軍の攻勢開始とともに守備隊主力は、歩兵第113連隊の軍旗を残して出撃したので、野砲兵第56連隊第3大隊長の金光恵二郎少佐が守備隊長となり、同大隊を基幹として第113連隊の残置兵力を合した部隊が、拉孟守備隊として防衛の任務に就くことになった。
 
そこで、この節には、1944年6月2日~9月7日の拉孟における守備隊の勇戦と、その玉砕について紹介する。
 
中国軍は、1944年5月頃から怒江以東のビルマ公路の補修を始め、連日弾薬、資材、食糧などの集積に努めていた。

6月1日、怒江東岸の鉢巻山頂上に雲南遠征軍(以下「遠征軍」と略称)の兵士が現れ、悠々と工事を始めた。守備隊砲兵は遠征軍砲兵の制圧を企図したが、その位置が守備隊から見て死角に入っており、射撃を実施することはできなかった。
 
翌日、鉢巻山に進出した数門の重砲射撃によって、遠征軍の攻撃が開始された。守備隊の砲兵もまた応戦し、怒江峡谷一円は彼我の砲声に包まれた。
 
さて、この当時の守備隊兵力であるが、前述したように主力は出撃した後であり、その残置部隊と野砲兵大隊を合わせて人員約1290名(戦傷患者約300名と邦人(非戦闘員)約20名含む)、火砲22門を数えた。
 
次いで6月3日、遠征軍はさらに砲兵を増加して対砲兵射撃にその火力を指向した。一方で、拉孟の南方より怒江を渡河した中国軍の新編第28師(約6900名)は、6月7日、守備隊の前進陣地に対して攻撃を開始すると共に、一部をもって拉孟の南方を迂回して、拉孟と後方を繋ぐビルマ公路を遮断した。

これによって守備隊と師団主力の間での連絡は途絶し、無線以外では不可能となってしまった。
 
新編第28師は、6月14日から第1回総攻撃を実施した。連日2個大隊内外の兵力を逐次交代させて、一部は陣地内に突入してきた。

また、16日、拉孟の北方に進出した新編第39師(約5000名)は、直接主戦闘陣地に対する攻撃を開始した。

しかし、この方面は地形峻険の為、陣地の至近距離には接近できず、6月20日頃には、完全にこの攻撃を破砕した。

6月28日には、雨期の間隙をついて日本軍戦闘機が飛来し、手榴弾や小銃弾を投下した。守備隊は、戦闘開始以来初めて見た友軍機の姿に、士気大いに揚がった。
 
しかし、この間の砲撃戦で、守備隊の弾薬庫が被弾破裂し、その損耗は非常な痛恨事で、早くも歩兵弾薬の不足を告げるに至った。

拉孟攻撃の失敗を知った遠征軍司令官の衛立煌大将は6月20日、総予備の栄誉第1師(約5600名)を拉孟に急派して、新編第28師と交代させた。

また、遠征軍は7月上旬に、ついに怒江唯一の橋梁である恵通橋の架橋を完成し、同橋を通ずる自動車輸送により、小銃弾すら届くような陣前至近距離まで弾薬資材を運び込み、次期攻勢準備を推進した。

一方の守備隊は士気きわめて旺盛で、破壊された陣地の補修増強に努め、前進陣地の一部から守兵を撤収して主戦闘陣地を強化した。
 
栄誉第1師は、ロケット砲などの新鋭火器も使用して、7月4日から第2次総攻撃を開始した。

怒江対岸の重砲の密接な支援の下に、猛烈な突撃をしてきた。攻撃は、ほぼ1日おきに実施されたが、7月15日頃守備隊は再びその攻撃を破砕した。
 
だが、死闘は遠征軍の来襲以来1ヶ月半にわたり、守兵の損耗も約30%に達し(一般に、部隊の損耗が30%以上になると、戦闘力は激減するという)、砲兵弾薬も7月中旬には欠乏を告げ、遠征軍砲兵の活動も傍観せざるを得なくなった。

天候も、完全な雨期に入り、1ヶ月の約半分は雨で、壕内は膝までぬかるみと化し、守兵に脚気やマラリア患者が続出した。
 
衛立煌大将は、第2次攻勢も再び失敗に終わったので、昆明に控置してあった第82師、第102師を拉孟に急派して、第3次攻勢を準備させた。
 
遠征軍の第3次総攻撃は、7月20日に開始され、新鋭の第82師、第102師は、主力を挙げて終日猛攻撃を加えた。

陣地には、1日7000~8000発もの砲爆撃が叩き込まれた。それに膚接して攻撃部隊が陣前に肉薄し、手榴弾を投げる。

守兵はそれを壕外に投げ返す。遠征軍の部隊は入れ代わり立ち代わり近接を試み、突撃支援射撃に続いて陣内に突入し、白兵戦が始まる。この様に壕内での戦闘は、熾烈をきわめた。
 
