褒め上手な人がいる。
Some people are good at complimenting.
なのに、褒め方が分からない人が割と多い。
Despite that, quite a lot of people do not yet know how to praise.
また、上辺だけ褒める人の褒め殺しは宛にならない。
Also, it would not be counted as a compliment
if someone just self-serving praised.
褒めることは『人のありのままを認めることだ』と
亡き恩師が教えてくれた。
My late mentor taught me that
“Compliment is accepting as the way of the person is.”
人のありのままを認識することは
そう簡単におこなえるものでない。
Acknowledging with the way of how the person exactly is,
it is harder than citing easily.
なぜなら、そのありのままの状態が
どうであるかを知ることが簡単でないからだ。
Because it is not easy for people to know
what exact catastasis the person has.
私は人を読むことが好きだ。
I prefer reading people.
人の言っている話と体が発信する言語を照らし合わせ、
私流で解釈していく過程が、本より面白い。
The process of interpreting in my way
about what people spoke
while their body language is told,
is more interesting than reading a book.
多くの人は、自分が話す内容と体で言うことが一致しない。
What people are saying with their mouths and
while what the body language is telling,
they are not matched in many cases.
相手の中にいる自分自身と話ししているような
感じを受ける場合が多い。
It is like a monologue that
the person talks to others' reflected self
even though they talk with others.
相手の中に自分がどう映っているかを伺う人は
人を真っ直ぐに見ない。
The people who care more about how they would be looked to others,
they do not look straight at people.
だからか、相手が自分の期待した反応をしなくても
決まりきった態度を見せる。
Perhaps that is why they show patterned attitudes
even though others reacted in unexpected ways.
人を正しく褒めることは難しい。
Praising someone accurately is difficult.
人の正誤を裁かず、良し悪しを判定せず、
その人のありのままを認めるには、
その人を正しく読まなければならない。
Accepting the person as he or she is
should read the one correctly
and not be judged by wrong or right,
not be verdict as good or bad.
では、どうすれば人を正しく読めるだろうか。
Then, how can we read people correctly?
心理学の専門家の学術的な読み方は私には個人的に関心が無い。
Personally, I am not interested in
the academic analytic reading of psychologists.
自分がどの部類に入るかを確認できたからといって、
自分が変わるわけがないからだ。
Because acknowledge which category I belong to in personality
does not change me at all.
以下は我流の人の読み方である。
The following are my own ways of how to read people.
①自分が実際やったことをいっているのか、
やりたいことを言っているのか。
Whether they are saying what they actually did
or things that they want to do?
②自分が体験で体得したことを言っているのか、
他人が良いと思われることを言っているのか。
Whether they are saying about the learning through their experiences
or saying that to get good points from others.
③隠したいことがあるのか、
隠しながら言っているのか。
Whether they seem to have something want to hide,
or they are saying with hiding something.
④人に良いと思われたい想定があるのか、無いのか。
Whether they would have an assumption that
wanted to be seen as a good person or not?
⑤事実に基づき話しているのか、
無意識的に願望を話すのか。
Whether they are talking based on facts
or speak out their desires unconsciously.
⑥状況や場合に応じて話している内容が、
体が発するサインと一致するのか。
How the contents they are talking is matching with their body signal
on the matter of situations and excuses?
⑦話す時に、相手に何の反応を期待しているのか。
What kind of reactions they are expecting
from others when they are talking?
⑧話したことで得られる結果を計算、
または勘定をした上での話なのか。
Whether they would have calculated already
about the result of talking
or accounted the benefits forehands?
⑨言っていることが本当にあったのか、
あるはずのことなのか。
Are they saying it really happened or it supposed to be?
⑩言ったことで得られることが誰に得になるのか、
話す本人か相手か?
Who can get the befit from the talking,
the speaker, or the listener?
上記に挙げた⑩項目は私勝手な見方なので、
他の正当な理論とは違うかもしれない。
The above ten lists are just personal viewpoints,
so they might have differences from other legitimate theories.
だが、それらに着目して人の話を聴くと
相手の意図に巻かれることは減るかもしれない。
However, if you pay attention to those lists and listen to people’s stories,
it may make lesser involvement with people’s intentions.
人が見せていない陰の部分を読めるようになって、
やっとその人のありのままが見え始める。
As you become to read the shadows that people do not show,
you finally will be able to see how they really are.
人を読むには、人が見せたいままを見ることでない。
Reading people is not the lookout for what people want to show to you.
見せたくない部分も読み、
その人自身が見ることのできない死角になっている背後の部分まで
読み取ることである。
It is the reading of the part which people do not want to show,
it is the coping to read even the blind spot
which the own person cannot see behind.
その人が隠したい部分も読み、
隠したい気持ちを尊重してあげることが
『その人のありのままを認める』ことである。
Reading the part the person wants to hide
and respect the exact feelings that they want to hide,
that is “accept the person as it is”.
その人が見せたいことが何なのかを読み、
見せたいことを認める、
それが『ありのまま』を認識することである。
Reading what the person wants to show
and admit what they want to show to you
is exactly recognizing “as is”.
