Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

南直哉師との面談其の①

2018-11-05 | 翻訳

①あの面談からもう一年以上が過ぎた。

去年の夏、青森県むつ市恐山にある菩提寺で

南直哉師が指導する坐禅修行を受けるため日本に行った。


その坐禅修行を受けるようになったきっかけは

ずっと前の2年前から始まっていた。

否、もしかしたら私が坐禅を始めた10年前から

既にその縁起が発生していたかも知れない。


ある日、ひょっとしたきっかけに

YouTubeから南直哉師のインタビュー番組を見つけた。

当時は坐禅関連のサイトを検索していたからか

類似のサイトが自動的にあがってきたようであった。


始めは普通に昔の禅師の教えを延々と解説するくらいだろうと思って、

流したまま他の雑誌を読んでいたが、

話が「私はなぜ他人ではないのか」 になって、

次第には

「本当の自分というものが分からないから探すわけです。

もしそうだとすれば、会ったことのない人を探すっていうことは

どだい無理ですからね」

「これは、ものの考え方が

なにか基本的に違うんじゃないかと思ったんですね」

「それからもう一つは、

自分を探そうとして

本当の自分に出会うということになれば、

その『本当の自分』が本当に『本当の自分』かどうかを

判断するのは誰なのか?という話になりますよね」

になった時は、

あれ?これは私がずっと知りたかったことなんだけど?

と驚きがあった。

 

南直哉師の恐山関連ブログ記事のURL

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/0b1cb7456a1a2b1924eaed94846498c2

『メディアの言葉』

 

それから、ビデオを最初から戻して

注意を払いながら再度観始めた。

その日は、連続して同じビデオを繰り返し観て、

私が何を掴んだのかを頭で整理した。

それから、南師関連の他のサイトも全部調べ始めた。


その中で分かったのは

この南という僧侶は今まで見てきた僧侶と全く違うということだった。

この人は自分に初めから何かの疑問があって苦労してある答えを得て、

それを言葉で表していると思った。

話のトーンも自然で

どこか深いところから湧き出るような印象を受けた。

また他のビデオからも一貫した態度が見えたから

この人は全てどこでも自分で勝負している人のように見えた。


その日、私はこの人の本を訳すと決めたのであった。


その決心をしてから一年後、

坐禅修行の前に事前に面談を申請し、

本を訳したいので相談したいことも伝えた。

申請した面談が受理された時は、

未来への期待と翻訳を断られるかもとの心配で

複雑極まる感じだった。


日本に行く支度をしている間は

会って何をどう話したらいいかとか、

私の言語能力をテストされるだろうかとか、

期待や希望よりは心配や不安のほうが多かった。


日本に行く飛行機の中と

青森行きの新幹線の中でも

持参していた彼が書いた本を読むことができず、

ずっと考えてしまった。


ここまでに至った経緯、

私が坐禅を始めた切っ掛け、

英語の独学中挫折した時でも諦めなかったこと、

弁護士のアメリカ人夫との結婚、

アメリカへの移住、

彼のサイトを見つけた偶然、

彼との関りを持つために始めた日本発信のブログ、


それらすべてが同じらせん状に絡まってクルクル回り、

その中心に向かって私が今、行こうとしているその事実が

一秒一秒近づいてくる切迫した緊張があった。

菩提寺までの道のりは長かったが、

その間私は持っていた本を1ページも読めなかった。


やっとロビーに着いて名前を言ったら、

デスク案内の方が私の名前を憶えていたので驚いたが、

面談の時間を知らされた時はもっと驚いた。

面談時間が予め決められてあったからだった。


予約した部屋の前に何故か、

桂蓮の名前だけ書いてあった。

アップルバウムという苗字は長くて入りきらなかったようであった。

荷物を簡単に片付けて、

面談約束の時間より早くロビーに降りて待っていたら、

背の高い、ほっそりした感じの南師が現れた。


其の二へ続く...


 

注:この面談は書きたいことが済むまでシリーズとして続行します。

  英訳はできる次第に別枠で英語版としてアップする予定です。

 

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266 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2018-11-18 07:53:06
心がおさまらない
疑惑者の分析屋さんに
ワタクシなりの配慮をして、

会話そろそろお開きに・・
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-18 07:47:25
ネットが楽しみになっていませんか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-18 07:42:49
生きていても何にも楽しいことが無いのに、死ぬこともできない、というのは、どんなに悲劇なことか、私には想像もつかないです。

どんなに辛くても、身体は生きようとするのでしょうね。

そういう人こそ、釈迦の、一切皆苦、瞑想を楽しむ、という言葉が救いになったらいいのでしょうけど、そんな価値観も誰でも共感できるというものじゃないでしょうしね。
返信する
上から目線 (Unknown)
2018-11-18 07:30:29
他者からの助けを求める事を知らない孤独な生活困窮者は、
この世には楽しい事が有るなどとは夢にも思えない。

唯一、
プラトンの「哲学とは死ぬ事の練習だ」と言う言葉と
プロティノㇲの「絶体絶命の時は自殺しても良い」と言う言葉に励まされて、その時を伺う。

多分仏教的自殺とは坐禅したまま餓死に至るケースだろうか、飲まなければ一週間、食わなければ二週間。
(参照、南ブログでの11-11,04:48:39コメ)
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-18 07:05:42
南さんは、愉しみも享受されていると思いますよ。私もそうです。

釈迦は、生きることの全部が苦しみでしかないなら、誰も生きようとはしないだろう、楽しいこともあるから人は生きるのだ、と言ったとスマナサーラ長老が解説したのを聞いた記憶があります。

南さんも、同じようなこと言ってましたよね。
返信する
余りを残す (Unknown)
2018-11-18 06:46:20
すなわち、疑惑者
すなわち、心がおさまらない・・・
かくて自らは深淵の底に沈み込む。

でもまあ歳とって来れば、
問題の方が自分から去っていく
(総持寺旧貫主、板橋師本『息身佛』(ただ息をする、ただ生きる)
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-18 06:31:49
信じられない人は、信じない。

信じられる人は、信じる。

それだけのことですよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-18 06:28:38
1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

(スッタ・二パータ)



276 汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

(ダンマ ・パダ)
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-18 06:24:45
今だけ真理
今だけ実体

而今は真理そして実体。
明日今は、全て幻想そして錯覚。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-18 03:38:30
>「『真理』という観念、考え方、言葉が嫌いだという意味です。『真理』という以上、永久に変わらず、かつ普遍的でそれ自体で存在しえるもの、つまり絶対的なもののはずでしょう。そういう考え方が、もう生理的にダメなのです」

>「だって、空間的にも時間的にもきわめて限定された条件の中で生きている我々に、永遠で絶対の存在を認識できるわけがないでしょう」


未来を想うと、それは真理とは言い切れなくなる。

しかし、目の前の今だけを見つめるなら、それは真理と言える。

そう思います。

過去は、もう無い。

未来は、まだ無い。

有るのは、今だけ。

そんな言葉が経典にありますね。

禅宗では、而今と言うんですかね。

南さんが、この一瞬が永遠、と感じた時があった、と言ってたような。道元禅師の話だったかな。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-18 02:27:07
https://www.jataka.info/entry/2018/07/11/210250
返信する
あのとき (Unknown)
2018-11-17 23:40:53
もんじゅとふげん

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/bc335dc4b5cca6636e61b5742371b632 

ちえとじひ
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-17 23:37:33
共感なのか問うことなのか

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/436c3d59d196093c588c9ea20ff28de2

わはは

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/851ef686c24597c2ced1c94c64a32e52
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-17 23:04:36
自分で考えているだけじゃ駄目で、他人に共感することも重要ということについて、こういうのがありました。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/0bcbeb30e039fd857e293c5a27c5e900

>この言葉がある以上、これを言った人間がいる。その人物は、僕の思いの全てではないにしろ、確実に何かを共有する人だ! 助かった!! オレだけじゃない、正直そう思いました。

>しかし、成仏どころか、おぼつかない足取りで先人の後をやっと追いかけているような私としては、自分に提供できる「救い」があるとすれば、かろうじて「それは僕にもある。でも、だいじょうぶだ」と言うくらいしかありません。


南さんにとっても、先人の言葉は重要ということでしょうね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-17 21:19:40
>長野市の善光寺の近くに生まれ育ったが、仏教の思想との出会いは中学時代に読んだ「平家物語」だった。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という冒頭のくだり。「人は理由なく生まれ、意味なく死んでゆく-。そういうことを言っていると思いました。強烈な共感を覚えました」


他人の言葉によって道が開かれる、という好例だと思いますね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-17 18:47:55
参考になるリンク先、全部は読めませんでしたので、
いつか読むためにブックマーク入れておきました。

改めてありがとうございます。

今はここ、土曜の朝4時半です。
日本は土曜の午後なのかな。

金曜、大雪でした。
夫も自宅待機になり、雪かきで大変です。

家のドライブウェイは長く
今まではドライブウェイと駐車場の
雪かきを業者さんに任せていたのですが、
雪の当日に来れなくなったとの知らせがあったので
仕方なく夫と私二人で、
夜中の10時から朝の2時まで
60センチも積もった除雪をしました。

雪のち雨の天気予報だったので
凍る前に除雪しなければならなかったのです。

4時間の除雪、ギックリ腰が完治してないのに
先日の落ち葉掃除と雪かきで、
全身あり得ないほどの筋肉痛です。

夫が運よく、他の除雪業者さんを見つけたので
これが最後になるかもですが、
あのショベル毎に刺さる激痛を4時間も
しかも深夜に、
その後も他の仕事などなど....

そんなわけで、リンク先じっくり読める暇が
持てませんでした。

返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-17 16:31:15
こんなんも出ました。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/69aed90c3183f61bbb0d8954bfd3385b
 
求められているのとは違うかもしれないですが、ウェブの「考える人」に書かれていたかもしれません。

https://search.yahoo.co.jp/amp/amp.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2018100602000270.html%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-17 16:08:43
桂蓮さんのリンクは、危ないサイトとしてウイルスバスターから弾かれてしまい、見れませんでした。

ですので空に関しては、どのような解釈をされているのか読めませんね。もしかして、般若心経からの影響でしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-17 14:15:09
「色と空」のリンク有難うございます。
それは、南流の空観は~~、に近い感じがします。

わたしが南さん言として記憶しているのは「空それ自身には何の(実質的な)内容物はない」という言い回しは
別の時のブログ記事だったか、または別なサイトでの南さん言語録だったのかもしれません。

まあ明らかに、桂蓮さんがリンクされた、
精神文化学会「中論の空」で示された「空」定義とは異なると思うのですがどうでしょうか。
返信する
色と空 (Unknown)
2018-11-17 12:41:02
こんなん出ました。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/6fc084811e07ab252ac0afb7454f5842
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-17 08:55:31
これはどうでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/8207259cb8f042399ed2cdeb7ba6ed95
返信する
南ちゃんの「空」解釈? (Unknown)
2018-11-17 08:42:35
南ブログ内での検索単語「空」では見つからなかったのだけれど、

南さんが定義する「空」は、たしか(なんだか?)、

「空」それ自身には「実質的な内容」が有るものでは無く、
単に、在る事象が無根拠であるという事を言いたいが為に「空」と言う言葉をあてはめた(=発明した)・・・
とかなんとか。

一例でいえば、色即是空で、
「色」は無根拠である…とか言う為に「色即是空」と言っただけなのだとか・・・

(どなたか、的中した南ブログ記事を引っ張り出せたらリンクしてみてください)
返信する
南ちゃんの「もがき現象」はここでも発症するか? (Unknown)
2018-11-17 08:05:59
精神文化学会「龍樹の空論」

「空」という概念は無と有を具有し、
かつ超越した上位の概念であり、
抽象度が最高レベルにまで引き上げられた概念である・・・(引用終わり)

う~む、此処でも出たか、超越論!!
南ちゃんの「空」解釈はなんか全く違ってたよね、たしか。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-17 07:51:42
念処経経由「人体クソ論」は分かっていても、
人体を紙で拭いてポンと捨てる事なんかできない。

人体はやっぱり愛しい。
人体が無ければ「じみとくどせんどた」も出来ないし・・・

結局、悟る事なんか出来ない。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-17 07:41:56
ひたすら、引用・リンクを毛嫌いする桂蓮女史が、敢えて勇気を振り絞ってリンクした
精神文化学会の論文「龍樹の空論」。

スルーしたらまことに残念で在りますので、
チョイ読みしました。

「火とは、酸化という化学反応・・・」はOK.
「火と薪が全く無関係な存在ならば・・・」もOK.