7月25日頃の守備隊の兵力は、約300名に減少した。第113連隊長松井大佐は7月20日、最悪の場合は軍旗を奉焼するように電報で命じた。

また、第56師団長松山中将は、9月初頭に実施される反撃作戦の計画に基づき、全般の関係から9月上旬まで拉孟を死守するよう命令した。
 
しかし守備隊長の金光少佐としては、現有戦力と弾薬・食料の関係から、それまで拉孟を確保する自信はなかったらしい。

即ち砲兵弾薬はそれぞれの砲に自決用の最後の1発を残して既に無く、歩兵弾薬は著しく欠乏し、食糧も7月下旬倉庫を焼かれて、8月以降は乾パン一袋を2日に食い延ばさざるを得ない状況であった。 

8月2日、激烈な死闘の末に前進陣地は全て奪取された。

遠征軍は、前進陣地攻略の余勢を駆って8月7日、第4次総攻撃を開始した。この頃守備隊の兵員で健康な者は、200余名に減っていた。

金光少佐は、「我の最も痛手とする敵の火砲を破壊して、守備隊の士気を鼓舞しよう」と、4名1組の挺進破壊班を7個編成した。
 
8月8日、9日の両日、中国の民間人に変装した破壊班は、夜暗に乗じて遠征軍の包囲をすり抜け、10日夜、敵火砲5門その他を破壊した上、自らは戦死2名を出したのみで、他は12日無事に帰還した。
 
8月6日と12日、守備隊は航空機十数機による弾薬の空中投下を受けた。その模様は、当時の電文によると次のようであった。

「今日も空投を感謝す。手榴弾100発、小銃弾2000発受領。将兵は1発1発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり」

「我が飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これが為敵火を被るは、守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところなり。余り無理なきようお願いす」
 
遠征軍は、依然優勢な砲兵を展開し、航空機の援護下に、主陣地帯の中央付近にある関山陣地に主攻撃を指向した。この陣地の守兵は連日の激戦で半減していたが、なおも頑強に死守し続けていた。攻略の困難を察知した遠征軍は、地上攻撃と併行して、8月初旬から約20日間にわたって、関山陣地の直下まで坑道を掘り、地中から陣地の爆破を図った。
 
8月19日から始まった攻撃は、まずあらゆる砲火を集中して陣地要部を破壊し、翌20日も砲撃を続行しつつ、地中3ヶ所から陣地を爆破した。同時に遠征軍の突撃が開始され、守兵は白刃を振るって奮戦したが、午後、ついに関山陣地は奪取された。
 
金光少佐は、各地区から兵員を抽出して1個中隊を編成し、関山陣地を奪回すべく20日夜、逆襲させた。この夜襲は一旦は成功したものの、再び奪取された。22日未明、逆襲が再興されてまたも関山陣地を回復したが、天明とともに実施された遠征軍の砲撃によって守兵に死傷続出し、金光少佐も撤退を命じざるを得なかった。
 
この頃第33軍(第56師団が属する上級部隊)は、遠征軍に対する総反攻を準備中であり、攻撃開始は9月3日の予定で、9月10日頃までには当面の敵を撃破して、拉孟付近に進出することになっていた。

守備隊はこの日を唯一最大の希望として、僅かに生き残った100名余りの将兵は戦い続けたが、8月29日、遠征軍の攻撃で拉孟の陣地中央部は完全に制圧され、南北に分断されてしまった。
 
9月5日、拉孟最期の時も迫りつつあると判断した金光守備隊長は、師団主力に決別の電文を打った。

「通信の途絶を顧慮して、予め状況を申し上げたし。……周囲の状況急迫し此までの戦況報告の如く全員弾薬食糧欠乏し、如何とも致し難く最後の時迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力を揮ってよく勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力の為御期待に沿うまで死守し得ず。まことに申し訳なし。謹みて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下はじめ御一同の御武運長久を祈る」
 
金光少佐は重要書類を焼却し、無線機を破壊してさらに徹底抗戦を図ったが、9月6日早朝から再び猛攻を受け、特に迫撃砲の集中火によって多数の者が死傷した。17時頃、迫撃砲弾の破片が金光少佐の腹部と大腿部を粉砕した。
 
こうして拉孟に夕闇迫る頃、拉孟守備隊長 金光恵次郎少佐は、壮烈な戦死を遂げたのである。
 
金光少佐の死後、第113連隊副官 真鍋邦人大尉が代わって全般の指揮をとった。いよいよ守備隊の命運も窮まり、玉砕も時間の問題と覚悟された。
 
明くれば9月7日、真鍋大尉は軍旗を奉焼し、また木下中尉以下3名を、報告の為陣地から脱出させた。

陣内には100日の死闘を物語るかの如く、死屍累々たる中に負傷者が呻いていた。

守兵のうち無傷の者は皆無に近く、全兵力は約80名であった。
 
この日も早朝から遠征軍の砲撃が陣地に注がれた。正午を過ぎ攻撃はますます激しさを加え、守備隊の生存者が拠る最後の陣地は、僅か150メートル四方に過ぎなかった。
 
夕方、刀折れ矢尽きた真鍋大尉以下50余名は、ついに敵中に突入して全員玉砕した。
 
かくして9月7日18時頃、拉孟一帯の銃砲声は止んだ。
 
雲南遠征軍が拉孟陣地攻撃に投入した兵力は、総計5個師約41000名、火砲157門に及んだ。守備隊は約30倍もの敵に包囲され、死闘を続けたのだった。

さて、この戦いには後日談がある。まず、金光大佐(玉砕後2階級特進)の遺命により拉孟を脱出した木下中尉達であるが、彼らは敵中を巧みに潜行し、9月15日、辛うじて第56師団の前線に辿り着き、戦闘の様相を報告した。
 