それらは理解力でない、
その人の本質が何なのかを知ろうとする心の動き、
つまり積極的な関与なのである。
It is not comprehension,
it is mental kinetic energy to know what the true nature is,
that is the constructive involvement with others.
英語と日本語の両方で書かれていますので、その面でもとてもお勉強になり、更新を楽しみにしています❣️
ピエリナさんもこのブログのファンですね
リコも今、病院の点滴待ち合いで見ています
英文と和文を同時に載せるのは、
英語の勉強をする時、対訳のほうが無意識的に学習しやすいからです。
リコさん、ピエリナさんとお知り合いですね。
無事に検査が終わることを祈っています。
うちの夫も難聴です。
だから電話では音量を最大限にするので、
私が耳が痛くなって、ヘッドホンをつけないと
鼓膜が破れそうなほど大きいです。
とにかく回復を祈るばかりです。
まあ、リコさん❤️
もう4時間前ですから、点滴、終わられていますね❓
禅と英文に惹かれて読ませて頂いているんですよ。
リコさんもだったのですね〜💕
ご承知のように
仏語では
『très bien』が
食べ物、物にも、人の行為にも・・・と。
年代性別関係なく使え便利な言葉ですよね
考えると
猫が居たときは ほめて言葉も
使っていましたが
周りに幼子はいなく
褒め言葉とは日常無縁のようにも
P.S
毎回表題と
添えられるイラスト、写真は良く選別工夫されて
素敵な編集力をお持ちだと感心しています
très bien, merci 榮
これはとても大切なこと。それを見ることができた時、あなたはわかる。
どんなことであれ、腹を立てる価値のあるものなど全くない。
たぶん誰かは本当に間違っていて、本当に悪いのでしょう。
しかし、そのことで自分を不幸にする意味はあるでしょうか。
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
オペラント次第だと言ってしまえば確かにそれまでなんですが、大抵の事はそれで片がつくように思えます。
編集のために費やす時間!
昔、塾をやってた時
塾新聞を発刊してました。
その時の編集のキャリアですかね。
そおですね。
栄久さんのように世間と隔離(?)された環境だと
褒めることとか褒められることとかも
縁が無い、でしょうね。
今回の記事内容は全く想定していなかった題でして、
なぜ書いたかもはっきりわけがわからないです。
本当は他の題名で書いていたら
内容がこうなったので、
題名を内容に合わせて変えました。
書くのって、想定外のほうが多いですね。
想定して書くと
大概、書き放しになって
投稿せずにポイされる場合が多いです。
英文は夫が、4行目が意味不明とか文句をつけてきたので、
投稿してから訂正しました。
今回の英文は難易度高かったでしたね。
でも、確実に訳すスピードが早くなりました。
今回のは1時間くらいで訳したので、
あと、もう少しで
翻訳の仕事を始めようかと兆しが見えました。
自分が想定した能力の7割に近づいた感じです。
9割になったら
本格的に、自分が宣言した仕事に専念する予定でいます。
その時は栄久さんにお世話に(本格的に)なりますよ!
ZIPさんの一貫性
①短縮化
②省略
③主語述語の四捨五入か切り捨て
④必ずその他を用いる
⑤ZIPさん自身の感情は省く
まあ、その他もろもろありますが、
簡単に簡略して5項目だけ挙げてみましたん。
「物神化」とは fetishism
「fetishism」とは 盲目的崇拝
崇拝する対象が関係
それこそ盲目的に・・
大森荘藏著「時間と存在」(色即是空の実在論)
野矢茂樹著 「哲学の見本」日本の哲学 大森荘藏
読了後であれば良いのですが
もし、未だであれば
南直哉師の宗教観の底辺にある
宗教ではなく考え方としての
「禅」の参考になるような書籍
お読みになる事を薦めます
私も大森、野矢両氏の著書は繰り返し読んでいます
大森さんの本の解説があるかと手軽なYouTubeに検索したら、
『流れとよどみ』だけ挙がってきました。
色即是空の実在論は購入して読むしかないようです。
矢野さんと大森さんはすでに繋がっていますね。
即、読みたいのですが、
今、正法眼蔵随聞記の最中なので、
ある程度、読み終わったら、
大森さんと大野さんに取り掛かろうと思っています。
ウィキペディアしてその二人の哲学者のテーマについては流し読みはしました。
ざーと読んだだけで
私が最も関心のある分野を掘り下げている感じがします。
感謝感謝です。
そのことば自体が私から出たことで
自分で驚いたところでした。
おそらく、中村天風さんの本を読んでいて
彼の言葉が私の無意識に入っていたかと思われます。
といっても、ZIPさんは私の無意識を掘り出す何かがありますね。
とにかく、積極的な関与というは
中村さんのことばでないとしても、
何がなんで、その言葉で結論つけたか、
私自身もわけが分からないですが、
まあ、六感ということですかね。
「盲目」とは暗黒の風景でも透明な風景でもない。
それはあくまでも自分の背後であって、
体験可能な見ることができる暗黒や透明な風景では決してない。
ZIP
遥か昔、心理療法の授業で、
ある人が航空写真を撮る角度で
高速インターチェンジを描いた人がいて
先生はその絵が怖かったと言ってました。