でもなぜそれ故に
「まさに炎は、〝不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去”でなのであり、
他の事象と同様に、その本質は【空】である」

と、いきなり思考が大ジャンプしてしまうのか???
ワチキにはゼンゼンわからん、わからん、わからん、わからん、~~、~~。


返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-17 07:36:24
答えが分かっても、これが答えだと分かっていても、その通りにはいかない、というのが悟っていないということですよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-17 07:29:36
普遍の真理かどうかは人間には分かりようがない、ということなら、普遍の真理だと思っても支障ないとも言えると思います。

普遍の真理じゃない、ということも分からない、ということでしょうから。

でも、それじゃあ納得できない。

そして、自分で探しても納得のいく答えが見つからない、さりとて、他者が用意した答えは気に入らない。

それでも生きていきたい。

もがくのは必然でしょうね。

まあ、誰しも悟っていなければ、もがくしかないですよね。
返信する
補足 (Unknown)
2018-11-17 06:41:24
でもそれも(未達成的)歳の功に過ぎなくて、
道元禅師の「眼横鼻縦」、
瑩山禅師の「腹が減ったら喰らい、寝むたかったら寝る」の、
日々是好日の三昧世界に身を置けば、
「もがく事などサラサラ無し」となりますね。

南さんも、
まだまだ若いのに、
経年劣化とは、また大仰な・・・
返信する
南さんはもがいているか? (Unknown)
2018-11-17 06:29:40
後代仏教の教える「不言真如」などという造語に対して、南和尚はもがいている感じはありますね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-17 05:09:14
>もともとこの世に真理なんて存在しないとは、南和尚の口癖でもあるし・・・


南さんは、もがいていないのでしょうか。
返信する
訂正 (Unknown)
2018-11-17 04:40:00
恒常生・・・・>恒常性
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-17 04:38:21
現実的で実践的思考を好む私としては、
「実存」と言う言葉に物質的重みを付け加えて、

マキはマキとして『C(炭素)』の結晶体としての属性を持つ実体で、
火は火として化学式(C+O₂=CO₂+発熱カロリー)で表現できる属性を持つ実体で、

それは当然、物質としては恒常生などという属性は持っていないし、
言語概念としのみ恒常性(=自性)を持つ・・、
という事で全て頭をクリアーにさせてます。
返信する
補足 (Unknown)
2018-11-17 04:16:32
恒久性=恒常性
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-17 04:14:49
「恒久性」という属性を賦与させない西洋哲学の「実体」論も存在している事を考えれば、
たんに言葉の迷宮の中に囚われ、いたずらにもがいているだけの気がします。
東洋思考だけが真理と言う訳では無いでしょうし、
もともとこの世に真理なんて存在しないとは、南和尚の口癖でもあるし・・・
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-17 01:10:22
私は、そう教わったのだ、そして、それに納得もしたのだ、ということでしょうか。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-17 00:36:40
諸行と諸法が混在しているのが世間というわけです。
仏教を学ぶうえで最初に教わることです。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-16 18:47:58
>いかなる存在、現象も、自性(それだけで独立して存在する固有の実体)を持たず、


一般的な解釈に一致していると思います。
返信する
ZIPさんへ (桂蓮)
2018-11-16 17:52:15
http://spiritandculturesociety.org/2013/01/13/252/

上記のURLとコメントの内容が関連しているのです?
私は最近、情報の選択など、結構気を使っています。
リンク先間違うと不愉快感が残るので、
慎重に選別しています。

ZIPさんの意見を聞かせてください。

たかはしさんの意見も聞きたいし。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-16 11:40:01
だから、実体が無い=無自性だと。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-16 11:37:23
それ自体(=実体)=自性

それが中論で言ってることですよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-16 11:33:57
中論の第15章でしょうか。

その解釈が、

>実体がないから他に依存することなく、自性を有しているわけです。

ということなら、かなり異質な解釈に思えますが、そういう解釈をする人達がいるということなのでしょうか。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-16 10:30:04
観有無品第十五
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-16 10:24:27
>実体がないから他に依存することなく、自性を有しているわけです。


実体が無いから、他に依存しない、という見方を初めて知りました。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-16 10:18:35
ZIPさん、とても興味深い解釈です。

スマナサーラ長老が、龍樹を実体論者だと解釈した(私は、そう聞いた記憶があるのですが)のと共通かも、と思いました。

中論のどのような記述から、そう解釈したのでしょうか。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-16 09:59:40
言葉はそれ自体で自立しているし、それ以上
分割が不可能なものとして単一のものであり、
実体がないから他に依存することなく、自性を
有しているわけです。
龍樹が中論においてそのように説明しているわけです。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-16 06:43:06
204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。(スッタ・二パータ)

218 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。(ダンマ ・パダ)


涅槃は、修行という縁によって実現されるもの。

しかし、涅槃そのものについては、もはや何とも語れない。

でも、語らないわけにはいかないから、何とか語る。

それが、不死、不滅という表現になる。

それは、縁起からの超越ということになるのだろうが、でも、縁起からの超越、という言語表現も、厳密には違う、涅槃そのものは語れないのだから、ということになる。

そこが仏教が妙なる教えと言われる理由。

そう思っています。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-16 05:59:30
>縁によって生まれ、縁によって滅する

涅槃とは「縁」からの離脱、絶縁抵抗勢力
仏教では縁起を説くいっぽうで、
絶縁たる涅槃も説く両刀遣い。

「この世は全て縁起の世界であるが、
縁起から解脱した世界も存在するのである」

「この世は全て一切皆苦の世界であるが、
皆苦から解脱した世界も存在するのである」
返信する
え~とまあ、こんなことかと (Unknown)
2018-11-16 05:44:02
つまり、とにのかく、いずれにしても・・
(東洋哲学では)無常は無我を含有する。

だから諸行無常と言いさえすれば
諸行無我も含んでる。
諸行の行は概念ではなく具体的な行為を意味するから無我でもあり無常なのだ。

しかし諸法の法は実質的な行為ではなく、
モノの在り様という抽象概念も含むものだから
それを無常だとは言い切れず、

故に「諸法は無我だ」というしかない。

無常>無我

無我=実体的アートマンは見つからないの意味。
概念は頭脳思考の所産だから、もともと実体的存在ではない。

無常=常住でない事。よって無我を含む。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-16 05:10:08
おおッ~~、ハタとガッテン!!
諸法無常(=法も無自性)と龍樹さんが主張したから、
龍樹がインドでの仏教を壊したと
スマナサーラ長老がクレイマーとなった訳ですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-16 04:55:30
だけれども、
釈迦にとっては涅槃は無為で、
無為とは常住にして不滅不変で
それだからこそのこの世をすててに
出家作法に明け暮れた訳だから、

たかはしさんの見解を、
この無明のヤカラめと、
ホトケ転じて阿修羅と化す・・のでは?

それともホットケと知らん顔?
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-16 03:36:29
諸行無常。

諸法無我。

なんで諸法無常じゃないのか。

それは、法たる概念は無常じゃないから。

スマナサーラ長老もそんな説明をしたような。

でも、概念も縁によって作られたものだから無常じゃないのか、と私には思えるのですが。

忘れ去られたり、意味内容が変わるということもあるでしょうし。

言葉もそうですよね。

諸行無常という真理は不滅でしょう、と言ったところで、人類が滅亡したら、諸行無常という現象を認識する人もいない、ということになってしまうでしょうし。

常住なものなど、どうでもいいんじゃないの、と思えますね。

死んでしまうという人間には、常住は、あり得ない。

生まれて来るという人間には、断滅は、あり得ない。

しからば、何なのか。

縁起である。

縁によって生まれ、縁によって滅するのである。

それでいいんじゃないの、と思いますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-16 03:22:29
ついでながら、言葉の連想ゲームで思い出した事は、

たしか龍樹さんは「無自性(=実体がない)」を
単なる概念に過ぎない思考にまで押し広げたんでしたよね。
これは言葉の恒常性(実体性)まで否定して見せたという事では無いでしょうか。

たとえば、
(平面での)「三角形の内角の和は180度である」と言う言葉は恒常(実体・自性)である、という概念に対しても、
龍樹さんは「いやそんな概念は無自性で無効だ」と言い放った???
返信する
「有」と「無」の絶対的関連性 (Unknown)
2018-11-16 03:07:13
以前のたかはしさん(あるいはZIPさん?)の見解では、
「有が有るから無が有る」「無が有るから有が有る」「有が無ければ無も無い」「無が無ければ有も無い」「有と言う実体と、無と言う実体がある」「しかしケツ論としては有と無は同じ事だ」・・・
みたいな相互依存性(相互従属性)を主張されていたと理解しておりますが、

今日突然、考えるに至った我流思考では、
「有」と「無」は相互依存関係(相互従属関係)にあるのではなくて、

「有」が(西洋哲学的)実体で、
「無」は「有で無い状態」を補完的に指し示す補語に過ぎない。

すなわち、「有」とは「存在(している)」という絶対的な事象を意味しており、
人がそれを知覚認識して
言葉(固有名詞による呼称)を与えた。

「無」とはその絶対的存在が
現時点、認識されていないという現象を指す言葉であるが、
「無」とは非存在を意図する言葉であるから、
単に「有」(=存在)ではない状態を意味する補語にすぎない。
かように「有」と「無」に相互依存関係が有る訳ではない・・・

わたしの言いたいことは、そんな感じでしょうか。
(言い回しが大変難しく、混乱を来たすかもしれませんが悪しからず願います。)
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-16 02:04:23
仏教解釈の東洋思考では「実体」とは絶対的な「不変不滅」をさすが、
西洋哲学では、不変不滅で無くても良いみたいですよね。
たとえば、「枯れ尾花」には枯れ尾花と呼ばれるべき属性すなわち実体(=言葉の恒常性)があるが、
眼の前に見える「枯れ尾花」と認識される物体は諸行無常で諸法無我である。
そんな感じではないでしょうか?