重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有様、空中投下された手榴弾に手を合わせ、一発必中の威力を祈願する場面、弾薬が尽きて敵陣に盗みに行く者、取り残された邦人女性約20名が臨時の看護婦となり、弾運びに、傷病兵の看護に、または炊事にと健気に働く姿など、語る者も聞く者も、ただ涙あるばかりであった。
 
さらに木下中尉は、真鍋少佐(玉砕後特進)の手紙を松井連隊長に渡したが、それには

拉孟の将兵は固く軍旗を守り、連隊長殿の帰られることを信じ、最後の一兵まで血戦を続けます。小雀はチューチューと鳴いて、親雀の帰りを待っています。………」とあった。
 
松井少将(8月1日進級)も、部下を救い得なかった無念の思いで、暫し悲憤の落涙を禁ずることができなかったという。

もう一つは、9月9日、中華民国総統の蒋介石が、部下将兵に与えた訓示である。これこそは、敵側が如何に拉孟守備隊の勇戦に苦しめられたかを明確に示す証拠であり、蒋介石から拉孟の将兵に手向けた逆感状とも言えるであろう。

「松山陣地(拉孟陣地と同義)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。(中略)戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。(中略)

諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミートキーナにおいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し

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ビルマの戦い~インパール作戦 「白骨街道」と名付けられた撤退の道

2020-09-11 17:11:59 | 日記
ビルマの戦い~インパール作戦 「白骨街道」と名付けられた撤退の道

68年前の昭和19年3月、日本軍は3個師団を繰り出して、連合軍の反攻の中心地であるインド・マニプル州の州都インパールを攻略する作戦を開始した。

前年から始まった連合軍の反攻を食い止め、中国・国民党政府への援助を遮断するためだった。

いったんは、連合軍にとっての拠点の一つ「コヒマ」まで進み、これを制圧、連合軍の補給ルートを遮断したかに見えたが、日本軍は前線への補給が続かず、作戦は発動から3か月あまりで失敗に終わった。

そして、撤退路の多くで、将兵が飢えと病に倒れた。インパール作戦は、当初から無謀な作戦であると反対意見が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められ、戦闘中に師団司令官が独自に撤退を決めたり、更迭されたりするなど特異な事態が出現、戦後も長きにわたって批判された。


インパール作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよぶ。

この作戦に参加した日本軍将兵や日本軍と戦った英軍将兵の証言、関連の番組でインパール作戦を始め、ビルマ戦線で何が起きたのかを振り返る。


ビルマの山中を行く日本軍部隊

ビルマ戦線でたおれた日本軍兵士
1. ビルマ攻略戦~拉孟・騰越での玉砕戦 第56師団の戦い
2. 密林に倒れた「最強」部隊を救出せよ ~第18師団・敦賀第119連隊~
3. インパール作戦開始~コヒマまでたどり着いた高田第58連隊~
4. 伸びきった補給線~インパールを目指した第15師団~
5. 英軍将兵の見た「ビルマの戦い」


1. ビルマ攻略戦~拉孟・騰越での玉砕戦 第56師団の戦い
福岡・佐賀・長崎出身者で編成された56師団の兵士たちは、昭和17年にビルマの攻略戦に投入され、中国軍を国境の外へ押し出した後、国境の守備に就いた。

しかし、米軍の支援を受けた中国軍が昭和19年の半ばから反撃に乗り出してきた。国境を越えてくる優勢な中国軍に対し、インパール作戦のために援軍をえられないまま、拉孟・騰越で守備軍は玉砕した。


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第56師団 ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 ~徳島県・歩兵第143連隊~
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中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~ 第88号 ビルマ戦線 第91号 ビルマ快進撃 第94号 特報ラングーン占領
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第95号 ラングーン完全占領 第98号 ビルマ英蒋軍撃破 第100号 マンダレー進撃 第102号 マンダレー攻略
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第103号 ビルマ戦線エナンジャン陥落 第104号 ビルマ戦線 緬支国境突破 第149号 北ビルマ国境 蠢敵掃蕩戦 第150号 雲南作戦
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第151号 印緬国境戦 第235号 雲南戦線
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2. 密林に倒れた「最強」部隊を救出せよ ~第18師団・敦賀第119連隊~
福岡県久留米市で編成され、菊兵団と名付けられた陸軍18師団は、中国戦線、シンガポール攻略戦、ビルマ攻略戦を戦ったあと、ビルマ北部のフーコン谷地と呼ばれる密林で、昭和18年秋から重装備の連合軍と激戦を戦った。

