Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

Dimensions of memories記憶の次元

2019-06-02 | 心理学習

過去の記憶は時間の経過によって変化していくようだ。

Memories do seem to change with the passage of time.

昔過ぎたことが新たな側面で表れる時がある。

At the moment an event occurs

it appears with a new side.


記憶は事実に基づいて、

当時の感情と結びつき、

記憶貯蔵庫にファイル化され保管される。

Depending on circumstances,

a memory tied up with emotions of the time

and it will be stored in the memory bank as files.

その記憶の貯蔵庫から記憶自体が

何かのきっかけで漏れだす時がある。

Sometimes the memory silently leaks from the memory storage

as something that triggers us.


意識を持って呼び戻された記憶とは違い、

意識を伴わないその記憶は

見る側の指定された視点を持たないため、

3次元的な性質を持つ。

Unlike consciously recalled memories,

it has three-dimensional properties

because it is not propagated with an only first-person perspective.  

 

一人の人の固有の視点を記憶を捉える視点として

1次元に置き換えて考えるなら、

相手、つまり他人の視点で記憶を見ることを

2次元に例えることができる。

If we consider one’s individual viewpoint of memory is as one-dimension,

seeing a memory with the opponent perspective

can be shifted as two-dimension.


そうすると、3次元というのは、

記憶の保有者(1次元)

関わった対象の他人(2次元)

それらの二つの構成要素が

一定の空間内に織り交ざっている状態を

3次元に取ることもできる。

The third dimension can be defined in a constant space

where those two components are interwoven,

with such the memory holder as one-dimension

and the involved opponent as two-dimension.  


その3次元の記憶は自分、

他分を基本要素にできたことが、

自動再生されていくような感じになる。

Such three-dimensional memory is can be played automatically

with the basic components of the self-role and others in it.

まるで、自分が映られている映像を

眺めるような感じになる。

It is like looking at a video in which

the memory holder is taking a role.


私だけの解釈や見方を持つ1次元的記憶は、

自分の眼が見える範囲のように視野が限られている。

The one-dimensional memory with a singular perspective

or interpretation is a limited visual field

just like the range of one’s own eyes.

人の視野は180度、

つまり全面、左右の90度角度までだ。

People’s all visible range is 180 degree

including both 90 degrees left and right.

なので、その180度以外の

背面の180度を見ることはできない。

Therefore, half of the ranges

are something people cannot see.


見えたことによる自分の感情だけが

記憶の全面像になる。

A memory becomes full face

only with emotion tied to the way we visualize it.  

相手の態度、相手に現れた感情解釈などと結びついて、

それら見えた映像が自分の感情に

再構成されていることは2次元記憶になる。

Two-dimensional memory is like

reconstructed interpretation

against one’s attitude to others

and others reflected emotions,

often appearing is knotted with our emotional response.

この2次元記憶も角度が180度を超えることができず、

見る側の1次元が相手に現れた1次元と

一方的な入力を持つだけなので、

記憶全面を見てはいない。

The two-dimensional memory of angle

cannot exceed more than 180 degrees 

and this one-dimension from the spectator

and the other opponent’s one-dimension

still only has one-way to input,

so they can’t perceive the entire memory.


それら1次元的な記憶、

2次元的な記憶は

その記憶を保有している所有者だけが再生したり、

しなかったりできる。

Those memories in one-dimension

or two-dimension can be recorded play or not,

but only by the owner who holds the memories.

しかし、自分、他分、ことの分の3つの側面をもつ3次元的な記憶は

ある記憶を上から眺めることになるので、

隠れていた背面も見ることができる。

However, three-dimensional memory

can see the hidden back side of memory

because it has three aspects that one-self,other-self, it-self

and with them can look on a certain memory from above.

自分だけの視角度の180度に、

残りの半分の180度が加わるので

見える角度が360度になる。

To the prospector’s angle of visibility of 180 degrees

will be added remaining angle of 180

so that the visual angle becomes 360 degrees.


ある記憶が全面、

全体を観察できるようになると、

1次元や2次元が持つ1人称観察者視点の限界を超えるようになる。

A memory observed on all sides

and entire shape can rise

beyond the limitation of the first-person observer’s viewpoint.

ある見方が3人称観察者視点になると、

感情の在りようも構成されている対象の一つになるので、

全体の部分になれる。

If a perspective begins to have third-person observer’s viewpoint,

the state of emotion will become one of the objects

that are constructed in parts to fit into a whole shape.