なぜなら、その題名が『人をみること』だったからです。
それ、全てを見渡せる角度で描いた人は
自分自身を全治全能な人だと思っているかもと、先生が言ってました。
授業はコラージュ療法でしたが、
その先生は私の作品も怖いと、
(他にも怖いと言っていたクラスメートもいた)
同時は怖いと言われたことが嬉しかったのでしたが、
アメリカ引っ越しのためものを整理した時、
同時の作品が出てきました。
それを見て
ゾッとしましたね。
怖い、怖い、恐ろしい、それに限りましたね。
なぜにこの例を持ち出したかというと
ZIPさんのコメントも
時によって
怖いと思わせる部分があるからです。
というのは
『全体を上から視ている視線』の傾向があるということですかね。
まあ、普段なら
ここまで、深く掘ったコメントしないのですが、
今回の内容が人を読む、ということでしたので、
失礼ながら、書いておきます。
怖いと思うところ、人それぞれ違って
私は、その怖さが今でも好きなのですが、
要は
その怖さが人によっては
人との溝を生み出す、ことにもなりますからね。
怖く、なっても構わないと決心した場合は
覚悟の上に、
結果を飲み込まないと、と思っています。
できるできないという体験そのものが不可能なこと、
それが死覚。
死は前よりしも来らず かねて後ろに迫れり
ZIP
人って、ほんと、十人十色で、見た目も、感じ方も、考え方も、家族構成も、色々。
・・・そんな、自分とは違う人と、出会いがあり、
様々なコミュニケーションをしながら、生きて行きます。
・・・そんな中、個人個人の事を、100%知る事は、不可能かなと思いますし、そこまで、しようとは、思いません。
・・・が、私は、その人と共感したり、協力したり、同じ事を楽しんだり(共感と同じような事ですが)、
・・・そんな中で、何かしら、心が通い合う事を、大切にしたいですね~(^-^)♫
人は、心が通い合うと、リラックスでき、柔らかな気持ちになれますよね。
そこからは、笑顔が生まれたり、心身に温かいものが流れますね💖
そして、いつも、できるだけ、穏やかで、優しい気持ちで、人に接したいなと思います~♪
南師が連想されますね。
まあ、死は後ろから忍びよるとのイメージありますね。
例外に、扁桃腺炎で入院した時、
死が目前に広がって迫ってきましたけど。
強いて言えば、360度で包囲された感じでしたかね。
ところのところで、
恐山ブログは月一編になるそうですね。
ご多忙なられたか、何か起こったのか
ZIPさんはそれに関して、何か情報ありますか?
ビオラさんは穏やかで優しく、人に接しているとおもいますよ。
コメント返しとか、対応をみるとですが。
和み
まったり
その言葉はビオラさんにピッタリかな。
ご承知のように仏は高校で哲学の授業必須です
米国では如何なのでしょうか
「禅ブーム」なるものは
哲学では無く経営者向けセミナーであったり
神秘的な何かであったり、と 何か違う方向性が
米語、仏語にも"zen"は日常語として使われています
しかし、読んでもすぐに忘れてしまう
自分の言葉で言い換えられない
読んだり学んだり・・・> 得るものは
やはり体質ではなかろうか、と
「考える」「考え続ける」は絵や詩の才の様に
持って生まれた体質では
注釈が重要な本の気配、予感、心配が?
ヨガみたいな感じですかね。
私の夫の3番目のロブは
地学学者で大学教授ですが、
未だに禅を宗教だと思っています。
彼の奥さん(義理の姉)は坐禅ってなに?
と私に聞いて
まあ、教科書的に答えたら
ヨガみたいなのね、とあまり理解できないようでした。
私がアメリカで坐禅を割と静かにやっているのは
坐禅は宗教の一部として認識されているし、
瞑想とかの集まりも
実にヨガのように
何かをやっている感じが無いと
人はまず、興味さえ示さないからでもあります。
ましてや何も考えないというと
彼らは混同します。
公安禅の方がここでは道のり早くなるかもと思ったりします。
考えるのは体質かもしれませんが
アメリカ人の傾向からみて
文化かなと思えます。
彼らはまず考えません。
見て話す、それだけです。
聞いて話す、それだけ。
でも、まれのまれに禅に関心を示す人がいますが、
5年前に私のフェイスブック投稿を読んで
質問した人が一人いました。
南師もアメリカで坐禅活動をなさったようですが、
面談の時に、その見方が私と似ていて
驚いた覚えがあります。
ここで私がこれからやろうとしていることは
本当に孤独なことになります。
何回か、地域のフェイスブック(公共)に
坐禅に関する集まりを投稿しましたが、
反応ゼロでしたね。
南師との約束は貫徹しますが、
市場傾向からみて
損をこうむる可能性100%です。
それでもやりますけどね。
ここのニュースはデモのことで騒がしいく、
コロナ世界トップというのはもう日常ですし、
けれど、案じていただき嬉しいです。
風邪が酷くなったので、
どこにも出ないようにしてますが、
それ以外なら、全て元気です。
風邪でも筋トレーはしています。
先生もコメントできたほど元気そうで
何よりです。
経験不可能こそが本質
榮久さんのいう体質は・・・癖かな
zen批判ならイエスちゃんに
院代も練習に忙しいのに違いない。
よりよい仕方を知っている人が、聖者と呼ばれる」。
EvaM vihAriM AtApiM
Ahorattam atanditaM
TaM ve bhaddekaratto ti
Santo Acikkhate munIti.