しかし、補給のないなか装備の違いもあり、玉砕する部隊が相次ぎ、昭和19年6月までに3000人の戦死者を出した上に、撤退路で多くのが餓死者を出した。一方、福井県の敦賀119連隊は、菊兵団の盾となって、菊兵団の生き残った将兵の「収容」のため、最前線へ派遣され、やはり重装備の連合軍の攻撃と食糧医薬品不足のため、3000人の連隊兵士の半数が命を落とした。


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第197号 ビルマ前線の陸軍部隊
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3. インパール作戦開始~コヒマまでたどり着いた高田第58連隊~
インパール作戦に参加したのは、15師団、31師団、33師団の3個師団であった。そのうち、31師団に所属する58連隊は、3月に出発して3000m級の山を弾薬や食料を積んだ牛を引いて越え、連合軍のインパールへの物資輸送の拠点コヒマに向かった。

いったんは、コヒマを攻略しインパールを孤立させたかに見えたが、補給と援軍を受けた英印軍の反撃が激しさを増し、5月末、31師団の佐藤師団長は、まったく補給のないことを理由に、独断で撤退を開始。激怒した牟田口軍司令官によって師団長を更迭される。さらに、雨季を迎えた密林の中で食糧のないまま撤退を始めた将兵たちは、病と飢えで次々に脱落、将兵の死体があふれたその撤退路は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。


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4. 伸びきった補給線~インパールを目指した第15師団~
京都府出身者を中心に編成された第15師団は、昭和19年3月15日にチンドウィン川を越えて、直接インパールを目指し進軍を始めた。日本軍を引き込んでたたくという英印軍の方針もあり、部隊はインパールを見下ろす高地まで短時日でたどり着く。

しかし、人力で運べる分しか武器、弾薬、食料を持たない15師団は、ここで、豊富な砲弾と機甲部隊を持つ英印軍の激しい反撃にあい、草を食みながら白兵戦を挑むしかなくなる。補給を訴える15師団の山内師団長も牟田口軍司令官によって解任された後、15師団は撤退を始めた。この撤退路でも餓死、病死者が続出した。


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ビルマやインドで日本軍と戦ったイギリス人将兵は、死ぬまで銃を離さず、捕虜にもならない日本軍の戦いぶりに背筋を凍らせた。イギリス人将兵にとってもインパールの戦闘は、猛スピードで進軍してくる日本の大軍を迎え撃つ困難な戦いだったという。

コヒマでの防衛戦や、山岳地帯での白兵戦、日本軍同様に荷を積んだラバを率いた作戦、日本軍の武装解除などに当たったという人々の証言である。


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資料映像

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人類史上最悪…犠牲者3000万人「独ソ戦」で出現した、この世の地獄

2020-09-11 16:37:32 | 日記
人類史上最悪…犠牲者3000万人「独ソ戦」で出現した、この世の地獄

知るだけで怖くなる

人類史上全ての戦争の中で最大の死者数を計上した独ソ戦。血で血を洗う戦場ではいったい何が起きていたのか。これまで日本で語られることのなかった絶滅戦争の惨禍を、最新研究をもとに振り返る。

わが子にわが子を食わせる
1941年、ドイツ軍に包囲されたソ連第2の都市・レニングラードの街角は死体で溢れていた。

ヒトラーは、「革命の聖地」であるレニングラードを軍隊で奪取するのではなく、包囲したうえで飢餓地獄に陥れ、市民もろとも守備隊を全滅させることを狙ったのだ。

冬が到来すると、死体から人肉を食らう凄惨なありさまとなった。ソ連の内務人民委員部(秘密警察)の文書には以下のような記録まで残っている。

「ある母親は、上の子どもたちを生き延びさせるために、末の赤ん坊を殺して食べさせた」

日本では第二次世界大戦といえば太平洋戦争がイメージされやすく、これまで独ソ戦についてはほとんど語られてこなかった。

しかし、7月に刊行された『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)がベストセラーとなり、発売わずか11日で4刷といま大きな話題を呼んでいる。著者で、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを歴任した現代史家の大木毅氏が語る。

「独ソ戦は歴史上稀に見る残虐な戦争でした。その凄惨さは数字を見るだけでわかります。ソ連は'39年の段階で1億8879万3000人の人口を有していましたが、第二次世界大戦で戦闘員、民間人合わせて2700万人が失われたとされています。

一方ドイツも、'39年の総人口6930万人のうち、戦闘員が最大531万8000人、民間人も最大300万人を失ったとされています」(以下「」内は大木氏の発言)

'41年、ナチス・ドイツの国防軍が、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻して始まった独ソ戦では、北はフィンランドから、南はコーカサスまでほぼ3000㎞にわたる戦線で、1000万の大軍が激突。少なく見積もっても3000万人以上が命を落とした。