特定の感情が全体の部分になると、

特化された特異性の重さが無くなる。

When a particular emotion becomes part of the whole,

the weight of peculiarity that specialized can be lost.

その特定された記憶が重さを無くすと、

その記憶を飛ばすことができる。

If the specialized memory loses its heaviness,

then the memory can be lost.

重かった記憶が飛ばされると、

そこに余分の空間ができ、

新たな記憶が入れるようになる。

When the heavier memory is discharged,

there will be extra space to input a new memory.

その新たに空いた空地は3次元になるので、

入れられる記憶の容量も従って増える。

As the newly opened free space becomes three-dimensional,

the packable storage increases accordingly.


それら記憶を次元的に分類し観察する方法を

学習の記憶法向上に活かすことができる。

The method of categorizing dimensionally

and observing memories

can be used to improve our learning capacity.

つまり、人が過去から引きずった記憶が溜まった

記憶貯蔵庫を再整備することによって、

容量をリサイクルしていく方法である。

In other words, it is a way of recycling memory capacity

by restoring memory storage dragged from the past.


人の記憶力には天才や秀才を除き、

容量が決まっている。

Human memory capacity is limited

except for the genius or brilliant.

その決まった容量に

過去のエピソード記憶が大部分を占めているため、

想い出以外は使い道がない。

The storage is mostly occupied by episodic memories

which happened in the past,

and there is no usage other than for nostalgia.


しかし、エピソード記憶が占めている空間を空ければ、

記憶の容量を増やすことができる。

But if able to clear out space

where episode memories are stocked,

the capacity can be increased.


先ずは、使い道の無い過去の記憶を一度全て開けだし、

捨てるものは捨て、

飛ばすことは飛ばし、

放つべきものは感情から放てる作業を始めることによって、

自分の潜在能力の容量を増やせる。

For the first step,

open up all the useless past memories,

abandon which should be thrown out;

send away which you should let go,

let out which should be released from emotion;

starting with such operations

one’s potential capacity can increase.

過ぎた記憶は善でも悪でも変えることはできないが、

それらを自由に放つことは今、できる。

Past memories cannot be changed

whether they are good or bad,

but in the now you CAN let them go

and free yourself simultaneously.


過去の苦しい記憶に対し、

今に癒されることを待つより、

自分ができることである『放つ』ことで能動的になれる。

Instead of waiting to be healed

for the painful past memories,

one can learn to be active and let it go.

Everyone is capable to do so.

つまり、記憶を3次元化にして

映像のように再生し、

再生できたらそれらにまつわる感情を放てる。

To sum up, break down memories into three dimensions

and replay them like a video,

and when it is playing release emotions that attached to it.


もしかしたら、この3次元的な記憶の放ち方は、

坐禅を行う時に現れる雑念を『追わない』ことと

根本原理が類似いるかも知れない。

Perhaps, this three-dimensional memory release technique

may be similar to a Zen teaching:

“Do not chase distraction” of worldly thoughts

that appears when doing meditation.


新たなことを手に入れたければ、

必ず、既に持っているものを手放さないと

他を持つことができない。

If someone wants to get something new,

inevitably they must be emptied from what they already have;

otherwise, they can’t hold a new one.


新たな記憶を入れるためにも必ず、

既に占拠している古い記憶を手放さなければならない。

To input a memory also we must let go of old memories

that already have occupied the brain.


目の前に現れた雑念を拾わなければ、

それは浮かんできたように自然に消えていく。

If you don’t pick up the worldly thoughts that appeared in front of you,

it will disappear naturally as it floats away.  



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23 Comments

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Unknown (りひと)
2019-06-03 14:32:22
凄い!とっても分かり易いですし、未来への希望も感じます。でとても大事なのは、これが出来るのは本人のみです。他の誰か手を貸してくれても出来るものではなく自分だから出来る事。

この前映画観て思ったのが、一人の人間が体験するのは一つの側面のみだけど映画では両方がそれぞれその当事者を主人公に両方を観せられた気がしたんです。それで相対する者のそれぞれの想いが見えて敵味方ではなく同じ人間としての想いが湧いてきました。どんな事があっても闘ってはいけない事を。同じ人間、それぞれの立場はありますが、お互いを傷付けてはいけない事を。それは人間の普遍的な感情でもあるはずと信じたいですね。日本は両方味わっているだけに出来る役目もあるはずです。