損をこうむる可能性100%です。
それでもやりますけどね。>>>「売れない」と言うこと?
学問というものが、本来、役に立たない金にならないのは
当然、世の全体が、役に立つこと金になることを価値と
信じて走っているところで、なんでそれらが価値なのか
世の中には役に立たないことをする人が必要であろう
また活字には、言葉を読むことの喜びがあり
存在と意識を直接につなぐ社会的媒体である「言葉」
人間は必滅だが、言葉は不滅
言葉は、正しく使われることで
人を自由にするのであり
決してその逆ではない
「知る」とは、自ら考えて知ることをのみ言い
他人や世間に由来する情報の類を知ることを
「知る」ことと言わない、と考えている
異なった言語を知ることは、異なった世界の見え方を会得し
同一言語であっても、初等教育で身につけるものと高等教育で
接するものとは、別の言語体系といえるほど異なっている
高等教育のメリットの大部分は
おそらくそこに由来しているのでしょう。
“ZEN” is not religion but practice.
社会的集団においても個人においても。
ですが、それはメッサチュセッチュー州とここコネチカット州だけの話なので、
アメリカ全域に限っては
まだ分かりません。
本屋にいくと
必ず、禅関係の本とか仏教の本は
割引セールになってます。
瞑想の本コーナーにも坐禅関係の本は
インドの人の多く、
日本の禅はほぼ無かったでしたね。
なのに、日本アニメや漫画は結構多く見かけます。
そう=ですね。
活字を読む、楽しみを超える何かがありますね。
人間であって、活字を読めてる、ような
高等な生き物という感じがありますよね。
朗読を聴くのもいいのですが、
読むことから得られる満足感とは
根本的に違いますよね。
そういえば、思い出しました。
初めてブログを始めようと
アメリカブラウザーのブログ会社のものを
作り始めていた時
YouTubeから南師の心の時代というNHK番組を観て
恐山ブログをウィキペディアで知って
ブログ読者になるために
このブログを始めた歴史
その過程で
T師、榮久さん、ZIPさん、朱夏さんなど
心がキレイな人たちに出会えましたね。
不思議な縁起ですよね。
大勢で集まり何とかしよう
何とか出来ると筋違いな思い込み
これはどういうことか、と
考え始める心の発動・・・が
哲学なき宗教が盲目なら
宗教なき哲学は空虚であろう
人間が知性を得たのは
何のためであろうか
人類は数を増やし続け
地球の有用資源をすべて
食い尽くさんばかりである
未知の場所はどこに
自分が行こうとする目的地がどこなのか、
という位置確かめの意味で
市場を把握しておく、との意味ですかね。
というのは
市場価値がどうであれ、やろうとすることはやる!
とのことの遠回しな言い方、です。
損得勘定は疲れますが、
無視はしてないです。
けれど、参考はしますね。
私は自分がやると言ったら
何年が経っても
結局はやります。
その中で損得は排除します。
でも、今回の目的地は
思ったより
遠回り、しなければならない、
歩いていくしかない、道(未知)ですね。
でも榮久さんがいて
ZIPさんもいて
寂しくはないです。
無理を通せばやがては暴露される。
https://www.youtube.com/watch?v=12oN2zUytXA
コメントを投稿する人は、
その残忍さを楽しんでいるのかな。
或いは、私が無知だから
教えてあげる、という親切心だと思っているのかな。
とにかく、書いてある文字と
隠した意味
ことばをゴミのように投げ捨てるような人のコメントでも
それをゴミ箱から拾い上げ
事実の箱に保管する、
それも
私がしたくなくてもしなければならない、カルマかも。
一応、リンク先のYouTubeは
添付はありがたくても
内容が分からないものは観ませんので。
貴女が、したくはないがそれをすることの意味を汲んだうえで、もうこれ以上無理するなということをもう一度
言っておきます。
優柔不断としてそしらるるも、名君の生き残り作戦でもある。
真実を知ったなら、改むるに悔い無し!
「頑固一徹、初志貫徹!!」は武士の一言に似て
勇ましくも潔い香りがするが、
無明に留まりて、過度の自負心故に我が身を滅ぼす。
まあ「死を目指して生きる」人には向いているかも??
釈尊の縁起説にさえも其れを支持している様にも読み打取れる(釈迦を読む!!)。
「実存は根拠が無くて価値が無くて意味も無い」というスローガンを標榜しているM師の思想が
どの位、社会に通用するか???