世界史的に見れば、第二次世界大戦の主戦場は独ソ戦だったとも言いうるのだ。

当時、ドイツではヒトラーがナチスによる一党独裁体制を確立していた。一方で、ソ連ではスターリンが自身を頂点とした強力なテロ支配体制(秘密警察による支配)を敷いていた。

稀代の独裁者同士による戦いの現場でいったい何が起きていたのか。大木氏とともに独ソ戦の歴史を振り返る。


まず時計の針を戦前の'37年まで巻き戻そう。この時ソ連内ですでに悲劇は始まっていた。スターリンによる大粛清である。

「レーニンが没した後、スターリンの権力基盤はなおも不安定でした。『隙あらば反逆に踏み切り、自分を追い落とそうとしている者が多数いる』、強迫観念に囚われたスターリンは秘密警察を動員し、ソ連の指導者たちを逮捕、処刑させたのです」

'37年から'38年にわたって、3万4301人の将校が逮捕、もしくは追放され、そのうち2万2705人が銃殺されるか、行方不明になっている。これだけ見ても粛清がいかに苛烈なものであったかがわかるだろう。


結局'41年6月にドイツ軍に攻め込まれたときには、ソ連軍の指揮官は素人ばかりという有り様。まともな戦略も立てられず、ただ反撃するべしという原則のみが習い性になっていた。

兵士の中には、無茶な命令をする指揮官を殺そうとしたり、逃亡したりする者が続出した。兵器を持っていても、有能な指揮官がいなければ元も子もない。

降伏しても殺される

開戦当初、ソ連軍は当然のように大敗を喫した。7月初旬までにドイツ軍に捕虜にされたソ連兵は32万人にも及んだという。捕虜になったソ連兵にはさらなる地獄が待ち構えていた。

「ヒトラーは独ソ戦を世界観戦争であると規定しました。すなわち『人種的に優れたゲルマン民族が劣等人種スラヴ人を奴隷化し支配する』という世界観です。そのためソ連兵捕虜は人間として扱ってもらえなかった。

食料も充分に配給されず、ろくに暖房もない収容所にすし詰めにされ、重労働に駆り出された結果、大量の兵士たちが飢餓や凍傷、伝染病で死んでいきました。570万人のソ連軍捕虜のうち、300万人が死亡したと言われています」

一度捕虜にされてしまえば死亡率は53%。降伏したところで、命の保証はなかったのである。

ヒトラーやドイツ軍のこうした残虐行為はもちろん占領下の一般市民にも向けられていく。ナチスは占領したソ連領から食料を収奪し、現地住民を飢え死にさせてでも、ドイツ国民、ドイツ軍の将兵に充分な食料を与える計画を立てたのだ。

「通称『飢餓計画』と呼ばれる構想です。計画を立てた食料農業省次官、ヘルベルト・バッケのロシア人に対する評価は非情なもので、こう言い放っています。

『ロシア人は、何世紀もの間、貧困、飢え、節約に耐えてきている。その胃袋は伸縮自在なのだから、間違った同情は不要だ』」

ドイツ軍に食料を奪われた占領下の住民に残されたのは、わずかなパンとジャガイモのみであった。ソ連の厳しい冬を越すことができず、多くの餓死者が出た。

捕虜の95%が死亡

死ぬまで行進

この独ソ戦では、無意味としか思えない民間人の虐殺まで繰り広げられた。虐殺を担当したのは、ナチス・ドイツの有する「出動部隊」(アインザッツゲルッペ)である。


ドイツ軍が制圧した領地に入り込み、教師や聖職者、貴族、将校、ユダヤ人などを、占領軍に反抗するかもしれないという理由で殺害してまわった。

「出動部隊はなんの罪もない住民たちを、森や野原に追いたて、まとめて銃殺しました。出動部隊の手にかかった人々の数は少なくとも90万人と推定されています」

出動部隊は殺害の効率化を進めるため、射殺から毒ガスの使用へと方針を切り替えた。アウシュビッツ強制収容所のガス室の最初の犠牲となったのはユダヤ人ではなくソ連軍捕虜600人だったといわれる。

開戦当初は敗北を喫したソ連軍であったが、冬が到来すると極寒を衝いて反撃を始め、戦況は泥沼化していく。

「ソ連軍の反撃に危機感を抱いたヒトラーは『総統の許可なくして、一歩たりとも退却してはならない』という仮借ない命令をドイツ軍に下しました。

一方でスターリンもソ連軍の主力部隊の背後に、脱走兵を射殺する『阻止部隊』を配置し、前線部隊の退却を許しませんでした」

捕虜になっても逃亡しても殺されるのだと知った両軍の兵士たちは、どんなに絶望的な状況に追い込まれようとも徹底抗戦し、戦場はまさに地獄の様相を呈していた。

戦闘が長期化するに従い、膨大な予備兵力を持つソ連が徐々に攻勢を強めるようになった。戦地に増援を次々と送り出し、砲兵や航空機によって敵の最前線から後方までを同時に制圧する「縦深戦」を展開し、一気に形勢を逆転したのだ。