つまり、
枯れ尾花という概念は恒常(=実体)で、
枯れ尾花という物理的な物体は無常である。
・・・当然な事ながら・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 21:14:07
言葉は恒常って、実体視?
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Unknown (ZIP)
2018-11-15 20:41:04
言葉は無常ではなく恒常です。
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補足ですが (月のような者)
2018-11-15 18:23:17
無常でないものは涅槃だけです、と書いたけど、厳密には頭の中で捏造した架空の概念なども無常には当てはまらないかもしれませんね。
無常だけを認識してそれが人間の原動力になっているとも書いたけど「概念」も人間の原動力になっていることは事実ですね。
しかし概念も当然諸法無我に当てはまるので結局は「普遍的な本質」ではないですね。
ちなみに無常と違って無我は涅槃にも当てはまるわけですね。つまり涅槃は通常想像される天国みたいなものとは言い難いわけです。苦(苦と楽)の生存に対する本当の「楽」、生存とはなにかを初めて本当に知ることができる境地、余計なこと(生存や執着)が起きる以前の状態という感じでしょうか。そのことに安心している自分を見いだすことができると。まあそこには涅槃に歓喜したり不満をもらしたりする「自分」そのものが不在ということですね。
いずれにしても通常の現象に対して「無記」と言う必要はなくて「無常、無我、苦」と言えば事足りるわけですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 09:41:33
楽しく暮らしてチョンマゲぽん

返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 07:51:46
ははは、
今日一日楽しく暮らせまする
返信する
高橋ノコギリぎこぎこ案 (Unknown)
2018-11-15 06:48:37
リンゴを剥こうか!

ノコギリを使う?
ハナミを使う?
真理を使う?
それとも、、、、

アレ使う?


食べたら、、芯が残った😩

芯リ🍎は食べれんかった😩
返信する
カカア天下 VS 肝っ玉カカア (Unknown)
2018-11-15 06:36:00
 
>道具として使えると分かったということは、その道具はウンチクではないと判断した、つまり運用だと思ったということじゃないのだろうか。

もし、道具がウンチクだったら、その道具で解決できる思ったことは、実は間違い、ということにはならないのだろうか。

たとえウンチクな道具だったとしても、使えると実感できればそれでいいのだ、ということだろうか。

でも、それなら、それは錯覚と区別が付かない、ということにならないのだろうか。


こんなん出ました🚚💨
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 06:20:28
果たして、便所のチリ紙が真理として、ケツを拭けるだろうか?

道具として使っただけではなかろうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 04:05:06
おやじギャグのヘタな
タカハシちゃんの前世は
ヒョッとこオカンだったかも・・・
お母んか悪寒かお燗か?
お棺から枯れ尾花となって飛び出した。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 03:47:51
>南さんのことは、これに書かれていますね
『超越と実存』プロローグ

このブログにおいては、
南ジキサイムを
桂蓮リンゴノキ
に置き換えてもいい感じですね。
困っちゃいませんね‥と思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-15 03:45:30
以下、紹介したサイトから引用

私は、仏教に何らかの「真理」を見て、それを獲得するために修行しようと思ったわけではないからだ。

 もし「真理」が目的なら、この老師の一徹な生き方を支えるものが何か、それが仏教の「真理」かどうか、もう少し慎重に時間をかけて観察しただろう。あるいは、その「真理」の体現者と目される釈尊と道元禅師への、あの坐禅が表すような一途で純粋な思慕に、深く傾倒したかもしれない。

 だが、私は事情が違った。私には昔から、どうしても解決したい問題があった。そのための道具として、仏教を選択したのだ。釈尊や道元禅師の言動が「真理」かどうかではなく、敢えて言えば、使えるかどうか、だったのである。

 私には幼いころから引きずる問題がこれ以上なく明瞭に意識されていたから、道具としての適否は、いつでもどこでも、ほとんど一目瞭然、感覚的にわかったのだ。

(引用終わり)

道具として使えると分かったということは、その道具はインチキではないと判断した、つまり真理だと思ったということじゃないのだろうか。

もし、道具がインチキだったら、その道具で解決できる思ったことは、実は間違い、ということにはならないのだろうか。

たとえインチキな道具だったとしても、使えると実感できればそれでいいのだ、ということだろうか。

でも、それなら、それは錯覚と区別が付かない、ということにならないのだろうか。

とそんなことが私は気になりました。
返信する
おやじギャグの根拠 (Unknown)
2018-11-15 03:27:41
チコちゃんが教えて呉れた。
茂木ちゃんがもぎもぎ(モジモジ)言ってた。

オヤジは抑制機能のタガが外れて(=劣化して)
言葉の連想ゲームが止まらなくなる。
(なんやら落語節の南ちゃんを彷彿させる。)

ところで、
おかんギャグはない。
おかんがギャグすれば悪寒が襲ってお棺行きとなる。
おかんの言葉連想は現実的な此の世の対処法の案配へとむかう。おかんはより現実的で実践的だ。

ただし、だれかさんみたいに、
オトコおかんをのぞいてはだけどね!!
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-15 03:26:57
釈迦が死んでから、アーナンダが必死に修行して悟ったと伝えられているようですね。

その後の代々の後継者も悟った人とされているのではないでしょうか。本人がそう宣言したのかどうかは私は知らないのですが。

それから、出家した人で、私が求めていた涅槃は、実は枯れ尾花だった、と言って死んで行った人を私は知りません。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-15 03:07:43
南さんのことは、これに書かれてますね。

http://kangaeruhito.jp/articles/-/2364
返信する
R、あ~る。 (Unknown)
2018-11-15 03:05:51
人体クソ論は
念処経のキモ
クソに執着する奴ちゃァおらぬ

クソが無為常住の
よき匂いの涅槃に羽化する
うるわし~きものがたり。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 02:57:21
ははは、すごいオヤジギャグ!!
ケツ論のキミは5~60代のオヤジなるや?

それとも君はオトコみたいだと言われてた
ほんブログ主催者か?

とも
ないとも言えないのでR。
返信する
ケツ論 (Unknown)
2018-11-15 01:11:20
仏教は糞意識である!!


とも
ないとも言えないのでR。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 00:15:59
結論

仏教は美意識である!!
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-15 00:01:57
この世は全て幽霊の世界。
この世に枯れ尾花など存在しない。
返信する
仏教の本質? (Unknown)
2018-11-14 23:56:50
芸術的な絵画でも遠近法みたいな幾何学を用いた絵もあるが、
心象風景を描いた絵画の美は、
アルゴリズム(代数学的計算手法)では解析できない。言語論理学でも解析できない。
したがってAIさんには理解できない世界のことである。

非ユークリッド幾何学の超越系世界とか超越的数学世界(虚数とか、ゼロで割る世界、3次元以上の世界)。

>反則っぽいかもしれないですが、他に言いようがないようにおもいます・・・

要するに
仏教も多分に超越系に属していて、
無常無我無自性が分かりさえすれば
論理性・非論理性は関係ない(=すべての事象は仮設に過ぎない)。

もうそんな事グタグタ考えずに
タダタダ涅槃を目指せ。
頭だけで理屈を一生懸命考えている人は
出家と言えども、涅槃が遠くなるだけだ。

ただただ芸術的絵画の美に浸るべし。

返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 23:20:38
輪廻世界を絶対視すれば
涅槃は輪廻からの解脱、即ち非輪廻世界(不輪廻?)だから
同じく絶対視で、両者は対(対偶関係か?)
になっている。

つまり輪廻がなければ、涅槃と言う概念も無い(らしい)。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 23:10:02
対偶とは逆と裏を合わせたもので、
Aではない=>Bではない・・・・・X
Bではない=>Aではない・・・・・〇

となるかと。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 23:08:14
>涅槃に絶対の価値を見出せない、あるいは、全て捨てて出家する覚悟が出来ない在家は

恐らく南師は、それにはあまり価値を見いだされていないように思うのですが、出家されましたよね。

ブッダ以来、誰か他に涅槃に入られた出家者がいる、という説を聞かれたことはありますか?

いくら絶対視しても、涅槃という「枯れ尾花」、ということも有り得るかもしれませんね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 20:50:54
不思量底は、気絶か昏睡状態のようなもので、非思量底は、そうではなく、ブッダの教えから悟りと言われる間、でのことらしいですね。

非思量も、誰とも確認できることではありませんので、真の意味も、「恐らく」とまでしか言えませんが。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 18:24:45
涅槃に絶対の価値を見出せない、あるいは、全て捨てて出家する覚悟が出来ない在家は、自分に出来る範囲で無理なく、がいいですよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 18:19:59
涅槃を絶対視するから、全てを捨てて出家して禁欲の修行をするのではないでしょうか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 18:17:14
非思量が真に意味するところを知っているのでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 17:59:23
>涅槃は、虚妄なものではないから、それを求めよ

虚妄なものではない、とするのは絶対視にはならないのでしょうかね。

何だかわからない涅槃を求めよ、言われましても、間違えそうではありますかね。

故に、それは非思量に留めて、修行を実践していくしかないのかもしれませんね。
返信する
訂正 (桂蓮)
2018-11-14 17:32:15
上記の私のコメント訂正

逆・裏・対偶の概念
2つの命題 Aと Bから構成される命題「A ⇒ B」を基本の形として考えて、これを「正」とする。

逆とは、Aと Bを入れ換えたもので、「B⇒A」という形=〇
逆とは、Aと Bを入れ換えたもので、「A⇒B」という形=×
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-14 17:24:49
私にも答えの順番が回ってきたので、

逆とは、Aと Bを入れ換えたもので、「A⇒B」という形

裏とは、Aと Bを否定したもので、「Aではない⇒Bではない」という形

対偶は、逆と裏の両方を併せたもので、「Aではない⇒Bではない」
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 16:31:55
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

(スッタ・二パータ)

リアルであっても、無常なもの、過ぎ去るものは、虚妄なものだ、というのが仏教の捉え方ということだと思いますね。

だから、執着の価値が無いと。

そして、涅槃は、虚妄なものではないから、それを求めよ、ということなのでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 15:36:25
>何をもってリアルとするのかと。

リアルも、捉え方になるでしょうから、解釈次第なのですかね。

リアルであれ仮想であれ、現象のみで、何ひとつ掴み続けておくモノやコトは有りませんから、仏教的には、世間でリアルとすることを仮想とし、仮想とすることも仮想と見なし、つまりリアル批判でもあるのかもしれませんね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 15:13:03
実際に、リンゴというモノが手の平に有って無いと説くのは、仏教的に、無常を云わんとしてるとこですかね。

同じように、リンゴという概念が手の平に有っても、上記のモノの場合と同様になるでしょうかね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-14 14:25:09
>なんか反則っぽくないですか?