経済性を無視してでも
米国社会に一泡吹かせようとするKさんの試みに乾杯!!(無理するなとは言わないで下されまし)
遣って見せる、遣って見せる、遣って見せる!!
と意気込む事こそが
我が存在の根拠・存在する価値・存在の意味である。
どんな無理をしてでも
遣って見せるしか生きるすべが無いのです。
命令ばかりしているオピニオンなど
夢の中の寝言みたいなもの
「自分の」「個我の」
正しさを認めよと主張するが
言葉の正しい用い方を知らずに
己の正しさを主張するためにのみ用いられる言葉
その無力、これが自ら気付かず
命令的にものを言う
君はそれほど偉いのか、と。
「言葉が甘く見られている」
したい、したくないこととにはあまり影響させないようにしてきました。
したくなくても、すべきことなら
貫徹しますし、
したくても、すべきでないなら
犠牲させる方向で一貫してきたつもりです。
これからやると言い出したことは
それらに基づき、やるとのことです。
例外はない、ただ問題は
何を基準に『すべき』を決めるかですが、
それは、道元禅師が教えてくださっている、それだけ。
私より先に
道元禅師の教えを行っている人がいるから
彼らに従っていく。
それだけです。
無理はすべき、ことなのです。
それに例外は無いはず。
2021-04-14 03:09:56
「いかにして日夜、気づきのうちに住するかを知っている人、つまり、独りで生きる
よりよい仕方を知っている人が、聖者と呼ばれる」
上記のコメントをしてくださった方へ
結構前にコメント頂いたので、
その日から、関連記事を検索していました。
英文はどこの言葉かさえ、パソコンが探せないようで、それはさっておき、
『気づきのうちに住するか』という言葉は
私がひっかかっていたことだたので、
調べていたうちに
意外な他のPDF記事に出会えました。
意外でしたね。
ありがとうございます。
勇ましくも潔い香りがするが、
無明に留まりて、過度の自負心故に我が身を滅ぼす。<
そうですね、私も似たような意見を持ってましたが、
言葉が短くて言い表わせなかったでした。
>経済性を無視してでも
米国社会に一泡吹かせようとするKさん<
半分は合ってますね。
というのは
吹かせるほどの威力というか、需要というか
まるで、噛み合わない浮いた現状でもあるかですかね。
供給と需要の市場価値はそれが必要な人には
それなりに有効な参考になるでしょうが、
まあ、私がやっていることは
今の時代に浮かれたバブルのような
『勝手な修業』ですかね。
でも何がなんでも
ここまで、畑だけ耕すだけでも
時間、年月がかかると思わなかったです。
正直、最初は
通訳ソフトを買って、気楽に安易に通訳する気で
宣言したのもありましたが、
それは機械がやったことで
私がやったことでない、と知って
それら通訳ソフトは全て破棄
それから、ただ只管
自力を養うだけために
努力というか、いや毎日の戦いというか
それだけで4年が過ぎました。
情けないといったらありゃしない、ことに限りますかね。
とにかく、遠回しのコメントくださって
書きながら、頭が晴れました。
感謝しております。
吹かせるほどの威力というか、需要というか✗
吹かせるほどの威力が無いというか、○
私は勢いで書いてしまうので、
書いている時は誤字脱字にあまり気にかけないです。
でも、今まで私のコメントでの
誤字脱字について文句を言った人は誰もいなかったでしたね。
記事は公ですから、何回か指摘されましたけど。
それには内部外部的に感謝しています。
その他
榮久さん、相当ストレートにもの言いましたね。
常に気配り90%の人なのに、
強いて言えば、十二単衣的なことば使いの人かと、
今までで、一番、強度強的なコメントでしたので、
驚きました、いい意味で。
I think this article is very interesting,
「今回の記事:”思考のフローfollowing”で人を読む。」
(The following are my own ways of how to read people.を見て)
この考えで全てが読める事は無い、ただし、「道具の一つ」になる。
そして他の道具(桂蓮様の場合「禅の学びと思考」「バレエの経験と思考」「翻訳の練習と改善」etc…)を組み合わせる事で、最高の『仕事』になる。
(If one tool can’t do this work, but using many tools can do the work.)
