私は常に世界人口の一人として
自分を考えようとしている。
I always try to conceive of myself
as one number of the world’s population.
そうすると自分の抱えている問題とか
難関とかが客観的になる。
In that way, the problems and difficulties I have
become objective.
50代の半ばを過ぎてみると、
自分以外の何ひとつも変えていないことが
明確になってきた感じがする。
When I overpassed my fifties,
it made me sure that
I could not change anything but myself only.
天から変えることを許されたのは、
自分しか無いかもしれない。
The only single thing allowed to change from the almighty
would be the very me of myself.
自分が変わっていく過程は
楽になりたい自分との戦いのように思える。
It seems to me that the process of changing myself is
like a battle with myself who wants to be comfortable.
楽に座っていると楽な考えしか出てこない。
When we sit comfy, only easy thoughts come out.
その楽な考えは脳内の中でクルクル周るだけで、
循環したり途切れたりする。
Those easy thoughts twirl around in the brain,
and it circulates or discontinues.
考えはバブルのように
瞬時に膨らんでは呆気なく消える。
Thoughts are popping up instantly like bubbles
and then gone like a flash.
だが、少なくても歩きながら出てくる考えは
何かの行動につながる。
But the thought that came out while taking a walk,
leads to some actions.
私はできる限り立っていようと決めている。
I determined to keep standing as long as I can.
座ることしかできない時は
足の関節を動かす作業をしている。
When the situation only allows me to sit,
I try to release my feet' joints.
関節を動かせない状況なら、
脊椎を正し骨盤を立てることに意識を向ける。
If the situation does not allow move my feet joints,
I focus on straightening my spine and upright my pelvis.
ここまで体の正立に
気を集中できるようになるまで何年もかかった。
It took many years for me
to concentrate on upright my body.
意識はどちらか、考えか或いは体の感覚かに
片寄る傾向がある。
Consciousness has a tendency that
takes one-sided, which to lean thought or body sense.
体を使わないで考えだけを動かすと
考えは拡散していく。
If the thoughts take move without using the body,
the thought will spread out.
反面、体の感覚に意識を集中すると
考えの運動性が神経の動きに向けられるようになる。
On the other hand,
when we focus our attention on bodily sensations,
the mobility of the thoughts changes the direction
to move motor nerves.
意識が自らの体の中の神経回路に向くと
自分ができることとできないことを分別してくれる。
If the consciousness directs motor nerves
and gets neuronic circuiting in the body,
it leads to distinguishing
what we can do or cannot.
自分の体でできることとできないことを
分別できるようになると、
自分の体の限界が見えてくる。
Once we can have the distinction that
what is capable of doing or not with the body,
it allows us to visualize
the limitation of one’s own body.
限界が見えてくると超えられるか、
超えられないかの判断ができるようになる。
When the limit comes visible,
it leads to comprehensible
whether to go beyond the limits
or unable to overcome.
超えられると判断したら超えていく。
If it leads to judging to go beyond then go for it.
それが自分を変える作業である。
That is the workout for changing the self.
成長もっぱら知る行動に、今は知っているつもりで手も足も出ません。
何も考えらふぇずに走り回っていた合宿が懐かしいです。
何も考えずに走れる、それ年と共に難しくなっていきますね。
おっしゃるとおり限界を知る、知らないは
大きな差がありますよね。
今は、シニアコーラスと紙紐、とても軽いものになっています。
やがては重力に屈してゆく
ZIP
私にはそのために頑張っているのです。
重力に負けるレベル、それ本当に難しいです。
話せば長いので(しかも言っても無駄かな)省きますが、
私は重力に負けることを利用している段階に入りました。
ここまで来るには、本当に長く、辛かったです。
いつか、この過程をくぐり抜けたら
記事にできるかも?です。
鋭い皮肉、ありがとうございました。
ZIPさんへ
私もそう思います。
でもね、運が良かったと思います。
今と違って重力もそれほど強くはなかったはずです。
逆らうだろうが、
重力にはなんの関係のないですが、
私は重力を実感している日々を送っています。
逆らうこともなければ
勝とうともしない。
ただ重力を感じて
それと共にいく、感じですかね。
でも、やっとトレーニングが本格的になりました。
土台作りが終わって
種からも芽が出て
やっと土台から
私が植えた種がなんだったのか、
少しづつ見え始めました。
種も無いのに
私は果実を絶対に願ってなかったです。
それだけは自分がやった賢いことだったのかなと。
でも、私が言わないで(書かないで)
背景として埋めたことを
見事に、察してくださいましたね。
返事を書きながら
概念がもっと明確になってきました。
その分、本当に感謝しています。
ZIPさんへ