また物理的な場所でもそんな凄い事が起こっている場面と全く呑気に日常を普通に過ごしている場所の対比も自分がその中にいたら両方は見えないのだとも。

記憶という側面ではその通り自分の想いが全面にあってあたりまえ。以前親子関係でお話した方との話でも親と子の視点は絶対的に違う。なので子供が大人になってももちろんそれを引きずるんです。けど同じくらいの年齢になると理解する事もきっとあるはず、そのちょっとした理解の出来た容量を捨ててその分の容量を違う所に活かせたらいいですね。それを続けていたらもしかしたら思い出の色合いが変わるはずですね。

何が大事かと言えばきっと一番対角の意見や到底受け入れられないと思うような事だと思っても聞いて見る耳や姿勢があると自分に変化が起こる可能性は、一番あるように思います。

古代史もどうしてこんな表現をしているんだろう?と疑問に思っていた事もそれを知る事で書き手の想いも感じると実は書き手と対角の想いもしれますし、またそれを両方並べて俯瞰的にもみれます。で実際どっちか選ぶのは両方を並べてから人間として命を大事にする立場としていい判断が出来るのかな?と思いましたよ。

もちろん自分のエゴや甘さや失敗もいっぱい出てくるとは思いますが、それが分かってから反省し行動する事を改める事が出来るのは人間だけだと思います。

そう思うと自分の感情もまずフラットにしないと相手の意見を聞くことも出来ないはず。ただそれが出来ると自分の祓いも出来るようになるように思います。

痛みをずっと抱えている方がこんな素敵な記事をみて、少しずつでも変化が起こるといいですね。

日本の神の世界では、これを少し目指しています。全く受け入れられないくらい酷い目にあった神がいたらやってしまった方から少しずつ違う側面を見せて少しずつ変化が記憶の容量の一部に変化が起こるといいなあと思います。神そのもの自浄変化が起こるといいなあと。人間が格一的にどの時代も同じ人間の考えではない事を神が感じて頂けると助かります。

自分の目では見えない側面がある事それをみんなが感じていると他人を受け容れられる側面も出てくるはずです。

父とは多分現世では出来なかったので同じ次元では出来にくいはずです。なので同じ次元のうちに出来たらもっと親子誤解なく過ごせたはずです。その後悔もあるんですよね。

日本の神さまも、この記事みてくれると嬉しいですよ。
返信する
Unknown (桂蓮(りひとさんへ))
2019-06-04 12:45:59
書きながら、読み手はきっと難しく受け取るだろうなあと思ってましたので、
りひとさんの分かり易いという文は私を励ましてくれました。
激励のことばを頂いた感じで、少し安堵感を持てました。
ありがとうございます。

このアイデアは編み物をしている時に浮かびました。
編み物は中学の家庭時間で課題としてやっただけでしたが、
先月、買い物に行った際に、
ふっと、マフラーを編んでみようと思い立ったのでした。

編み物をしていると、
過去の記憶が浮かんでは消えて、
また現れ、その記憶に伴い、感情も変化したので、
結構、その現象に考え込んでしまったのです。

私はある記憶に長年、苦しまれてきて、
カウンセラーに打ち明けたこともありましたが、
それがどうもならなかったでした。
他にもアドバイスを求めて
できることはしてみたのでしたが、
根っこまで取り除けるような影響力はなかったです。

ですが、記憶そのものを
全体像として捉えてみたら、
案外、感情を切り離すことができたので、
驚きましたね。

その感じを書いてみたのでしたが、
りひとさんが共感して下さって、
書いた涯がありますね。

りひとさんは父の責任感が一倍強い方かなと思います。
きっとお子様はりひとさんを信じて頼っているのでしょうね。
返信する
Unknown (りひと)
2019-06-05 00:23:21
日本では今過保護な親の問題と自己肯定感の無い子供の問題にやっと気付いたようですよ。
日本の子供達が伸びない理由と若者が育たない理由、そして子供がいつまで経っても親や権力者の傘の中にいる事を自由がなくてもったいないとも思っていない事でいつまでも達成感なく依存している事をお互い両者が気付いてしまったようですね。

親としたらいつまでも子供ですし、子供としたら力がなくなっても親なんですけどね。ありのままでその時々の相手の具合で判断して素直にただ対処するだけなはずです。

日本はそれが出来ないようですよね、ずっと同じ関係を望むというかそれが安心なんでしょうね。

本来男の子も小さいうちは父が怖くて逆らえずで、ある時体も力も大きくなり逆転してお互いがその変化を実感出来ていたはずなんです。ただそれがどうも父はどんなに衰えても自分に自信持ちたい力じゃないものも使い勝ちに執着し、息子は絶対の父を目指すどころかそれを維持する事で楽なんだと思います。

