脳が体を支配するのか。
Does the brain control the body?
体が脳を支配しているのか。
Or the body controls the brain?
その境を明確にしたいと思っているのだが、
簡単ではない。
It is not easy for me to distinguish the line in between
although I want to.
私はこの2~3ヶ月の間、
体の運動神経を覚醒させることに集中している。
For these couple of months,
I have been focusing on awakening the motor nerves of my body.
究極的に、思い描いたイメージを体が正確に再現できることを
目標においておこなっている。
The alternative goal is to be able to replay accurately
the image I draw in my mind.
不思議なことに、体の筋肉が伸びる切って、
それ以上伸びる余分が無くなると、
考えを断ち切ることができることだ。
Curiously, when my body muscles are fully stretched
and there is no length to stretch out,
I become able to cut off my thoughts.
その境地は坐禅を行う際に、
雑念を振り払った後の
真に無念になった瞬間に極似している。
The sequence is extremely resembling the moment that
reaching the status of non-thinking
by cutting off useless thoughts
when performing Zen meditation.
勿論、私は未だに
全ての体の筋肉を伸ばし切るまでは程遠いレベルだが、
簡単に動かせる腕の筋肉だけの例を取っても
その類似体験ができるから、
まさに体は不思議だと感嘆している。
Needless to mention,
I am not able to stretch out all the muscles of my body yet
but still, I am astonished at the wonder of the body
because you too can have a similar experience
by using arm muscles which easy to move to take an example for it.
人の中では病気や疾患などで
体の使いに不自由している人がいる。
Some people are physically handicapped
due to illness or disease.
そのような体の運動神経が不自由に制限された人でも、
指の筋肉とか手の裏の筋肉を極限に伸ばす試みはできる。
Even those people whose body motor nerves
are unfree and limited to move
can try to stretch maximum
the muscles of their fingers or palm of the hand.
もし、ある人が手や足も自由に使えない状態なら、
目のあたりの筋肉とか口のまわりの筋肉を
最大限に使う努力はできる。
If someone is unable to use hands or feet freely,
even though he or she can make an effort
to maximize muscle mobility around the mouth and eyes.
自分の体で『今できる』ことを探し、
部分であっても、その部分の運動量を最大限に
伸ばそうとする努力をすれば
私が言っていることに共感できるだろう。
If you look for 『what you can do now』with your body
and try to maximize the quantity of the muscle movement
even it is part of the body,
then you will sympathize with what I am saying.
その過程で、多少の痛みや怪我の恐れは付きものだが、
それらにめげずさらに挑戦すると、
筋肉最大限の伸び感を持てる。
In the process, there is a risk of injury get some pains
but if you overcome afraid and challenge further,
you can feel the fully stretched muscles.
その境地に辿ると、
坐禅の目指す無念の状態を
体に覚えさせることができる。
When you reach this point,
you will be able to let your body memorize
the state of non-thinking level that
Zen meditation is aiming for.
体を頻繁に使えていない人は
その使えていない分の余分なエネルギーが
考えや想いに割り合っていく。
For people who do not use their bodies often,
the left-over energy without being used in the body
changes to the proportion to think or longing for something.
そのエネルギーが新たな創造に向いていないと
過去に有ったことや解決されてないトラウマなどに
執着することになる場合がある。
If that energy is not toward creating a new,
sometimes it happens to stick with episodes that
happened in the past
or the PTSD that unfinished business.
そのように、脳が優先的に働くと
脳の中での運動量が増えて考えが先走る。
In that way, when the brain works priority
and mobility energy increases,
the thinking goes ahead.
なので、雑念を切ろうとすればするほど、
さらなる考えを増やすはめになる。
Therefore, the more you try to cut off useless thoughts,
the more thoughts you need to think in advance.
考えは考えで断ち切ることはできない。
Thoughts cannot be cut off by the thought.
幸せな想い出も辛いトラウマでも
脳の中だけでは巡回するだけだ。
The happy memories and painful PTSD,
they just go around in the circle in the brain.
体は今を生きていながら、
脳だけ過去に住んでいるような状態だと
言えるかも知れない。
It is likely to say that
the body is living in the current present,
but the brain only lives in the past time.
理想的には、脳を使う比率と体を使う比率の均衡が取れて、
バランスを保つ状態が健康的で実利的だと思う。
Ideally, take a balance between the ratio of using brain and body,
will bring profit and mental health.
脳と体がどちらも優先的な優位を取らず、
体がやろうとすることを脳が導き、
脳がやっていることを体が再現できる、
この状態を目指すことが人にとっての尊厳性かなとも思う。
I guess human dignity would be,
the aspiring such as brain guides body
to accomplish what the body tries to do
and the body replays what the brain ordered,
neither the brain nor the body dominates the priority.
これは、まさに私が求めてた問いの答えです。
なぜ「これを表現しよう」と踊るほど、その表現から離れていくのか。
そして、「無心に動くだけでは、なぜ表現が足りないのか」。
すばらしいダンサーは、体を極限まで使って、そこに表現が生れています。
(体が鍛え上げられている、ということが前提条件ですが)
私がどこまでできるかは、私の人生そのものです。
いつもありがとう。あなたの深い洞察と豊かな知性に感謝します。
普通ならバランスを崩すことを敢えて意識はしないでしょうね。
バレエや武道も足元の地面が水平であればこそ意識しないでバランスが崩せるわけですが、もし足元が水平で無ければ意識してバランスを取ろうとするはずです。
さて坐禅はどうでしょうね。
それが私が言いたくても、あえて書かなかったことです。
イメージの始発点が私と同じですね。
さすが、
来月が舞台ですよね。
燃えているのでしょう、きっと。
均衡は不均衡でないと成立しませんよね。
バランスとアンバランスの間
それに、『息、生きる、間』があります。
それを動かすのが、舞いなのです。
坐禅は『息、生きる、間』を休止状態にする動きだと思います。
アンバランスをバランスにもっていく、ことですかね。
自分の行動は脳の指令によるというのがゾンビ哲学というらしいです。
若い時分から、人間の思念ってどこでえ生まれているんだろうと思ったいます。
こんなことを考えようと思わないでも勝手に脳が考えている場合があります。
体の筋肉を一杯に伸ばすと無念の境地になって脳が勝手に考えることもなくなる、ということでしょうか。
Conceptもそれなりに合っていますが、
なにせ、題名は間接的な要素なので、不具合ですが、
そのままおくとします。
それにしても、少し無理して坐禅を噛ましたことは
もうバレバレでしたね。
面白そうですね。
というか、一本の筋肉が伸びる限界があって、
それが最大値に達した瞬間に
脳の神経伝達物質がその筋肉に注意を向けるようになり、
その結果、脳があっちこっち飛ばし、飛んでしまう運動量が減るということです。
それが体の大きな面積の筋肉だと、まあ、考えが止りましたね。
あくまでも個人の体験ですので、あてにならないと思います。
なのに、ブログに取り上げたのは
考え方の他の視点、もあるとのことですかね。
【Ratioid】→【Ratio】