形勢の逆転によって始まったのが、ソ連軍による報復だ。特に捕虜となったドイツ兵の扱いは常軌を逸しており、食料も与えぬまま、死ぬまで徒歩で長距離行軍させるなど、非人道的な蛮行が繰り返された。

「ドイツ兵捕虜は、収容所に入ってからも、破壊された建物や地下壕、天幕などで寝泊まりする状態で、重労働を強いられました。食料は水でカサ増ししたパンと、ジャガイモの皮や魚の頭、犬や猫の肉などしか与えられなかった。

夏季には野草摘みに駆り出され、それでスープを作ったものの、毒草であったため、多くの死者を出したという例もあります」

ソ連の捕虜収容所で生き残ったドイツ兵士はたったの5%に過ぎなかったという。
またドイツ兵だけでなく、ソ連国内のドイツ系住民にも、悲劇が降りかかった。

「ソ連にはヴォルガ・ドイツ人をはじめとする多数のドイツ系住民がいました。スターリンは彼らに対し、シベリア、カザフスタン、ウズベキスタンへの強制移住を命じたのです」

70万人とも120万人ともいわれる人々が、家畜運搬用の貨車や徒歩での大移動を強制され、飢えや渇き、過剰に貨車に詰め込まれたことによる酸欠で死亡した。

前線のソ連軍将兵の蛮行も、その残虐さに引けを取るものではなかった。ソ連軍将兵は敵意と復讐心のままに、略奪や暴行を繰り広げたのである。

「ソ連軍の政治教育機関は、そうした行為を抑制するどころか、むしろ煽りました。ソ連軍機関紙『赤い星』にはこのように書かれています。

『もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体に勝る楽しみはないのだ』」

やられたらやり返す、そこにあるのは、剥き出しの憎悪だ。ソ連兵青年将校が見た戦場の証言を聞こう。

「女たち、母親やその子たちが、道路の左右に横たわっていた。それぞれの前に、ズボンを下げた兵隊の群れが騒々しく立っていた」「血を流し、意識を失った女たちを一ヵ所に寄せ集めた。そして、わが兵士たちは、子を守ろうとする女たちを撃ち殺した」

戦争はここまで人間を残虐にさせるのだ。

国民が共犯者

最終的に、'45年4月26日にソ連軍がベルリン市内に突入、ベルリンのドイツ軍守備隊は5月2日に降伏した。それに先立つ4月30日、ヒトラーは総統地下壕で自殺していた。その遺書には、なお闘争を継続せよとの訴えが記されていた。

こうして独ソ戦は幕を閉じる。なぜこのような凄惨な戦争が繰り広げられたのか。一つにはドイツとソ連双方が「通常戦争」を放棄したことが原因に挙げられる。



「通常の戦争であれば、戦争の目的を達成したら、講和を結んで終結させます。しかし、独ソ戦においては、両国ともが、互いを滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを掲げていたために、相手を徹底的に殲滅するまで戦争を終わらせることができなかったのです」

そして、何より大きな要因はこうしたイデオロギーに国民が共犯者として同調したことが挙げられるだろう。

「ドイツ人は、戦時下なのに、自分たちには食料が配給される、この食料はどこから来るのか、ということはみんな薄々わかっていたわけです。

わかっていながらナチスを支持していた。ソ連にしても、『侵略者』と戦おうと自ら志願した者が多数いた。聖戦意識が強かったのです」

ドイツとソ連が国ぐるみ、国民総出で殺し合った皆殺しの戦争は、人間とは何かという問いを70年後の現在に投げかけている。

「週刊現代」2019年8月10日・17日合併号より



文在寅政権が直面するであろう韓国経済の現状を分析していきたい

2020-09-11 13:08:57 | 日記
新型コロナ不況が浮き彫りにした「韓国経済の最大の弱点」とは?

5/2(土) 8:57配信

金 明中/Webオリジナル(特集班)

4月15日に行われた韓国の総選挙では、文在寅政権を支える与党「共に民主党」など文在寅大統領を支持する勢力が300議席のうち、過半数を上回る180議席を獲得し、圧勝した。

韓国国民は、文在寅政権の新型コロナウイルスへの対応を高く評価し、国難を乗り越えるために変化より安定を選択した。この結果、文在寅政権は議会での主導権を握ることになり、安定的な国会運営が可能となった。

しかし、新型コロナウイルスの影響により、しばらくの間世界経済が減速することを考えると、輸出など対外依存度が高い韓国経済の今後はかなり厳しいと予想される。

これから文在寅政権が直面するであろう韓国経済の現状を分析していきたい。

通貨問題という“弱点”
 