反則っぽいかもしれないですが、でも、他に言いようがないように思えますし。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 14:22:21
物質的な有無も、結局は、心による現象認識ですよね。

なお、茂木健一郎さんは、それを「仮想」と呼んだのではないでしょうか。

仮想とリアルの境目は、と考えていくと、面白いと思います。

何をもってリアルとするのかと。

見た目と触感が一致したらリアルなのか。

それをリアルと言い切れる根拠は何か。

映画マトリックスを連想しますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 14:20:20
『リンゴという物体が(手元に)に無い』とい事実を論理的に理解しようとする時に、
『リンゴと言う概念が有る』と切り返すのは、
コミュニケーションの仕方としては
なんか反則っぽくないですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 14:12:49
抽象的な概念の話では無くて、
物質的な有無の話と思っていましたが・・・、

なるほど
現実世界に存在しない
空論の話という事なのですかね
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 14:10:00
リンゴが無い、というのは、リンゴという概念が有るからこそ言えるのですよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 14:05:30
>では命題
「有の無い処には、無も無い」

の対偶を書いてみれば
「無が有る処には, 有が有る」
となりますよね。


いいんじゃないでしょうか。

無という概念がある時は、必ず、有という概念がありますよね。
返信する
訂正&補足 (Unknown)
2018-11-14 14:03:16
対偶が真ならも・・・>対偶が真ならば

補足、立教大学文学部名誉教授の横山紘一氏主宰の
「唯識塾」を思い出しました。

女子アナウンサーに向かって、横山氏、曰く、
「あなたの右の手のひらには何も無いが、
実はその手のひらにはリンゴが乗っているのだよ!」

女子アナウンサー、ただただ困惑(発狂寸前!)

返信する
命題「有の無い処には、無も無い」の対偶は。 (Unknown)
2018-11-14 13:48:59
ZIPさんが南ブログで、
論理学では、
【命題が真ならば対偶も真である。
対偶が真ならも命題も真である。】
を初めて教えてくれた事を思い出します(随分昔の事ですが・・・)

命題 A=B が真ならば、
対偶の not B=not Aは真である。

命題 not B=not A が真ならば、
対偶 A=Bも真である。

では命題
「有の無い処には、無も無い」

の対偶を書いてみれば
「無が有る処には, 有が有る」
となりますよね。

この対偶が論理的に正しくなければ、
この命題は正しくない事となりますね。

たかはしさん・ZIPさんどう思われますか?
アルゴリズムにご興味がおありの桂蓮さんはどう思われますか?

返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-14 11:42:55
100円は自分の外側のことですが、
有るということも
無いということも
自分の内側で起きていることなわけです。
そのことに対して、待った、をかけるわけです
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 11:04:01
>いずれにおいても前項がそれ自体で後項を含んだ形で成立する概念であるということです。
反対語のようではあるが、反対ではないわけです
明らかに従属関係です。


なるほど、従属関係と言えると思いますね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 10:59:28
「坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れすなわち坐禅の要術なり。」(普勧坐禅儀)


不思量底の思量、すなわち非思量。

それも、ちょっと見には詭弁に思えないですか。

仏教は、どうやらそれが肝だと思えますね。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-14 10:50:16
有ー無、自ー他
いずれにおいても前項がそれ自体で後項を含んだ形で成立する概念であるということです。
反対語のようではあるが、反対ではないわけです
明らかに従属関係です。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-14 10:50:16
有ー無、自ー他
いずれにおいても前項がそれ自体で後項を含んだ形で成立する概念であるということです。
反対語のようではあるが、反対ではないわけです
明らかに従属関係です。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 10:44:06
詭弁に思えるということには、こんな言葉もあります。


874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。けだし、ひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」

(スッタ・二パータ)

さあ、あなたはそれを、バカバカしいと思いますか、ということが仏教者には問われることになると思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 10:37:26
100円という通貨の無い国(100円という概念が無い)には、100円が無い、という想いは生じない。

100円という通貨が有る(100円という概念が有る)からこそ、100円が無い、という想いが生じる。

有と無は、相対概念で、有という概念の無いところには、無という概念も無い。

アートマンが有る、という概念(見解)を完全に捨て去ることができたら、そこには、アートマンが無い、という想い(見解)も無い。

アートマンが有る、という見解を捨て切れない(執着を捨て切れない)人には、アートマンが無いという見解も意識される(それも執着)。

それは、完全に想いから離れる、想いからの解脱というレベルの話ですから、通常の感覚だと詭弁に思えますよね。
返信する
たかはしさん (Unknown)
2018-11-14 10:13:41
>有の無いところには、無もない・・・

これが論理学上、正しいのか考察する必要はあるのではないでしょうか。
無と有が言語上の対になっているのは分かるけど、
なんか詭弁っぽいのではないかと思いますね。

「有が無いところには、無しかない」が正しい論理学な気がします。
「100円が有る人は100円が有る。
100円が無い人には、100円が無い」
ただそれだけの事で、
100円が有るとも言えず無いとも言えないって??
どゆことでしょう。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 05:57:29
龍樹は、無い、空だというのは、執着から脱するために仮に設けられたものだ、というようなことを中論で言っていますね。

それから、「有」の無いところには、「無」も無い。無は、有が変化したものだから、とも言っています。

つまりは、有を、無いで消してしまえば、無も無くなる、ということでしょう。

有るとも言えず、無いとも言えない、という釈迦の微妙な立ち位置を、龍樹はそう解釈したのだと思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 05:43:06
そこで、月のような者さんの次の見解が重要になりますね。

>無常が成立している背景に「なにか」があるかもしれない可能性を否定する根拠はないから「無記」だと言っても、その「なにか」が姿を現した時点でそれも無常になってしまいますし、出てこなければ我々に影響を与えないだけです。


結局、そういうことだと私も思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-14 05:37:19
紹介されたサイトから引用

>別に「わたし」がいるわけじゃないんです。この感覚器官六つの働き方によって、虹みたいな感じで、蜃気楼のような感じで、見えてくるんですね、「自分」が。


テーラワーダ が口を酸っぱくして無我を説くのに対して、中村元氏のような東大系では、歴史上の釈迦は、無我とは言ってない、非我である、と主張するのですよね。


上記サイトでスマナサーラ長老も、

>この眼は変化するもので無常です。

>この眼はわたしではありません。

>因縁によって変化するので、わたしのものではありません。

>わたしのものにならない眼に執着しないように励みます。
(以下、六根、十二処、十八界に同じ)

と言っているように、それは我に非ず、と言ってるだけなのだと。

そして、釈迦は、滅すべき自己と、護るべき自己の、二つの自己について説いていて、その護るべき自己の正体については沈黙を守ったのだ、と中村氏は解釈します。


104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。

160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

(ダンマ ・パダ)


スマナサーラ長老は、中村氏は偉大な学者だったが、結局、仏教を分からずに終わった、と言います。

その解釈の違いは、釈迦の立ち位置の微妙さが生んだものだと思っています。

認識できるものは、どれも我ではない。

我は、どこにも存在していない、無い。

それを同じ意味とするか、微妙に意味が違うと見るか。

そういうことだと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 00:14:38
「四念処 法の観察」リンク有難うございました。
大変参考になりました。

要するに

『わたしガァ~、わたしガァ~!!』とやたら自己主張したがるが、
ワタシなんて元々、どこにも存在しないのだ!!
そんな幽霊みたいな『自分』(自己・自我)を消す事が仏道修行なのだ・・ですよね。
返信する
「四念処 法の観察」 (Unknown)
2018-11-13 23:17:19
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/05/18/040000
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-13 16:17:41
>なぜ、院代としてコメントしないかが分かったような感じです。

時間の制約もあるでしょうし、逐一対応はできないでしょうね。というより、元々コメントで交流する気がないスタンスではないでしょうかね。

見たところ、どうしても口出しせずにはいられない内容だけ、対応されている感じがしますがね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-13 15:11:11
私のブログの宣伝看板につきましては
いつか、記事で取り上げます。
今は、語る段階で無くて。

栄久さまの論法が人際眼立つのは
中立的な、
車でいえばニュートラル位置におられるからでしょうね。

栄久さんの言いたいことは
ある人がAだと
BがそのAをCだと言う。
そのCはAでもBでもない
箱の中のABCなだけだ、みたいなことでしょうかね。

箱の中にいるA,B,Cには
自分らが箱の中にいることが分かりません。
箱の外からでしか中を見ることができないですからね。
箱の外の者が
出てこいと誘っても
中の者は外に出ることが煩わしいだけかも
外なんて、中と大して変わらないと思うかもですね。

広い視野を持つことがいくらいいと説得しても
盲人には関係の無い誘いですし。

誰宛てでもなく全体的な印象を書いてみました。

ここは雨です。



返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-13 14:54:06
今回のコメントをじっくり読んでて
分かってきたのは

恐山ブログの院代様が
なぜ、院代としてコメントしないかが
分かったような感じです。

どう分かったか、説明はしたくないので、
もし、知りたい方がいれば以下を参考

①悪人も善人も慈愛の対象
②賛成、反対も同じコインの表裏

それらの二つが考えの根本にあると
Aの悪さを指摘するためにBを持ち要らない。
Aの未熟な考えをBで教育しない。
ことになるだろうから
敢えて、コメントしないでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-13 14:23:45
藤田一照氏の著書は
「禅僧が教える考えすぎない生き方」でしたね。

ですが、五蓋を考えながら坐禅するなら、それは考え過ぎることになるのでは?と思っちゃいますよね。

同時に
「仏教サイコロジー (魂を癒すセラピューティックなアプローチ)」という本も出版されているようで、なかなか考え過ぎている生き方のような?

