①あの面談からもう一年以上が過ぎた。
去年の夏、青森県むつ市恐山にある菩提寺で
南直哉師が指導する坐禅修行を受けるため日本に行った。
その坐禅修行を受けるようになったきっかけは
ずっと前の2年前から始まっていた。
否、もしかしたら私が坐禅を始めた10年前から
既にその縁起が発生していたかも知れない。
ある日、ひょっとしたきっかけに
YouTubeから南直哉師のインタビュー番組を見つけた。
当時は坐禅関連のサイトを検索していたからか
類似のサイトが自動的にあがってきたようであった。
始めは普通に昔の禅師の教えを延々と解説するくらいだろうと思って、
流したまま他の雑誌を読んでいたが、
話が「私はなぜ他人ではないのか」 になって、
次第には
「本当の自分というものが分からないから探すわけです。
もしそうだとすれば、会ったことのない人を探すっていうことは
どだい無理ですからね」
「これは、ものの考え方が
なにか基本的に違うんじゃないかと思ったんですね」
「それからもう一つは、
自分を探そうとして
本当の自分に出会うということになれば、
その『本当の自分』が本当に『本当の自分』かどうかを
判断するのは誰なのか?という話になりますよね」
になった時は、
あれ?これは私がずっと知りたかったことなんだけど?
と驚きがあった。
南直哉師の恐山関連ブログ記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/0b1cb7456a1a2b1924eaed94846498c2
『メディアの言葉』
それから、ビデオを最初から戻して
注意を払いながら再度観始めた。
その日は、連続して同じビデオを繰り返し観て、
私が何を掴んだのかを頭で整理した。
それから、南師関連の他のサイトも全部調べ始めた。
その中で分かったのは
この南という僧侶は今まで見てきた僧侶と全く違うということだった。
この人は自分に初めから何かの疑問があって苦労してある答えを得て、
それを言葉で表していると思った。
話のトーンも自然で
どこか深いところから湧き出るような印象を受けた。
また他のビデオからも一貫した態度が見えたから
この人は全てどこでも自分で勝負している人のように見えた。
その日、私はこの人の本を訳すと決めたのであった。
その決心をしてから一年後、
坐禅修行の前に事前に面談を申請し、
本を訳したいので相談したいことも伝えた。
申請した面談が受理された時は、
未来への期待と翻訳を断られるかもとの心配で
複雑極まる感じだった。
日本に行く支度をしている間は
会って何をどう話したらいいかとか、
私の言語能力をテストされるだろうかとか、
期待や希望よりは心配や不安のほうが多かった。
日本に行く飛行機の中と
青森行きの新幹線の中でも
持参していた彼が書いた本を読むことができず、
ずっと考えてしまった。
ここまでに至った経緯、
私が坐禅を始めた切っ掛け、
英語の独学中挫折した時でも諦めなかったこと、
弁護士のアメリカ人夫との結婚、
アメリカへの移住、
彼のサイトを見つけた偶然、
彼との関りを持つために始めた日本発信のブログ、
それらすべてが同じらせん状に絡まってクルクル回り、
その中心に向かって私が今、行こうとしているその事実が
一秒一秒近づいてくる切迫した緊張があった。
菩提寺までの道のりは長かったが、
その間私は持っていた本を1ページも読めなかった。
やっとロビーに着いて名前を言ったら、
デスク案内の方が私の名前を憶えていたので驚いたが、
面談の時間を知らされた時はもっと驚いた。
面談時間が予め決められてあったからだった。
予約した部屋の前に何故か、
桂蓮の名前だけ書いてあった。
アップルバウムという苗字は長くて入りきらなかったようであった。
荷物を簡単に片付けて、
面談約束の時間より早くロビーに降りて待っていたら、
背の高い、ほっそりした感じの南師が現れた。
其の二へ続く...