韓国の中央銀行である韓国銀行は3月19日、アメリカの米連邦準備理事会(FRB)と600億ドル規模の通貨スワップ協定(以下、通貨スワップ)を締結したと発表した。

通貨スワップ協定とは、自国の通貨の暴落というような緊急事態、つまり通貨危機が発生した際に、あらかじめ協定を結んだ相手国との間で、自国通貨と引き換えに相手国の通貨を融通してもらうことである。

韓国政府がアメリカと通貨スワップを締結するのは今回が2回目。1回目はリーマンショックによるグローバル金融危機があった2008年10月で、金額は300億ドルであった。

今回、韓国政府がリーマンショック以来というアメリカとの「通貨スワップ」に動き出した理由は、新型コロナウイルスの影響によるウォン安ドル高の進行、株価の暴落等の金融市場の不安とドル資金の逼迫感を解消し、資金流出と通貨下落を防ぐためである。

実際、韓国で初めて新型コロナウイルスの感染者が確認された1月20日には1ドル=1160ウォンであった為替レートは、米韓通貨スワップ前日の3月18日には1ドル=1261ウォンまで下落。さらに、2月までは2000を上回っていた株価指数(KOSPI)も3月19日には1458まで暴落していた。

3月19日にアメリカと通貨スワップを締結してから金融市場に対する不安が解消された後、株価は少しずつ上昇し、ウォン安も止まるなど金融市場は安定化され始めた。

また、アジア危機があった1997年末に89億ドルであった外貨準備高は2020年3月末時点には4002億ドルまで増加した。通貨スワップで確保したドルと外貨準備高の合計額はおよそ約6000億ドルに至った。

なぜさらに外貨準備高を増やしたいのか
 
このように大きな改善が見られたものの、韓国政府はさらに外貨準備高を増やす政策を続けている。

丁世均首相は今年の3月27日に開かれた記者懇談会で「(米国に続き)日本との通貨スワップも行われることが正しいと考える」と発言するなど再開に意欲を示した。

一方、日本の麻生太郎副総理兼財務相は、韓国側から「協定の再開を要求する声があるが、どうする考えか」という質問に対し、「仮定の質問には答えられない」と冷たい対応に終始した。

日本と韓国の間の通貨スワップは2001年7月に20億ドル規模で始まり、2011年には700億ドルまで徐々に拡大したが、2012年に韓国の李明博元大統領の竹島(韓国名:独島)上陸をきっかけに日韓関係が悪化したため2015年2月に終了していた。

 
なぜ韓国政府は、そんな経緯のある日本との通貨スワップを持ち出してまで、外貨準備高を増やそうとしているのか?

その一つ目の理由は韓国の通貨がドルや円のような基軸通貨ではないからである。

 アメリカや日本のような先進国は外貨が足りなくなった場合、量的緩和を実施し、通貨を発行することで外貨不足の問題を解決することができる。しかしながら、自国の通貨が基軸通貨ではない韓国のような新興国は、外貨が足りなくなると他の国から外貨を借りなければならない。

外貨が借りられないと通貨危機に直面することになる。1997年のアジア通貨危機がその良い例である。

当時、韓国では、ウォンの急落により外貨で借りていた借金が膨らんだ。外貨準備高は39.4億ドルしかなく、海外からの資金は引きあげられ、外貨を借りることもできなかった。結局、韓国はIMFに緊急支援を要請することになった。

そして、二つ目の理由に、現在保有している外貨準備高が十分ではないと韓国政府が判断している点を挙げられる。

最近、韓国の学会で発表されたある論文では、韓国の外貨準備高の適正水準は、IMF基準を適用すると6810億ドル、BIS基準を適用すると8300億ドルであると推計されている。
この推計結果と比べると韓国の外貨準備高は適正水準を大きく下回っているのだ。

IMF基準やBIS基準には短期対外債務額や外国人投資家の株式保有額などが含まれている。

短期対外債務額は短期間に返済する必要があり、外国人投資家が保有している株式は、韓国の景気が悪くなるとすぐ売買され、資本が海外に流出する可能性が高い。

もちろんこの推計結果に反対する声も少なくないが、短期対外債務の対外貨準備高比は低下傾向だが、まだ3割以上(2019年32.9%)を占めている。また、外国人投資家の株式保有額は年々増加傾向にあり、外国人投資家の株式保有比率(金額基準)は2019年時点で33.3%に達しているのは事実である。

韓国政府にとっては、依然として通貨スワップに頼らざるを得ない状況なのだ。


高い貿易依存度という負担
 
さらに、今後の韓国経済に大きな影響を与えるのが、新型肺炎の感染拡大による輸出の減少だ。中国経済への貿易依存度が高い韓国経済にマイナスの影響を与えることは確かである。

昨年、韓国経済は米中貿易戦争の長期化の影響などを受け、輸出が減少し、年間経済成長率(実質)は2.0%に留まった。四半期別では2度も経済成長率がマイナスになった。

今年も米中貿易摩擦が続くと、韓国経済の回復は厳しいと予想されていた。しかしながら、1月15日にアメリカと中国が、貿易戦争の緊張緩和を目的とした合意文書に署名したことにより、韓国国内では景気底打ちへの期待感が高まっていた。