タイトルで釣るようなことをされているのでしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-13 13:18:48
>「仏教・非仏教」論をどの時間軸から成立させるかは考察の余地はありそうですよね。

それは時代の問題でもありますかね。
ですが、やはり認識の問題になるのではないですかね。
返信する
五蓋 (Unknown)
2018-11-13 11:57:30
五蓋については丁度、藤田一照氏の最新本を書店で手にし、少し立ち読みしたところでした。
坐禅の時に、五蓋に注意するような内容でしたから、アメリカでの修行が長い藤田流ならではの瞑想法でしょうかね。
私には南流がシックリくる感じでしたから、指導の相性もあるのでしょうね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-13 10:47:54
彼岸に上陸する時の筏のように、最後には全て捨て去られる。

全て捨て去った後に何が残るのか。

それはもはや論議できない。全て捨てているのだから。

なんと合理的なことだろうか、と思います。
返信する
補足 (Unknown)
2018-11-13 10:28:37
まあ
いずれにしても
その他の超越系(10の質問)にしても、
無記ということは、
「超越系を一義的に排除した」なんていう事ではないという意味にもなりますよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-13 10:24:33
涅槃は無為法。
無為とは常住で不生不滅の状態のモノ。
釈迦時代ではそう考えられていた様ですよね。

当然釈迦もそんな気分で涅槃という言葉を言っていたのでしょうから
現代人からみれば超越論で在るし・・・

しかし当時では、当然の既成事実(概念、自然現象)と受け取っていたのだという解釈も成り立つし、
「仏教・非仏教」論をどの時間軸から成立させるかは考察の余地はありそうですよね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-13 09:44:10
>無常でないものは涅槃だけです。


97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。

(ダンマ ・パダ)


涅槃とは、作られざるものとは、何か。

釈迦は、超越的なものを一切排除した、とは言い切れないのではないか。

仏教は、なんとも微妙なバランスの上に成り立っている。

そう思います。
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Unknown (桂蓮)
2018-11-13 09:39:40
私宛の質問みたいな、異議みたいなコメントが結構あがりましたね。

今日は朝から半エーかの落ち葉の掃除をしてきたので
筋肉痛がきついです。
疲れで読むのに目がちらちらしてますね。
焦点も合わなくなって、
疲れが取れたら応答参ります。

また、続編を最終チェックしています。
そちらは朝でしょうが、
ここは月曜の7時35分の夜です。
あと少しで続編投稿します。

コメント対応は後程。
ざーと見た感じでは一部を除いて
読んで愉快な感じでは無さそうな....
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補足(新命題) (Unknown)
2018-11-13 09:26:17
しかしながら、
これは釈迦の発見したニルヴァーナであって、

南和尚さんによると、
2015年に茂木健一郎さんが
「快楽系のニルヴァーナ」を開発したらしい。

どなたか「念処経」ばりの
茂木ニルヴァーナの修行法を解説して下されませ。
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【正論】念処経「四念処修行」こそが五蓋を断つ道 (Unknown)
2018-11-13 09:15:57
五蓋とは、
①欲貪(欲とむさぼり)+憂い(=心の苦しみ=②怒り・③疑い・④沈鬱と眠気・⑤浮つきと後悔)の事。

五蓋を離れた(捨断した)ことによる遠離からの喜びと楽が生じる…が釈迦の【観】瞑想の方法論。

苦受から不苦に転化した事に依る喜と楽なのである。

だから五蓋の滅は
「寂止の瞑想(サマータ瞑想)によって、
心の働きを静めて得られるような果報ではないのである。

何故なら、座禅を組んで、無我な気分になってエクスタシーを感じるのは、
一時的現象に過ぎ無いから、
その後再び五蓋が舞い戻って来る。
斯くして、欲貪病と憂い病が消えて無くなる事は無い。

釈迦の言う「五蓋の滅失(完全消去)」の為には、
和井恵さんの解説する「念処経」での四念処修行が必須なのだ。
(・・・という正論が成り立つ)。

興味のある方は11-12,15:54:07のコメでリンクされた和井恵さんの記事をお読みくださいませ。
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Unknown (月のような者)
2018-11-13 07:54:19
無常は無常です。
無常も「無常」だから無常であり続ける保証はない、という話にはなりません。
「無記」とも違います。
無常が成立している背景に「なにか」があるかもしれない可能性を否定する根拠はないから「無記」だと言っても、その「なにか」が姿を現した時点でそれも無常になってしまいますし、出てこなければ我々に影響を与えないだけです。
我々は無常の中で完結して生きています。我々は無常なものだけを認識し原動力にしています。
無常でないものは涅槃だけです。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 06:53:06
南さんの坐禅は、聴観なのかな、と思います。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 06:45:27
禅宗皆がそう言ってるわけでも、決まりがあるわけでもないようですから、厄介なところではありますね。

因みに道元禅師は、禅宗を否定されてますよね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-13 06:39:08
スマナサーラ長老は、スッタ・二パータは難しくて私にも分からない部分がある、とも言っていますね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-13 06:37:28
悟るために坐るのではない。ただ坐る。

禅宗がそう言うのも、無執着ということの言い換えだと思います。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 06:36:38
S長老は立松氏だったかの対談本で、スッタ・二パータを教えてほしいと言われることあるが、難し過ぎて教えられない、というようなことを書かれていましたね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-13 06:35:56
執着が無ければ、怖いものも無いでしょうね。

恐怖の原因も執着でしょうね。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 06:26:05
釈迦は、とても人が堪えられそうにない事を、堪えてきた堪えられた人だったのでしょうね。

つまり「堪える」という事自体も克服していた、怖いもの知らずの状態だったのでしょうね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-13 06:20:18
194 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。

195 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、

196 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。

197 またその九つの孔からはねつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、

198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。

199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。

200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

201 犬や野狐や狼やは虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む。

202 この世において知慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する。なんとなれば、かれはあるがままに見るからである。

203 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。

204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

(スッタ・二パータ)
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Unknown (蛙のZ)
2018-11-13 06:15:36
蛙の歌が~聞こえてくるよ~
グワッグワッグワッグワッ

ケロケロケロケロ
グワッグワッグワッ~


聞こえた?
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Unknown (たかはし)
2018-11-13 06:12:07
 (アングッタラ・ニカーヤ、III,38、中村元訳)

 わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった、

--愚かな凡夫は、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。

じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。

私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった。

(以下、病、死について同文。)

(引用終わり)


そんなことで、「青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった。」ということになってしまう気質の持ち主、それが釈迦だったということだと思います。

それで、その問題を完全に解決できる悟りという伝承の実現しか眼中に無くなった、ということでしょう。

そして、悟りとは、無執着であるという伝承があったから、それを実現するための方策を模索したと。

自分への執着を捨てるためには、死体の観察も必要だったということなのでしょうね。

なお、釈迦の弟子になった人が、サーリプッタから死体の観察を指示されて、それがどうしても耐えられなくて、出家を辞めようと考えていた時に、釈迦が、道端の花を手折って渡して、これを観察しなさい、と言ったという経典があるとスマナサーラ長老が言ったことがあります。

綺麗な花が、だんだんと枯れていくのを見て、無常を知る、執着することの意味の無さを知る、ということのようです。

禅宗で取り沙汰される拈華微笑が書かれている経典は、後世の創作と言われるようですが、それが原型だと私は思っています。
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Unknown (Z)
2018-11-13 06:00:37
思推の深みを共有しない人は、表された言葉を読むしかないのです。概念そのもの、考えそれ自体の難しさを、ガヤガヤ合唱している人たちにわからせるのは、なんとも、馬の耳に念仏かも
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 05:58:00
>釈迦は6年間の荒行では、沙門として、
死体が野ざらしにされていた林の中に住んでいて、
その死体を包んでいた巻布を自らの衣服(袈裟)として用い、
ゴロンと転がされていた死体が腐乱し骨となって行くところを真近に、じっくりと6年間観察し、
その辺に転がっていた頭骸骨を食器として使っていた・・・
だから自分の肉体も、不浄の「うんち」と同じだと観じていた。


苦を知り、無明を知り、無常、無我、縁起と、実体のないウンチと同じも無記にした、ということですかね。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 05:46:48
八正道でも、最後の正定を重要視しがちですが、最初の正見が何より重要という見方もありますしね。まあ順番が逆でも中身が肝心なのでしょうね。

www.j-theravada.net/kogi/kogi3.html
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疑問 (Unknown)
2018-11-13 05:41:42
>心理学に基づく坐禅の研究

なぜ「心理学に基づく坐禅」になっているのでしょうね。
仏教外部者であるなら、「心理学から見た坐禅」になるのではないでしょうかね。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 05:22:21
釈迦は、「ほんとう」より「うそっぱち」に、敏感であったように思いますね。
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念処経 (Unknown)
2018-11-13 05:21:26
和井恵さんがどこまで正確に念処経を理解しておられるかはS長老との比較研究が参考になるのかもしれませんが・・・
私が和井恵さんの解説から、成程そうだったのかと思った事は、

釈迦は6年間の荒行では、沙門として、
死体が野ざらしにされていた林の中に住んでいて、
その死体を包んでいた巻布を自らの衣服(袈裟)として用い、
ゴロンと転がされていた死体が腐乱し骨となって行くところを真近に、じっくりと6年間観察し、
その辺に転がっていた頭骸骨を食器として使っていた・・・
だから自分の肉体も、不浄の「うんち」と同じだと観じていた。

そんな『観』から出ている思考は
桂蓮さんのいう禅とは全く違う心理状態での思考であり、桂蓮さんが習った心理学では「異常心理学」になるのかもしれないと思いました。

しかし釈迦にしてみれば、
そこを潜り抜けないと
煩悩・執着の滅失などは不可能だと言う訳ですよね・・・困っちゃいますよねえ~、と思います。
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逆に (Unknown)
2018-11-13 05:18:12
善人に仏教は語れない、かも⁉

残念‼
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クソガキですから (Unknown)
2018-11-13 05:16:05
ハエも集る。クソなだけに。

残念‼
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 05:06:35
ここにも、ネットに群がる低劣な感じな人が、憎悪や嫉妬、揶揄や中傷、人間の感情の低劣な部分ばかりが、まるで汚物を好んで群がる蝿の群のように、そこに集まってくる。互いの顔が見えないがゆえに悪意が増殖するとは、情けない、モラルに欠け、そんな人が仏教を語り合うことができるのだろうか
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そうですか? (Unknown)
2018-11-13 04:27:20
>彼らは創り話をしていると思ってはいなくて、

思いっきし、作り話をしているかと思ってしまう、クソガキでしたけどね。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 04:24:08
そうそう。日常で、院代の語り口に似る時あって、あらら?と困っちゃいますよね。

そう言うわけです、はい。
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童話や昔話 (榮久)
2018-11-13 04:21:16
子どものときは、
童話や昔話の世界は全然矛盾がない。
例えば鬼がいたという話でも、
あれは、彼らは創り話をしていると思ってはいなくて、
まったくその通りにそう思っているようだ。
たぶん、自分達の知らないものに対する畏怖の気持が、
そういうものを語らせるのだろう。

子供から少年、青年、へ移りゆくときも、
それぞれの時期のそれぞれに感じた「ほんとう」への
つきあたり方をする。
それは、ヘーゲルでもいいし、ランボーでも、道元でも、
ドストエフスキーでもいい。

ある時期の「ほんとう」との出会いはその人の内面をつくる。
また、好きな本を書いてもらうと多種多様な書物の名がでてくるごとく、
「ほんとう」は驚くほどに多様な深い底を持っている。

人が童話の世界から抜け出して、
青年期を経て、年月を経てもなお難しいのは、
人々の内面的な判断は、自分でも自分を動かせないほど、
困った「ほんとう」にぎっちりとつかまえられている。

その困った「ほんとう」を初めに先取りして言ったのは、
ヘラクレイトス。
生と死、といった基本問題から始めて、
このものが転化して、かのものになり、
かのものが転化して、このものとなる、
と万物を変転の相の下に見尽くしてしまった。

「存在するのでもあり、存在しないのでもある」・・・
・・・「あるとも無いとも何とも言えない」と。

曖昧のようで、非常に正確だ、
そしてそれは、そうとしか言いようがないのであろう。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 04:19:26
高橋くんは、高橋くんですよ。でないと、あんなにコテハンに拘らない筈。

そう思います。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 04:17:00
私(無名)は無名の私です。
たかはしさんを仏教の先輩(先達)として・・
尊敬する部分については尊敬しているのです。