でもね、長い視点で考えるとそのままのわけがない。
高齢ドライバーの事故もそう、身体の変化と加齢は人間の定め潔く祓わないといけないはず。自分でね。

組織で定年長くするって方針ももっと悪化させる事想像しないのか?絶対の上が変わらないとその時代やその年代の人間に合わせた物は生まれないから時代遅れの法律もそのまま。就職氷河期の年代の積極雇用なんてまたびっくりしちゃいますよ。だってその上がバブル世代の先輩たちその先が絶対的で潔く下の成長の為の祓えない椅子にしがみついた方ばかり。今は働いていけないですよ、身体のためにも。
それぞれみんな自分で考えて行動すべきで、人や年齢や前例に合わせる必要なしですよね。外国じゃびっくりしちゃうんじゃないかな?欲しい人財は年齢じゃなく仕事ぶりで会社ごと延長決めればいいし、それをみんなで合わせるのも職種にも違いあるし、タクシーの運転主の定年を上げるように線を引くなら手間がかからない楽なだけですよね。

子供もそう、ひきこもの理由もいじめの理由もそれぞれ違うのに同じように評価するのもその子本人も相当辛い事なはずです。

日本のおかしさってそろそろ気付いてきたんでしょうね。

同じ事をしたら若い方でも貢献度大きい方でも子供でも同じ対応で良いはずです。子供だからと甘やかし、権力あるからいいなりでならいつまで経っても変わらないでしょう。子供でも赤ちゃんでも同じ事をやったら同じ対応をしていたらいいと思います。

自分の子だから怒らないで他の子だから怒る人おおいんですよね。その子への愛情って長い目でみたらどっちが愛情あるんでしょうか?ね。
自分の子を怒ってくれたらありがたい、って思えるといいのに。それは出来ないにしても理想は同じ行動で同じ対応がベスト。審判も警察も相手みないで判断出来るようになるといいですね!

これもきっと感情のある同じ領域の中でみたら出来ない事で、一旦自分の感情を置いておいて遠ざけ俯瞰でみるとその先の未来を考えての行動も理解できてくるのでしょうね。

我が子は多分冷たい親だと思ってますよ、なのでいつ出されるか?いつ母一人で好きな事するっていなくなるか?びくびくしていると思いますよ、きっと。
親子だけど感情どうこうではなく、同じ人間として子供だとも思わず接してます。その子によりその気持ちの入り方は違う風に感じているとも思いますし、性格的だけでなく素材としての相性もそれぞれあるので均一にはならずだと思います。
ただ戻ってきたらありのまま受け入れる、少なくても自分が産んだので。立派でもボロボロでも慕ってきたら何か出来る事はしたいですよね、他の子供でもね。

基本子供は素直で変化起こり易いので好きですし、トラブルや思うようにならない事を攻略するのも楽しいんですよね。

今世は子育てしようと生きてますけど、冷たい母で好きな事してやらなきゃいけない事しかやらないのできっと子供が自分でやらねばと自覚するしかない状況ですね。

父が天国から見てたらおまえはどうしようもない奴だって怒ってるとは思いますよ。そのビクビクも適度にきいてるはずです。ただ現世で同じ次元で見ていた景色とは今は違う私の頭の中の思考や想定も理解してくれたら娘の過去の評価も少し変わってきて新しい評価を入れてくれる容量も出来ると思います。追善供養して評価変えて貰おうとしているのかもしれませんね。
返信する
Unknown (急遽(りひとさんへ))
2019-06-05 06:54:50
もしかして、
りひとさんは母?っていうことは女性?
マジですか?

文体からみてずっと男子だと思ってましたので、
上記の文からだと
母親?ですが?
返信する
Unknown (りひと)
2019-06-05 07:49:36
ふふふ、そうですよ。
けど男気質。女に生まれちゃって多分困ってるんでしょうね。女性同士のお話もそもそも解決目指していないお互いの聞いて聞いてが苦手です。意味ないじゃん。何か解決法探して動いた方がいいのにって助言するとそんなつもりじゃあってなる。

男性だったらとっくにもういないと思います。女性で生まれたので少し長く生きれてるのでしょうからありがたく人生を楽しんでいます。

適性に合わない子育てと家事、けど今世は楽しんで生きてみようと。今後もよろしくお願いいたします。
返信する
Unknown (桂蓮(りひとさんへ))
2019-06-05 09:34:59
なんと!
びっくり、(;゚Д゚)