個人的には、このフローは「仕事≒サービスの極意」に繋がると想います。(This following make a best work≒survice)
※説明しやすい為に、この例えを使いました…。
そして仕事≒サービスの極意は100or0では無いですし、剛と柔の両方が必要となる。
そしてこれを書いている私自身も修行中の身です。(I am practicing, what is best answer of work)
この記事に感謝を。Thank you for this article
したいけれど、してはならないこと
「無理」を成立させる根拠について考えてみることも必要でしょう。
「辛抱 = 我慢」「世の中 = 社会」等などと
古い昔がいいと言っているのではなく
いい言葉はいいと言っている
私だけかも知れませんが
日本の言葉には
色が 香りが 湿度が 余韻が、豊かなニュアンスが
目で見て美しく
ベトナムの少女たちのお喋りが
小鳥の囀りのように聞こえたように
Georges Moustakiの歌声のように
耳で聞いて心地よい
考えている
考えている何か
しかし、なぜそれが「私」であるのか
「私」と言うのか、言えるのか
「言葉」ということを再考すると
朧気ながらわかるような
「他人」でしょう。
それも自分にとって決定的な意味を与えた他人
以外にはあり得ないはずです。
もし根拠や価値を自ら想定することで成立するものが実存だとするなら、自ら根拠や価値を想定せずとも成立するのが依存でしょう。
しかし、依存という根拠が他人である以上は、翻訳の不確定性、といったことも当然あり得るわけです。
ZIP
朝からバレエのレッスンで、帰宅してから定期的な買い物のため、
コネチカット州の首都、Hartfordまで行ってきました。
そこにちっと大きめのKorean storeがあるのです。
日本では韓国の食べ物はほとんど食べなかったのでしたが、
ここに移住してから
韓国ものや食べ物に接する機会が多くなったからか、
よく作るようになりましたね。
バレエスクールにも日本系や中国系の人はいなく、
韓国系の人ばかりです。
土曜のレッスンでは、成人バレエの前の幼児クラスの全員が韓国系というか、
待合室で韓国語で喋る声を聞くと何か妙ですね。
今日のレッスンに行く前に
コメント読んでてから行きましたが、
レッスン中に
おりしさんの『修業』という言葉をずっと思っていました。
>「禅の学びと思考」「バレエの経験と思考」「翻訳の練習と改善」<
本当に要点を簡略にまとめてくださいましたね。
その3つの要素はまだバラバラですが、
いつかは共響する日がくるかもです。
色が 香りが 湿度が 余韻が、豊かなニュアンスが
目で見て美しく<<<
今回の記事に関連したコメントを読んでて
言語の五感感覚について
気が向いたら書こうかなと思っていた矢先に
榮久さんからことばの香りと余韻について
書いてもらいましたね。
不思議に私が何となく思っていたことが
他人のことばで書かれると
妙な気分です。
特に、3つの言葉の感じが分かってくると
言葉使いに敏感になって
影響されたくないのに、されてしまう厄介さもあります。
言葉から受ける感じが花粉のように
体内に入ってくる感じですかね。
ことばも原子物理学のように理解しているのもあって、
言葉の分子構造が八角の劇薬みたいな、ケースもあれば
気体のように拡散して消えてしまうような例もあるかなとおもったりします。
まあ、基本的に
私は加算する算術的なコメントで
引き算にしたくないのもあって、
でもそれで、話が拡張してしまう問題に繋がってしまいますね。
ZIPさんはどちらかというと
アメリカ的な論争方かな。
決して自分の負を認めず、
自分の見方を構築していく、みたいな。
言葉が刺さるのは、少なくともそれを前提にしていなければ刺さりようがないわけです。
言語の全く違う別の共同体に刺さる言葉として翻訳できなければ、翻訳する意味など全くないと思います。
SNSという限られた条件ではありますが、数年ほど付き合わせて頂いた上で率直に申し上げれば、現状において肯定的な判断はとてもできません。
翻訳者の失敗は翻訳者だけにとどまらず、むしろその著者の方に多大な影響が確実に及ぶと思います。
くれぐれも、恩を仇で返すことのないように切に望みます。
あるひとつの表現がそのことを表現し得たかどうかは
読み手がそれを感じとれるか否かにかかってもいる
曖昧なことを明晰に表現し得たものといえば
東洋の経典のなかに・・・
「一即多」
言葉がもっている特権は、質、にある
「見えないもの」を見ようとする想像力の出発点
不足は無の充実で、充実は無の不足であると
変幻の中のかたちとしてどちらも同じことのよう
絶えず自分で自分を追い越していかなければならないと。
不断に考えを持続していることが重要であろう
まるで、国籍の違うような
けれど、同じ言語を使っている環境におかれたような感じがしますね。
でも稀に
正反対な人同士も友たちになったりするから
相性の問題になりますよね。
恐らく、榮久さんとZIPさんはお喋り仲間には
なれないなー
でも、私とZIPさんとはお喋りはできるかも。
榮久さんと私は話さなくても
通じる感じがしますが、
ZIPさんとは話さないと絶対分からないかも。
そうですねえー
T師とは話す味があるますけどね。
話を楽しむとういうか、嗜むほうかなー
T師とのやり取りには
味がありましたね。
大概は甘みで