そういう時に、
尊敬する人の言い方に似て来る事は当然と言えば当然でしょう。
簡単に誤魔化されるアナタの方が悪いです。
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朝寝坊は夜も寝坊 (Unknown)
2018-11-13 04:15:09
>桂蓮さん自身の言葉でも、「このブログを仏教を実践している方(⁼仏教内部者)のコメ場としたい」とおっしゃっているのだから、

そうそう。はい論破。
寝言は一昨日いって下さいましな。
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Unknown (たかはし)
2018-11-13 03:58:50
私の語り口に似てる人がいるとは感じています。でも、それは私(たかはし)ではないですよ。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-13 03:56:51
私は、誓って、たかはし、以外ではコメントしていません。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-13 03:44:59
たかはしさん、自作自演でのコメントは控えるましょうね、時系列で読めば誰なのか想像できます。語り口のくせなども。
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Unknown (たかはし)
2018-11-13 03:44:47
>スマナサーラ長老から学んだ念処経と、和井恵さんの和訳(現代語訳)と和井さんの解釈とが同一のものなのか、異なる解釈をしているか


和井さんの解釈から引用

上座部仏教や大乗仏教は、共に、その教義の基礎の多くを「アビダルマ(論書)」に置いています。

そして両方共に、「止観」という瞑想を説明する場合は、最初に「寂止」を修することで煩悩の働きを静め、 心をクリアー(水が澄んだような状態)にしてから、諸法を如実に観察する「正観」を行うことを説いています。

その結果、上座部仏教では、自然界の「真実相(無常・苦・無我)」を証得して、遠離 ・離貪・解脱・涅槃に至り、

大乗仏教では、「諸法実相(縁起=空)」を悟ることで、諸々の煩悩を滅することが出来るとされているのです。

しかし、経典の説明は、その順序が、まったく「逆」なのです。

まず、最初に「寂止」ではなく、「四念処」という「正観(有尋有伺定・無尋有伺定)」の修行によって、 「五蓋」を滅して「有尋有伺定」の究竟(最高の状態)である「第一禅定」に到達することが説かれているのです。

(引用終わり)

経典においてはテーラワーダの説明と順序が逆ということを考えたことはありませんでした。

念処経があまりに膨大で、私はその一部にしか取り組んでいないので、経典全体を見るという視点に欠けていたと思います。

スマナサーラ長老は、サマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想へというのが基本だが、最初からヴィパッサナー瞑想だけをやっても、禅定状態が作られて、その精神集中の状態でヴィパッサナー瞑想を続けて行くと、その果てに悟りが訪れる、というような説明をします。

だから、和井さんの解釈に反していないとも言えると思います。

今、中部経典の念処経をざっと見ていますが、そこには、和井さんの解釈に直結するような記載は見当たりません。

長部経典の大念処経にその記載があるのかも知れませんね。それは私の手元にありません。

スマナサーラ長老による大念処経の解説のCD-Rがありますので、これを機会に久しぶりに聴き直してみます。

すごく長時間の解説なので、かなり時間がかかると思います。
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 03:17:34
桂蓮さんには
何故、単なる精神修養の「マインドフルネス瞑想」では無いのですか?
という疑問が出たりしていましたよね。

でもそのたびに桂蓮さんは、
いや、自分は道元禅で行くのだ、と返答しておられたと思いますね。
何故なら、私は道元さまと縁で結ばれているのだから・・という事なのでしょう。

だからアメリカにおける自分の使命は何かをハッキリ把握しておられる訳でしょう。
まさに「仏教内部者」そのももの姿ですね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-13 03:01:25
桂蓮さんも、なぜ、坐禅だったのか。心理学だけでは駄目だったのはなぜか。

それは、仏教というテキスト由来の何かに惹かれたからじゃないでしょうか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-13 02:55:56
>テキストに頼らず出来るだけ自分の頭で考える、


南さんは、なぜ、仏教・私流であって、単なる私流じゃないのだろうか。

なぜ、仏教なんだろうか。

それは、仏教というテキストに頼っているからではないだろうか。

そう考えたことはないのでしょうか。
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訂正 (Unknown)
2018-11-13 02:54:44
歓迎されなていない X
歓迎されていない  〇
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Unknown (Unknown)
2018-11-13 02:51:21
桂蓮さんが、
アメリカで(翻訳を通して)南流仏教を紹介したい。
今は夢レベルでも3年後を目途に、道元禅の禅堂をアメリカで開いて自分が塾長になるのだ・・・(と計画しておられる)。
なにせ、桂蓮さんは、このブログの自己紹介で、
自分と道元さんは縁で繋がれている・・・
と公表さえなさっている。

それ故に、アメリカで道元流・南流仏教を広める事を(アメリカに於ける)自分の使命であると感じている(=定義上、桂蓮さんは仏教内部者です)。

そういう桂蓮さんが開いているこのブログで
仏教を論じる事は合理的です。
桂蓮さん自身の言葉でも、「このブログを仏教を実践している方(⁼仏教内部者)のコメ場としたい」とおっしゃっているのだから、
仏教外部者は特には歓迎されなていない筈という事でしょう。
朝寝坊さんは仏教外部者なのでしょうか、仏教内部者なのでしょうか? 
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Unknown (朝寝坊)
2018-11-13 02:27:36
心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く>

ブログタイトルにあるように。信仰とか宗教とかの信者が語り合い慰め合うのは個別
たかはしさんのブログなり院代のブログで発散た方が主旨に合うよう思う。

私は道元の考え方や視点の在り方が好きで信仰しているわけでもありませんし信者でもありません。仏教の研究をしているつもりもなく、念仏を唱える事もありません。テキストに頼らず出来るだけ自分の頭で考える、という院代や栄久さんのコメントにひかれる追っかけかもしれませんので勉強不足で浅智恵であることに間違いありません。
引用やURLの安易な貼り付けを嫌う理由はここいらにあります。これ以上の不毛な論争をすることはのぞみません、あしからず。
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ご苦労様です (Unknown)
2018-11-13 02:10:07
朝寝坊さんって、もしかしたら
過って優秀な企業戦士で、かなり純情家でもあり、確かに従順温厚な性格であったが・・

上司の命令にタダタダ「イエスサー」で服従する事を強制されていた。「お前は自分でなんか考えるな」と強要されていた。
で、言われる通りやって来た優等生であった。

其の挙句が、
上司のミスを押し付けられて、組織から廃棄されてしまった。
そのトロウマがあまりに激しくて、もはや誰の言う事も信じられなくなった。

だから、
ただただ自分が、自分だけで考えて、自分の意見で行動しなければ、
と、言う強迫観念に縛り付けられてしまった・・・

だから他人様から指図を受ける事を恐れて、
自ら職を求める事を回避して、日々、朝寝坊。。。そういう事なのでしょうか??
返信する
訂正 (Unknown)
2018-11-13 01:44:13
何物でのない訳です・・・・>何物でもない訳です。
返信する
補足 (Unknown)
2018-11-13 01:41:51
(素人は素人なりに)自分の意見を先に述べるのがマナーだとか言う人もいるようなので、私の考え方を述べれば、

スマナサーラ長老なり和井恵さんなり、たかはしさんなりは、
わたしよりズットと先を行く、仏教の先輩なので、
その先達の考え方を知りたいから、お聞きしている訳です。
それを伺ったあとで、先達の言葉を参考にしながら、自分の行く道(考え方)を組み立てる、
というのは極めて合理的であると思っています。

分かりやすい例で言えば、
ミシュラン3つ星のレストランに修業に行ってる弟子は師匠の言葉(命令)に絶対服従であり、
素人に等しい新米弟子が、自分がァ~、自分がァ~とほざいたら、たちまち愚か者扱いされて、
店から破門・放逐される。

そんなふうに
確実にプロとアマとは実力の差があるわけですね。
素人の雄弁は害毒流す以外の何物でのない訳です。
返信する
たかはしさん (Unknown)
2018-11-13 01:19:29
たかはしさんがスマナサーラ長老から学んだ念処経と、
このブログでリンク(11-12,15:54:07)された和井恵さんの和訳(現代語訳)と和井さんの解釈とが

同一のものなのか、異なる解釈をしているかを
知りたいです。(もし差が有るとすれば、たかはしさんはどちらの解釈に共感するのか?)
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-13 01:07:36
自分がァ~、自分がァ~(=自分が一番、自分の考えが一番、自分の言う事が一番!!)という自信過剰で横柄で、自分に対する盲目的過信者が、
他者の引用を蔑み、引用・リンクで示された偉人の言葉から学ぶことを拒むのです。

それは正真正銘、何一つ生む事のない、
全くのエネルギーの無駄遣いだから
もうほっとくしかないでしょう。

又はblog管理人さんがコメを削除されるとか?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-12 22:51:28
>安易な引用、URL紹介は無意味です。

あなたとあなたと似たような人にとっては、ということでしょうね。

自分の頭、言葉や考えは、自分一人だけで積み上がったものではないでしょうに。

言葉は誰かに教わったからであり、発せられるから使えるものでもあるのでしょう。

引用やリンクの内容は、ほぼ仏教に関してですので、安易で無意味とするなら、仏教への冒涜になるのではないでしょうか。そもそも何の参考もなしに、仏教は語れないでしょう。先人いての仏教、ということをお忘れなのでしょうかね。日常会話で事足りる人が、仏教を語る方がおかしい、となりませんかね。

引用文を否定するほどに、あなたの言葉が後生受け継がれるほどに、至難で意味ある事なのでしょうかね。
返信する
Unknown (朝寝坊)
2018-11-12 18:20:06
ここでは、偉い人の偉い言葉の引用やURLの安易な貼り付けによる代弁もどきの詐称は偽ドラッグとして捨てさられます。自分の頭で考え自分の言葉を吟味しコメントする人に開かれているようです。あの引用魔のTさんでさえ控えるようになり、なんとか残留している現状を見ればわかるでしょう。安易な引用、URL紹介は無意味です。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-12 18:00:38
私は、スマナサーラ長老の法話でその経典の存在を知りました。スマナサーラ長老による経典解説のCD-Rも持っています。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-12 15:54:07
たかはしさん、念処経の話を持ち出して呉れて有難うございます。念処経って初めて知りました。
私がみつけたのは、和井恵さんの解説です。
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/23.html
です。なんとなんとすざましい修行法(瞑想法)が語られていてかなりショックでした(速読でしたが、あとで、もっとじっくり読みこなしたいと思っています)。
たかはしさんもこのサイトをご覧になっておられたのでしょうか。

桂蓮様、
知識中毒末期患者の桂蓮様が此れを観られたら、
そこに真実性を発見して恍惚感に見舞われるのか、

それとも、不真実性を嗅ぎ取って、嫌悪感に見舞われるのか?
桂蓮様の俊敏な直感(嗅覚)で、
この念処経をどう読み取るのか、ご感想をお知らせくださいますれば幸いです。
返信する
恍惚感 (桂蓮)
2018-11-12 14:47:35
恍惚感....