私も男子脳の男勝る人ですが、
りひとさんは遺伝子レベルの男子系ですね。

私は女子中高、女子短大、女子大出身で
女子からあにき体質だと言われてきて
女子からかっこいいなど言われて、
男からも男らしい女だと、
女の気がしないと、

それなのに、りひとさんには一本取られましたね。
まいりました。

ところで、私も女子付き合いが苦手で
常に、兄貴になってしまうから
女子との関係は希薄なのです。
私より、男子系が強くないと
私が付き合えないので、
その強気、男子系のりひとさんが
とても魅力的に見えますね。

私は男を奴隷にまで使って
必要無くなったらポイする悪極まる面もありますが、
それでも訴えられた(?)ことは無かったです。ひひひ


まあ、りひとさんと友達になれそうですね。
私と同質みたいだし、

今までは男だと思って
気を使ったのでしたが、
もう、似た者同士、素でいきましょう。
返信する
Unknown (りひと)
2019-06-05 22:35:06
なんかそこが大事に思うんですよね。
日本は特に女だから男だからで全て線が引かれていました。けどいざオープンになると大学のサークル女友達(先輩も後輩も含め)総合職だと男より断然負担が多いんです。もちろん結婚出産でやめてしまっているようですから本当凄い優秀でも環境が合わなかったようです。
あとそもそも対等の職種ですから男性からの妬みもあるんじゃないかな?これは自分が入った会社からでも想像出来ますね。その後は地域総合職など条件を変えているような事もやってはいますね。

そこで大事なのは男だから男っぽいでは分からない事は男だけど女っぽい方なら分かるはずで、女だから女っぽいから分からない事は女だけど男っぽいならお互いの考え方や違いが分かるはずなんです。両方分かるミックスですから。

そうそう私AB型の人も好きなんです、物事によって極端に違ったりするので。

日本での生活等を味わっている方がきっと日本の良さも悪さも指摘出来る役割が出てくると思うんですよね。
ある意味ミックス。

何事も決めつけないでただただ色んな方の意見が聞けるといい事いっぱいあるんではないかな?

男としての理想も男っぽい方と女っぽい方では違うと思いますよね。なので適性も男女で決めるのもおかしいです。

日本では医学部の問題でも窓口から違うと大変な損失になりのちには医学の劣化になる可能性もありますよね。

そう思うとミックスは、きっと何かいい知恵を見出せる可能性ありそうに思いますよ。
道元様も期待してくれてると思いますよ。
今後もよろしくお願いいたします。
返信する
Unknown (To-りひと(桂蓮))
2019-06-07 04:46:15
ミックスですか、そうかもですね。
男性脳、女性脳を調べるテストがありますよ。
興味本位にデザインされたテストですが、
傾向を知るにはいいかもです。

http://ex.senmasa.com/brain/
参考までに

以前、結構そのような性格診断テストやってみました。
私の場合は男子55%、女子45%で
常に男子優位の結果でしたね。
色んなテストを受けたから
平均的にみて、
りひとさんももしかしたら、
男子優位タイプかもですね。

昨日は、バレエのレッスンでへとへとでしたんで、
ブログ開けず、寝ちゃいました。

ところでりひとさんはどこのお住まいですか?
ここはNYから3時間離れているコネチカット州の
グランビ―市です。

グランビ―は州全体がヨロッパ風で
とても伝統的な国です。
どこも森林に囲まれて、
美しい街並みで、この季節になると、
ドライブに最適なのです。

日本に住んでた時は
埼玉県の川越市に住んでました。
返信する
Unknown (桂蓮(補足))
2019-06-07 04:58:45
すみません、上記に添付したサイトですが、
コメントを投稿してから
トライしてみたのですが、
設問に答えて、最後の時にエラーがでました。
時間の無駄サイトでした。
手数かけてすみませんが、そこにリンクしないようお願いします。
返信する
飛翔 (榮久)
2019-06-07 23:01:36
考えられることしか
考えられないという
この論理
この思考形式を不自由と感じるとき
考えられないことをも
考えてしまったかのように
見えないものをも
見てしまったかのように
そこに表象し得るのは
おそらく詩学のみだろう。

ミシンとコウモリ傘が
手術台の上で出会うことも
そこにおいては
確かにリアルで全てが可能だ

それを敢えて「自由」と
名付けるならば
それ以上の自由はなく
あらゆるヴァリエーションの
上空を意識は軽々と飛翔し
言葉と言葉の支配で
その花園に百花を繚乱させるだろう

ただし
とは言え表象し得るもののみを
意識は表象しているのだと
そのとき醒めることさえなければ。
返信する

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