突然、苦味が出て
それが致死的な場合もあって
まあ、結局はその苦味が薬になったみたいなー
その面でZIPさんの話は苦いかなー
榮久さんとの話は香りがあって、
バラのような贅沢な香りではないけど、
何となく、香るみたいな、
知性の味というか
色というか
ふっと思いました。
コメントを読んで。。。。
曖昧なことを明晰に表現し得たもの
見えないものを見ようとする想像力
見て実現する能力
look and feel ではなく look and realize
即ち、察すること
ZIP
「国家」と言う概念の意味さえ疑う私に
国籍はと問われても
確かにパスポートには日本国とある
日本国憲法は存在するが紙の上の文字
たしかに国会は存在するが
それも政治家の食い扶持の手段
もしくは己と属する者たちの
利権集団でしかない
ひとりひとりの人間の共同体
それが国家だと言うのならば
まさしく、ひとりひとりの人間を考えずに
国家だけを考えることは出来ない
しかし、げんに国家は存在し
国家間の争いによって人の血が流れ
我々の命も国家に属するとしか
考えられないではないか、と。
まさしく
その「考えられる」「考えられない」の話なのだ
・・・人は国家が存在すると考える。
人間を考えずに
「国家」それのみを考えることは出来ない
「国家」とは、
人間によるただの「考え」≒ 「妄想」なのだ、と。
明治初期から敗戦までの約80年余は戦争の時代であった
今の処 日本は少しだけ永く平和が続いている
だが歴史は戦争の繰返し、生きても死んでも大差ない。
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日超えて
浅き夢見じ 酔いもせず
夫の法律事務所の法律補助員さんが
コロナ陽性だと今彼女から電話がありました。
夫は先週彼女に直接会っています。
夫は最初のワクチンを受けてからですが、
それでもまたテストを受けないとと言っています。
コロナ陽性になった人の声を本当に聞くと
コロナが風邪とかインフルエンザみたいなものだと
言えなくなります。
とにかく、死ぬ確率と人に広げたかも、のような怯えを帯びた声聞くのは辛いものがあります。
コロナはもう他人の感染でなく、
身近になりましたね。
夫は二度目のテストを受けると言っています。
性格が根本的に違う、との大げさなことば使いでしたが、
それに引っかかったのでしたね。
それにしても、国家の定義は
まさに、なるほどだと思います。
>警 報 あ り が と う ご ざ い ま す<
そのペリオード無し、文字のスペースなど
皮肉にも面白かったです。
その表現から、何を受け取るか、それが性格でしょうね。
確かに、警報は私宛で
気をつけて、なめないようにすべき対象はWATASHI なのですが、
榮久さんが身代わりになってくれましたね。
ZIPさんの短歌(?)は
意味が深くて、何回か読む必要がありますが、
ざーと読んだだけでも
リズム感が素晴らしいですね。
因みに、夫は2度めのコロナテストを受けて来ました。
明日、結果が出るようです。
夫の法律事務所に今のところ2人が陽性ですから
事務所は閉まっています。
夫は陽性だと知らなかったその補助員と一日一緒に働いたので、
本当に怖いです。
私も精神的にまいりました。
みんな、電話でコロナがどんなに恐ろしいかの話を電話でしているので、
聞くだけで、気が滅入ります。
ここまで、アメリカ全域が悪化したのは
あのトランプのせいなのです。
コロナは怖くない、自分は免疫があると言って
コロナ真っ最中に、陽性ながら
選挙キャンペーンをやってました。
Bidenは人を集めるキャンペーンをしなかったのでしたが、
トランプはキャンペーンもやらなくて
選挙で勝ったから、投票不正があったはず、と訴えたのです。
ですが、彼の訴えは最高裁で全部却下されました。
歴史上、一番短い法定文章で、却下されたのです。
もし、トランプが大統領でなかったら、
早い段階で広がりを防げたと、誰でも言っています。
明日の判定が本当に怖いです。
夫はワクチン二回終了されていますけど、
陽性なら、私もテスト受けないとです。
見舞いの言葉は見当たらないようだ
コロナ感染症変異種とか
病理の正確な情報もなく
治る治らないは
やってみないとわからないし
生老病死を天地の自然と実感することを
忘れられた今
ある薬品の開発、成功に至るまでの
実験(犠牲)が必要だったのか
中国四千年の歴史過程での漢方薬の有効性を
実証するまでの累々たる犠牲者数は
人間の欲望と希望の歴史でもある
今のコロナワクチンにおいても行っていると
考えたら後の人類のためには
ありがたい犠牲であったと思うか否か
やはり命は自然に委ねるが・・・
死生観の領域かも知れませんが
良いのではないでしょうかと
やはり言葉にはできない・・・
気に止めないほうですが、
アメリカ人の夫は全く違うのです。
先祖がヨロッパ系だからか、
仏教的な死の観念は全くないのです。
だからか、コロナにも恐怖が強いし、
私が仏教的な死への受容態度を見せると
極端に失望して、非常に怒るのです。
思えば、私自身は死が迫っても
どうも思ってないし、
日常も変わらなく過ごせると思いますが、
コロナになると、
人に感染させる恐れがある、とのことが
自分の死より苦痛なのです。
まず、私と夫が感染していたら
バレエクラスの人々に死の恐怖を、
また、スクールが閉まるかもしれないという恐怖
それは怖いです。
それを思うと本当に辛く怖いのです。