私は知識に対して中毒末期患者です。
真面目に、

知識は私にとって
ドラッグです、はっきりいいますが、
なので、どの知識が純度が高いか、そうでないか、
偽物か、混じり系かなど
体の反応で分かるのです。

純度の限りなく100%に近い知識だと

はい、恍惚感あります。

その他はドラッグが覚めた途端
自己嫌悪に落ちますよね。
何で私はそれを吸ってしまったのか、
馬鹿だみたいな。

掃き掃除の跡は
清涼感ですけね。

実は私、当の昔潔癖症でカウンセリングを受けるはめになったことがあります。
洗いすぎて、それが免疫機能を壊し
アレルギー反応に発展して
今もは数えられないアレルギーを持っている訳です。

清涼感を求めるのが高じて
潔癖症になってたという皮肉な経歴ですがね。

返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-12 14:36:42
そおーでしたね。
厳密に見たら、組織のシステム構造には
人間の行為が大前提として
プログラミングされてますよね。
今、はっと思いました。

だから宗教団体は
その行為を操るわけかあ....


ブログのコメントもシステムの一環だといえば、
開閉の行為によって
システムを操作することになり
構造として機能に欠損を生じる、
そんなことです?ZIPさん?
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-12 14:30:55
>Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school

それアインシュタインが言ってましたね。
参った、栄久さんは私の急所がわかるのかな。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-12 10:22:56
>合理性はあくまでも行為を正当化することであって、人の存在そのものを正当化するわけではありません。


人の存在そのもの、その正体の解明と、苦しみの滅尽は、イコールではない。

その正体を知らなくても、苦しみの滅尽は可能である。

それが釈迦の手法の独創的なところだと思っています。

あるいは、悟ったら、その正体が分かる、ということで、それは事前に知るべきことではない、と解釈する人もいるようですが。

まあ、どっちでもいいでしょうね。

悟ったら、その正体が分からなくても、それは苦しみにならないのでしょうから。
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思い出した言葉に (榮久)
2018-11-12 10:15:20
Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school

先程の補足になればと
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Unknown (ZIP)
2018-11-12 10:13:43
合理性はあくまでも行為を正当化することであって、人の存在そのものを正当化するわけではありません。
宗教にせよ組織にせよ、およそシステムと呼ばれるものは、その要素に人間を含まないわけです。
含むのは行為だけです。
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Unknown (たかはし)
2018-11-12 09:45:54
そんな悟りを唯一の価値と認めて全てを捨てて出家する、なんてことのできない我々は、まあ、ほどほどで仕方ないですよね。

小欲知足ですね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-12 09:40:17
その恍惚感に執着すると、最終的に修行は失敗に終わる、とされるようです。

それに執着することなく、それを突き抜けたところに涅槃寂静がある、ということなのでしょう。

では、どうやったら、それが可能なのか。

それが釈迦が見つけた修行法、ビパッサナー瞑想である、とテーラワーダ では説明するようです。

経典においては、念処経がそれです。

それを読むと、なんとなくのイメージが湧きつつも、これで何でそれが可能になるのか、という疑問も残ります。

その疑問の答えは実践にしかない。

だから、最初から、拭き掃除に専念するだけでいい、ということにもなる。

そう思います。

なお、経典には、心の解脱、智慧の解脱、という言葉が現れますね。

心の解脱とは、煩悩からの解脱。

智慧の解脱とは、無明からの解脱。

そんな説明がされるようですが、その真に意味するところも、実践でしか分からない、ということなのでしょうね。
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Unknown (Unknown)
2018-11-12 08:44:04
まあしかしながら、
南流仏教【論】によると、
「ただただ坐禅」で得る事とは、
自意識の解体が実体験できるという事、
即ち、変性意識の体験のみと、
あくまでも「余り」を出しておられる訳ですが・・

そうなると、「拭き掃除」を無心で遣ってると、
何やら妙な気分になっちゃうって事ですかね。
(=究極のエクスタシー)。

それで思い出したけど、
桂蓮さんの庭掃除・落ち葉掃きでも同じような恍惚感をお感じになったみたいでしたっけ?
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訂正 (Unknown)
2018-11-12 08:27:55
無心諸行・・・・>無心修行
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掃き掃除=仏道 (Unknown)
2018-11-12 08:25:42
タダタダ、ひたすら無心となって
坐禅、坐禅、坐禅、~~、~~に、
ただひたすら専念すれば
あら不思議、我が身が仏性に成っていた(例、達磨大師)。

これは拭き掃除でも同じ事(行住坐臥)。。。

誰だかが悟りに至る道は二つあると書いていたのを思い出しました。
無心諸行の道と、経典学習道に拠る道と・・
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Unknown (たかはし)
2018-11-12 08:09:21
釈迦の言葉を覚えられないと悩む人に対しては、雑巾で拭き掃除することに専念せよと教えた。

それに従った人は、その実践の中に答えを見つけたようです。

なぜ、掃除に専念することでいいのか、その理由をまず知りたいと考えるような私には、経典の言葉が、ありがたい、ということですね。
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ですよね、たかはしさん。 (Unknown)
2018-11-12 08:01:49
天才偉人の釈迦は、
凡人である自分の弟子にも分かる様にと
懇切丁寧に教え諭した。

決して、
自分自身で答えを出せと、
弟子を突っぱねた訳ではない・・・

それが、
たかはしさんがスッタニパータを学ぶ理由でもある・・・ですよね?
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Unknown (桂蓮)
2018-11-12 07:56:01
アランについてもう一度、補足
 
実は私、エニグマの暗号解読過程に
凄く興味がありました。
アランがどうやって暗号解読機会を発明したか、
それは素数にも関わっていたから
以下の記事を書きました。

https://blog.goo.ne.jp/hasunohana1966/e/50da34ce801ada6a13720a1a8d0cfe2e

上記の過去記事を書いてた時、
アランのエニグマを加えるかどうか
迷ってましたね。
また、素数に関わる記事(以下)でも入れ混ぜようかと思いましたが、

https://blog.goo.ne.jp/hasunohana1966/e/00c5a592d484c4372736392042392633

それにはさすがに入れ混ぜたいと思って
書いてて、だが最終段階で削除しましたね。

エニグマ、この単語は
私のブログで歩んできた道のりの中で
行きたかったけれど行けなかったから(書きたかった)
残念が残る、懐かしい単語ですね。

栄久さまの言葉や論法は
私に懐かしく、切なく
そんな懐古に懐かしむ気持ちにさせてくれますね。

エニグマ解読機と坐禅を結び付けたかったが
手に負えなかった自分のやるせなさまで
ついてきて思い出させるのですけどね。

いつか、アルゴリズムの勉強(独学中)が
捗ってある程度、掴めたら
その時に書けるかもしれないですけど。

兎に角、言及してくださって
久しぶりに書くことがワクワクできました。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-12 07:48:09
人生はエニグマ(謎)である。

古神道に自由を感じる・・・
という事は道元師の攻撃的排他性(??)は不自由を感じる・・・

とエニグマを解釈いたしました。
(桂蓮さんとは異なるかもしれませんが・・)。

一学徒の視点としては
栄久さんは解を与える事を意識的に避けているウナギ現象とも解釈されますが、

まあおおかた全ての禅問答ってそんな感じですよね。
(=直接的な解を示さずに、抽象的言及でノタリノタリ逃げまくる)

進学塾塾長としては生徒(学徒)にそういう接し方をされたのでしょうか。

スッタニパータでは自分で独自解を出せと教えたという事なのでしょうか?
なんか私には、
「~~する者には幸いが来る」みたいなハッキリした言葉を釈迦は言っている様に感じるのですが
どうなんでしょう、たかはしさん。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-12 07:30:31
『解読されたことをドイツ軍に知らせたくなかったようで
解読されたドイツ群の暗号を
無作為に偽造して阻止したようです』
上記の部分、分かりづらいでしょうから
もう一度、少し砕きます。

暗号が解読されたことがドイツ軍に知られたら
作戦を変更され
エニグマで命令を出すことができなくなる、
なので、アランは解読できたことを
敵に知られたくないから
攻撃されることが分かっていても
ドイツ軍からの攻撃を受けざるを得なかった、
ドイツ軍の作戦阻止は無作為な方法を用いた、
無作為法で作為的な阻止をする、
その戦略はアランのような天才でしか
できない戦術でもあった。
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Unknown (たかはし)
2018-11-12 07:26:26
ただし、学ぶことと、鵜呑みにすることは別ですね。

見聞きしたことを、自分で検討しないと、ですね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-12 07:23:04
>謙虚に且つ真剣に
先ずは学ぶ事から始めるべし!!


まさしく。

自分では分からないから、他者の言説を学ぶことになりますね。
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エニグマ (桂蓮)
2018-11-12 07:20:13
エニグマ

二次世界戦争時のドイツ軍の暗号機でしたね。
アラン チュアリングによって
エニグマは解読されましたが、

解読されたことをドイツ軍に知らせたくなかったようで
解読されたドイツ群の暗号を
無作為に偽造して阻止したようです。

「これは、何か」
エニグマ、解読できる方もいるでしょうね。

私の独断ですが、
私は栄久さまのエニグマを読める気がしますが....
返信する
新幕明け (桂蓮)
2018-11-12 07:07:35
庭の仕事、午後5時までしたのですが、
前の庭しか終えなくて
裏にはとサイド側はまた明日に先越しておきました。
明日はここ祭日なので、
朝から庭の落ち葉掃除を始めても
終わるのが日暮れ頃になるかなと。

今朝、出てたから
今やっと、積もったコメントを読みました。
即座に反応できる系ではないので
全体を掴めてからにしたいです。


コメントの性質が
出された事柄が
スケール広くなり、
人格と言うか個人の領域を超えられたようで
息しやすいですね。

コメント空間が広がった感じです。

今まで個人の性格パータンから
抜け出したかったのでしたが、
どうも今に至るまで、
個人のエゴを引きずる、引き出される感がありました。
プロセス的に捉えてきても
受け入れるのに限界があり、
息苦しさがあったのです。

ですが、
やっと、栄久さまからのの道開き
ZIPさんの開拓
朝寝坊さんの道案内
名無しさんの土地固め
たかはしさんの蝋燭灯りなど

狭かった部屋から
広い家に引っ越された解放感があります。

皆様によって
導かれた新しいく広い部屋は
どんな空間かまだ分かりませんが、

お互い、マナーを守って
尊重しながら
今、いるところがどこかを
確認していきたいと思います。

私も今までの先血走る傾向を改めて
沸騰する血騒ぎを修めたいと思う次第です。

新たな幕が上がったようで
見て下さっている観客のために
より高次元な精神世界を見せていけたらと
願っております。
これからもよろしくお願いします。

内容につきましては
仕事の疲れが取れる次第
かみしめて、消化できたら
その時に....

返信する
質問の答えは自身で問うことから (榮久)
2018-11-12 07:06:36
私は、ただのおっさんです。
教えることなど出来ませんので、悪しからず。

① 派閥などに興味はありません。
② わかる人はわかるし、わからない人はわからないだろうとしか。

A = A であるとはどういうことなのか。
A = A であるのは自明であると人は言う。
それを疑う、しかし問いは、その発生は、
まだ問いとはなっていない。
「これは、何か」という、問い、なお問い、さらに問い、
問いはいよいよ内に親密に、問いを問う問いと化したその問いが、
その問いが問いを問う、「これは、何か」。

エニグマ。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-12 07:00:06
聞くは一時の恥
聞かぬは一生の恥。

自分の思い込みを
雄弁・弁明するは末代の愚か者のワザ
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Unknown (Unknown)
2018-11-12 06:54:56
偉人の言葉とは時代・時の流れを生き抜いて
人々の心の奥底にしっかりと届いて来た言葉。
それなりの真実と生きる為の智慧を含む。

返して、凡人素人の私は
そういう言葉から、
今学んでいる学徒に過ぎぬ・・・

謙虚に且つ真剣に
先ずは学ぶ事から始めるべし!!