このような状況の中で中国を震源地とした新型肺炎の拡大は韓国経済にとって大きな痛手に違いない。

ムーディーズは、3月6日に発行した報告書で、韓国の今年の実質経済成長率を既存の1.9%から1.4%に0.5ポイント引き下げた。

さらに、新型コロナウイルスにより広範囲で長期的な不況が続いた場合、韓国の今年の経済成長率は0.8%まで急落する可能性があると見通した。

また、スタンダード&プアーズも3月23日に発表した報告書で、今年の経済成長率がマイナス0.6%まで落ち込むと予想。IMFも4月14日に今年の韓国の経済成長率の見通しをマイナス1.2%へと下方修正した。

このように海外の信用格付会社やIMFが韓国の経済成長率の見通しを大きく引き下げたのは、韓国経済が内需より交易や輸出に大きく依存していることと、主な交易相手である中国やアメリカを含む世界経済が新型コロナウイルスの影響により大きく減速する可能性が高いからだろう。

韓国における2018年時点の貿易依存度(GDPに対する貿易額の比率)と輸出依存度(GDPに対する輸出額の比率)は、それぞれ66.25%と35.15%で、日本の28.18%と14.37%を大きく上回っている。

 
さらに、韓国経済は中国への依存度が高く、2019年基準で輸出額の25.1%、輸入額の21.3%を中国が占めており、2位のアメリカ(輸出13.5%、輸入12.3%)と大きな差が出ている。

サプライチェーンが一国に偏りすぎると、何か問題が発生した際のリスクが大きい。今回も新型コロナウイルスの影響で中国から部品が供給されず、多くの工場が生産を中断するなど被害が拡大している。

文政権の経済対策は何が問題か
 
では、韓国国内の経済政策はどうなっているのか。文在寅政権の経済政策の柱は、所得主導成長、公正経済、革新成長であり、この中でも所得主導成長が重視されてきた。所得主導成長とは、家計の所得を増やすことにより消費を増やし、経済を成長させる政策である。

文在寅政権は、所得主導成長政策の一環として、所得不平等を解消し家計の所得を増やすために最低賃金を大幅に引き上げる政策を行った。


しかしながら、最低賃金を2年間で29%も引き上げた結果、経営体力の弱い自営業者は、人件費負担増に耐えかねて雇用者を減らした。

また、一部のコンビニや食堂では週休手当が発生しないようにアルバイトの時間を週15時間未満に制限した。

最低賃金の引き上げにより一部の労働者の所得水準は改善されたものの、零細な自営業者や小規模な商工業者の経営状況はさらに厳しくなった。

さらに、最低賃金未満の時給で働いている労働者の割合である未満率は15.5%まで上昇した。

一方、長時間労働を解消し、新しい雇用を創出するために時間外労働の上限を規制する「週52時間勤務制」も実施された。

一部の労働者は残業時間が減ることにより、ワーク・ライフ・バランスが実現しやすくなり、また新しい雇用も生まれた。

しかしながら労働時間の制限により賃金が大きく減少してしまう労働者も現れることとなった。

特に、製造業で働く労働者の場合は生活水準を維持するために時間外労働をするケースが多かったので、時間外労働の上限規制による打撃は大きかった。

また、与えられた時間内に仕事が終わらず、仕事を持ち帰り家やカフェなどで仕事をする隠れ残業も増加した。

こうした背景の中、2019年の失業率は3.8%まで上昇し、非正規労働者の割合も36.4%まで上昇した。所得格差も拡大傾向にある。

このような厳しい状況の中で、文在寅大統領にとって追い風となったのが、2月29日には909人まで増加した新型コロナウイルスの1日の感染者数の減少だ。

具体的には、軽症者を隔離する「生活治療センター」の設置により医療崩壊を防ぎ、ドライブスルー検査をはじめとする積極的な検査対策により感染拡大を最小化したことなどが評価された。

その結果3月1週目には48.1%まで低下した大統領の支持率は4月1週目には53.7%まで上昇し、冒頭で紹介したとおり、4月15日に行われた総選挙では、文在寅大統領を支持する勢力が圧勝することになった。

文政権は経済政策の修正を
 
しかし、経済成長、格差税制など、文在寅政権が解決すべき経済的な課題は山積している。

これまで分析してきたとおり、新型コロナウイルスの影響により、対外依存度が高い韓国経済の今後は厳しい。さらに所得主導成長論に基づいたばらまき政策が続くことが予想され、財政赤字が大きく拡大されるのではないか心配だ。

したがって、文在寅大統領は、所得主導成長論を中心とした経済政策を抜本的に修正し、規制を緩和するなど企業が投資しやすく、また、成長できる環境を構築すべきである。

残りの2年という限られた時間の中で、何をすれば国民の満足度がより高まるのか、慎重に考えて行動に移す必要がある。文在寅大統領の指導力や力量が問われるところである。

金 明中/Webオリジナル(特集班)