しかも、この前の土曜はマスクを一枚しかしてなくて、
いつもは二重にしてるのに、
今、実はうちの夫、仕事のストレスで
歯が2本割れて、1本は抜き
耳は化膿しても
医者にかかるのも予約待ち、
体調が悪いのに、仕事に追われて
しかも、納税したのに、税金払ってないとか
事務手続きでうちのものだけ漏れたみたいで、
確定申告を3回やるはめになって、
結局、納税局の問題なのに
うちらが延滞金を払うはめになっちゃいました。
しかも、家のドライブウェイの舗装業者が
コロナ破産して全額持って逃げ、
訴訟かけたのが去年なのに、
未だに進歩状況すらわからないという、
とにかく、仕事の山々なのです。
家はいつもまたか?みたいな感じですが、
それらにストレスもらわないように
気持ち転換するのが精一杯なのです。
こんな時、正法眼蔵は身に染みますね。
書いてみたら愚痴になってしまいましたね。
申し訳ないのですが、
現状報告(勝手に)として投稿させてください。
病気やちょっとしたトラブルが
起こるようになる
と、身体が意志を超えた存在である事に
気が付く
肉体は自然なのだから
人間の意志を超えている・・・
このことを「身をもって」知ることに
病気をしながら、齢を重ねながら
思考に側面に刻まれた影が
人生の味わいかも知れません
自然という存在は、人知をはるかに超えています。
愚痴をこぼす事も無ければ溢れ出すことに
寄り道したり 苦や楽があったり
ぼちぼちと 行きましょう。
なので、今日はバレエ行けました。
いつもは3時間連続レッスンですが、
夫の兄弟の娘さんがズームで結婚式挙げたので、
参加してからだったから
一コマ受けられなかったです。
とにかく、非常な事態が生じた時に
激励のことばは胸に響きますね。
励ましの温厚なコメント
本当にありがたく頂きました。
忘れられないと思います。
一生のうちにそこまで
ウィルスに脅迫されることは
無いでしょうね。
此方も、25日から3回目の緊急事態宣言が発出されるようです。
私のような凡人には、
皆さん難しい言葉で、難しいお話をされているので
なかなか、コメントできませんね。
兎に角、感染しないよう気をつけて下さい。
コメントするの、気まずいはずなのに、頑張りましたね。
案じて頂き、ありがとうございました。
土曜、私も最初のワクチンを受けました。
最後のワクチンは来月です。
夫も2回のワクチン受けたので、
少しはやるべきことをやった感じです。
なにせ、アレルギー体質なので、
腕が過剰反応を起こし、
結構、腕に痛みとか、インフルエンザに似た反応がありましたが、
今日は腕の痛みがよくなったので、
パソコン開きました。
コメント頂きながら
返答遅くなりまして、申し訳ないです。
難しいとの評判ですね。
結構多い人から難しい、超頭いい、理解できないなど言われました。
最高の褒め言葉ですよね。
哲学は、ある哲学者が
あれだ、いやこれだと言ったことを
単に述べることではないと思います。
彼らが言ったことを
自分が理解し、それを分析し再構築していく過程かもと思ったりします。
自分の博識を披露して
知識を網羅することに
何の意味があるのでしょう。
これでなくて、あれだということに
検証はできないし、
証明さえできないのに、
誰が言える肩書がある人は
本当に図々しく
説教してきますよね。
まあ、それもそれなりに
自己満足の面では
結構なことでしょうけど、
私には何も響くものがないですね。
ここのコメントは
記録として残すのに
やり甲斐を感じています。
エゴの脂肪が少ない、コメントのように感じますし。
私は皆様から洗練された内容のコメントを頂くことを誇りに思っています。
私は奈良県の住民です。先日、奈良県立美術館で画家高島野十郎の展覧会が開催されました。お手すきの際に、検索していただけましたら幸いです。
その高島野十郎の言葉を知ったとき、桂蓮さんを思い出しました。
「生まれたときから散々に染め込まれた思想や習慣を洗ひ落とせば落とす程写実は深くなる。写実の遂及とは何もかも洗ひ落として生まれる前の裸になる事、その事である」
高島野十郎が友人知人へ贈った蝋燭の絵、とても印象深いものです。
私はアメリカの政治はまったくわからないのですが、それでも、どうか桂蓮さんをもう苦しめないでほしい、そう祈っていました。
高島野十郎の蝋燭のように、静かに動じず、燃えたままでいてください、桂蓮さん。
今まで一度も眼、耳にしたことが無かった漢字でしたね。
特別展「生誕130年記念 髙島野十郎展」は
リンク、検索してみました。
心を打つものがあります。
削り、削って
すりおろして
落として
あらいざらし
究極の究極を目指すと
そんな絵になるかなと思いました。
実の肉眼で観られることと
ただの画面をクリック何回で視ることとは
別の世界だと察しますが、
この世に、
そこまで追求した画家がいると知っただけでも
驚きでした。
十代の頃
絵を描くと(学校の美術部で)
みんなに才能があると甘やかされて
絵に関心を持ち始めましたね。
それから、絵は『行っていない道』のひとつですが、
絵を見る眼、を養える機会になりました。
で、高島さんの絵をみながら
もし、十代の私が彼の絵を観てたら
ワーワーを大声を出して
泣いたかな、と思いました。
昔の、とっくに忘れたいきざまを思い出して頂き、
本当にありがとうございます。
知識は時とで
消えますが、
昔、感動し、燃えてたこころは
40年以上が経っても
消えませんね。