注:この面談は書きたいことが済むまでシリーズとして続行します。
英訳はできる次第に別枠で英語版としてアップする予定です。
異様な空気の漂う感じが、よく映し出されていますね。
面談までのぎこちない時間も、しんみり伝わってきますね。
其の二記事も楽しみにしています。
素敵な思考の永い飛翔が始まっているのですね
明治初期に日本に無かった西洋哲学の観念や
概念を漢文の素養で造語した西周に
今日まで
ついその造語に縛られてしまう私です
仏教概念や南氏仏教観の英訳文
西周の漢文の素養を
英語圏ならと英語の古文とは想像解釈し
英訳の下地にはラテン語もしくは
思索者発祥の一つであるギリシャ語を取り込み
造語の必要があるのではないでしょうか
今の英語自体340~350年ほどの歴史
ラテン語やフランス語の語源をもつものも数多いのはご存じの通りです。
桂蓮さん発の英訳となると
英語での仏教観
新語彙を創り翻訳されんことを
楽しみにお待ちしています。
急いで投稿したので、誤りがあってそれに気づいてなかったでした。
すみません。
URLのコピペは次回に載せておきます。
指摘、ありがとうございました。
南師の使いになることばは
死んでいなく
死語をあまり使いになれてないように見えます。
そのことが
西洋でも受けると思ったのでしたね。
使っていることばが死んでいないとの意味は
語源を遡らないと理解できない今は死語になった、
漢語を砕けていて
現代語に代えていることの指すべく使いました。
ご本人アメリカでお住まいになったことから
言葉使いが世界のレベルまで広がって
受け手の層が日本に限らない可能性へ
開けている感じも受けましたね。
南師はきっと、いつか過去で
ご自身ことばの起源を研究された痕跡が
あるので、
その分、私の関心事と通じるところもありましたし。
もしかしたら、私が通訳の際に
栄久さまの助けが必要になるかもと
今、思いました。
差支えがなければですが、
その時になれば、世話になっていいかと
訪ねたいのですが、
宜しいでしょうかね?
最後の朝、散歩の時に撮りました。
記念として撮っておいたのでしたが、
実際、使えるとは思えませんでしたね。
其の二は書いてあるので
英語版をアップしたら
次の巻にいく予定です。
南師の本とは、何を持たれていたのでしょうね。英訳はわかりませんので、次の日本語を読みたいですね。
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皮肉なことだ。
前回までの記事で
私のブログアクセスは特定の人がコメントしたから
その効果でコメント数が増え
アクセスも増えた、だから
その特定の人が提示するリンク先を熟知して
私の品格を高めろ、とのアドバイス系が多かった。
結果的に私はそれらの期待を裏切り
援助を断ったことになったが、
それを書いてた時は
もう、その特定の人無しでは
私のブログは昔のように
2万台の順位に下がると思っていたし
誰もコメントしなくなることも覚悟していた。
だが、私の予想に外れて
アクセス順位ランクは
上記に添付したとおりだ。
私で無く、明らかに
南直哉師の効果である。
人が読みたいのは
その特定のリンク先でなく
南直哉師との面談なのだ。
また、面談というのはプライベートなことになりますが、タイトルにまで名をあげて、声高に公表してもよろしい事なのでしょうかね。先方との断りなどがあるのでしたら、構わないのかもしれませんが。
以前に先方も、名は出さずとも、かなりのプライベートな内容を記事にされたことがありましたが、どなたかの要請で削除されていましたね。
個人的な相談を断りもなしに公開されると、したい相談も出来なくなるでしょうね。恐らく、そのような指摘も、別にあったのではないかと想像しますがね。
自分はよくても相手はよくない、相手はよくても自分はよくない、両者ともよくない、両者とも了承済みかどうか。
今回は、相談者の方の公開ですから、さほど問題ではないことかもしれませんが、立場が逆の場合を考えてみますと、師匠と仰ぐ方や、師事する方への見方も変わるのではないでしょうかね。
弟子が師匠の忍耐強さを測ったり、師匠を試したりするのなら、それなりに、それ以上の覚悟も必要だったということではないでしょうかね。
配慮が欠けている点があったとはいえ、単に内容がどうのこうのというのではなく、まず自分の態度はどうだったか、何を師匠が教えようとしていたか、視点を変えてみると、また違う景色が観えてくるかもしれませんね。
どちらが悪く正しいということではなく、師匠は嫌でも弟子に苦言を呈し、忍耐強く育てるという立場でしょうから、また誰かを師事するのなら、忘れてはならないことではあるでしょうね。
それらの経験を、今後よい方向に活かしていけることを願っております。
私の場合は公的な性質もあって
ブログで記事にすることを
予め伝えてあって
了解もあったので、
一般的な個人の悩みを相談することとは
ケースが違います。
師匠の問題は
私の一方的な呼び名であって
また、その件については
前回のコメント欄で
徹底して解明しておきました。
今も尊敬していることは変わりませんが、
関係性は特に崩壊しているので
私には過ぎ去ったことになります。
もし、前回のコメント欄での私の解説が理解できないままのコメントでしたら、
それは私の道徳の問題でなく
Unknown (Unknown)
2018-11-07 14:26:06さんの問題だと思います。
師匠など持つ予定は全くございません。
今後良い経験に活かせるなら
尊敬するからといって師匠仕立てしてはいけないということを学んだことですかね。
面談にもカウンセリングの意味があるのもあれば
私のケースのように相談、否、南師からの面接だったと思います。