そういう事ですね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-12 06:34:56
>偉人の言葉には価値が有る。

>凡人無明の私の意見には
価値も無いし、根拠も無いし、意味もない・・・


これまた極端ですね。

心情的には、分かる気がしますが。
返信する
追加 (Unknown)
2018-11-12 05:46:57
偉人たる釈尊の言葉は、
只それだけで傾聴に値する。
偉人の言葉には価値が有る。

凡人無明の私の意見には
価値も無いし、根拠も無いし、意味もない・・・

それなのに、
自己主張する事自体にこそ、価値が有る、と思うのは
自分の思い込みに過ぎない大いなる幻想である。
そう思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-12 05:39:26
私は凡人素人であるが故に
哲学者様の専門家的考え方をお聞きしているのです。

朝寝坊さんは、南直哉師匠との面談でも、
「私はこう思うのだが、アンタはどうなんだ」と問い詰めるのですか?

素人と専門家は対等ではないのです。
その道の先達の意見は傾聴に値する。

素人凡人がどう思うかなどと
表明する必要はサラサラ無い・・・そういう事です。
分かって頂けますでしょうか。
返信する
Unknown (朝寝坊)
2018-11-12 05:23:51
わからない人 榮久18/11/10 04:19 >
ここに答えのヒントがあるように思います。 逆にあなたの立場はどこに、信仰する者、考える者、まず自分のことを言い
質問するというのがマナーでは。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-12 04:48:19
皆様のコメ、面白く拝見させて頂いております。
で、二点ほど栄久さんに質問です。

①.栄久さんは古神道派という事で、
道元派では無いという事なのでしょうか?

②.私は、「人は100%分かり合える事などはあり得ない」という思想を持っていますが、
栄久さんの場合は、「例え誰かが100%の本音を言っても、必ずそれを全面的(100%)に分かって、受け入れて呉れる人は、(かなり多く)存在する」
と思っておられるのでしょうか?
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八百万の神々 (榮久)
2018-11-12 03:55:52
古神道には教義もなければ教祖もない。
とくに何を言っているというわけでもない。
言っているのは、神々がここにいるという、
そのことだけである。
神々はここにいる。
あとは自分でやれ。

だから、神社の空間には、人じみたところがまるでない。
人の気配がないのである。
これに比べれば、寺院や仏閣などが、いかに人の観念やら情念やら、
教義やら権力やらによって構成されているものか、よくわかる。
これが、私などには、その意味でうっとうしい。

仏教の中でも、禅というあの変てこな超宗教には、
体質的に似たものを覚えるのだが、古神道は、ある意味で、
あれに近いのではなかろうか。
宗教的定義は知らないが、教祖も教義ももたないあのようなありようも、
やはり宗教と呼ぶのだろうか。
だとしたら、わが国の古神道とは、なんと自在でいい加減な宗教だろう。
そこが私などには、信頼できるのである。

合掌して顔を上げたそこには、何もないのである。
あるいは鏡があるのである。
もし合掌して顔を上げたそこに、人の形の御本尊などいらっしゃれば、
どうぞ我が身をお救い下さい。と人はそういう気持になる。
しかし、おすがりしようにも、何におすがりすればいいのかよくわからない、
そしたら人は、何もない空間のそこに、すべてがあることを認めるだろう。
すべてがあるということは、何でもいいということである。
救うも救われないも、もはやないではないか。

なぜ神社はかくも気持がいいのか。
清潔である。なんにもない。なにを教えるわけでもない。
実に気持がいいのである。
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Unknown (たかはし)
2018-11-12 03:08:47
>合理が合理的であることに、実は何の根拠も無いと言っているわけです。
ただ縁起によって合理的だと勘違いしているわけです。


自ら悟りを実現した、修行を完成したことが、その根拠だと思います。

その悟りを、錯覚と区別が付かない、ということを気にする他人にとって、それは無根拠に思える、ということじゃないでしょうか。
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Unknown (たかはし)
2018-11-12 03:04:02
>仏陀は合理的なことが、実は非合理だと気づいたわけです。


そこまでは私は思わなかったですよ。

悟る前は、非合理的な存在。

悟った人は、完全な合理的存在。

そんなイメージです。

そんな悟りは人間には無理だ、とするなら、人は、非合理的存在、となるとは思いますが。
返信する
私もそう思います (ZIP)
2018-11-12 01:22:42
仏陀は合理的なことが、実は非合理だと気づいたわけです。
合理は前提として非合理を含んでいなければ成立しないわけです。
人が非合理的であるということを縁起によって
合理的に説明しているわけです。
合理が合理的であることに、実は何の根拠も無いと言っているわけです。
ただ縁起によって合理的だと勘違いしているわけです。
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Unknown (たかはし)
2018-11-12 00:28:24
>有ではないことが必ずしも無、とは言えないわけです。


有を肯定できないことが、すなわち、無の肯定にはならない。

同様に、

無を肯定できないことが、すなわち、有の肯定にはならない。

理論的には、答えは有無のどちらかであるはずが、有無のどちらかを肯定できる確証を得られない。

よって有無という見解から離れる。有無という見解を捨てる。

確証を得られない見解への執着も、苦しみの原因だから。

それは、極めて合理的な判断だと思います。

そういう論理を釈迦の言葉に見て、私は感嘆しました。
返信する
どうせ分からない者同士 (Unknown)
2018-11-11 19:25:03
分かるなど後回しでよいのでは?
語り合う気があるのかないのか?でしょう。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-11 18:54:59
他人は自分ではないことは分かりますが、
自分は他人ではない、とは言い切れないわけです
同じように、
無は有ではないけれど、
有ではないことが必ずしも無、とは言えないわけです。
結局、最後の最後で、自分は自分ではないものと同時に起こるわけです。
相依的縁起と言えば確かにそう思うわけですが
なにがしかの抵抗感が残ってしまうわけです。
しかし、その抵抗感が自己を自己たらしめているわけです。
手前勝手な想像ですが、それが、たかはしさんが言う「あまり」ではないかと思うわけです。
自分というシステムは閉鎖系であると言って
差し支えないと思うわけです。
閉鎖系であるが故に、因果的法則によることなく外部と関わることが可能なわけです。
返信する
訂正 (榮久)
2018-11-11 17:53:19
わから気→わかる気
返信する
あやうき (榮久)
2018-11-11 17:50:11
あやうい、面倒くさいのは、
言語体系を同じくはするが、
その同じ言語によって語り合えない人である。

同じ言語なのに語り合えない、わからないのは、
わから気が最初からないからである。
わかる気が最初からからない人を、
どうしてわからせることができるだろうか。
反論してやろう、噛みついてやろうという構えで来る人と、
語り合うのは不可能である。
無駄である。
この事態についての謂うことに「縁なき衆生は度し難し」と。

自分にはわからないことを言う人のことを、
わかろうと努める、学ぼうとするのではなく、
自分にわからないことは間違っていることだと
反論に努めるのは、賢くなる気がないからだ。
つまり自分を賢いと思っている馬鹿、
だから度し難いと言われるのである。

人は、いかなる場合も、
自分の内なるものを自分の外に見出だす。
自分を他人に投影していることを忘れて、
他人の方がそうなのだと思うのだ。
このために、他人をそうみる見方が、
まぎれもなくその人を示すことになる。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-11 16:51:57
恐山ブログで最後のケジメコメントを書いてきたら、
ここに結構な数のコメントが寄せられていましたね。

栄久さまの考えるは
論法が簡略で美しいですね。
何回か読み直してみましたが、
読むほど味が深いですね。

また、読みたくなりますし、
考えるを考える道具にもなれると思います。
思い付き、定まってくるものがあったら
後で書いておきます。

南師の面談続編は
そのシリーズで
全ての因果関係を明示することになると思います。

焦らず、ゆっくり練っていこうとも思ってます。
持っているもの、もう時間しか残ってないですから。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-11 16:39:33
キーワードで検索機能を使ってます。全部なんて覚えられないですよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-11 16:31:24
高橋さん。ありがとうございます。
これを全部読破されているのですね。

ただ、どうやって対話の中ですぐ出してるのでしょうか。もしかして暗記してるのですか。


https://blog.goo.ne.jp/hasunohana1966/s/

知りませんでしたが、南さんの関連記事を、前にもいくつか書かれていたのですね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-11 16:14:20
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

http://hosai.world.coocan.jp/dammapada-01/damma-all-text.htm

https://www54.atwiki.jp/waikei2008/
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-11 16:06:17
>「無条件的・全人格的肯定」を代替する方法、ということは、それを失ったとしても生きていけるテクニックがないものかと、ある意味で傲慢な、同時に見果てぬ夢のようなことを、自分にも必要なものとして、考え続けているのです。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/3fddaed978871363d5b1595a9d2ff1e0


南さんにも、夢があったようですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-11 15:49:39
高橋さん。宜しければ、そのサイトのご紹介はできますかね。見やすい見やすくないもあるかと思いまして。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-11 15:46:42
>その人はその橋を渡れなかった。

拒否して渡らせなかった、という見方もありますかね。

比較検証が苦手か嫌かと言われていたようですが、5人とそれ以外の人を比較し検証している矛盾もあるようですね。

また、「正直に」を主張されていたようですが、記事を何度か書き直すというのは、正直に書けなくなった、ということでしょうか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-11 15:44:41
その都度ネットで検索します。スッタ・二パータとダンマ ・パダは、全文がネットに掲載されています。

他にも経典を載せてるサイトがありますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-11 15:30:40
高橋さんの引用文は、すぐに出せるように纏めてあるのでしょうか?
返信する
考える (榮久)
2018-11-11 14:23:10
考えるということは、あらゆる思い込みすなわち観念を、
その根底から粉砕すること。
この世の苦しみとか、あの世の魂とか、人はわかったふうに言うけれども、
そもそも何をもって「この世」と言い、何をもって「あの世」と言っているのか。
そんなふうに考えてゆくと、「この世」も「あの世」も実はなくて、
そんなものは我々が勝手に作り出した観念だということがわかる。
この世もあの世もないのだから、今さら何を無理矢理信じる必要があるだろう。
やっぱり普通に生きて死ねば、同じことなのである。
さらに、人が一人で考えるぶんには、教祖も教団も不要である。
お布施は一円も必要がない。
こんなに安上がりで確実な自己救済法はないのである。
ましてや、最初から思い込みをもたない人なら、考える必要すらない。

苦しみから救われるためには、なぜ信じなければならないのか。
しかし苦しみを苦しみだと思うのは、なぜか、
人生に意味はありやなしやと苦しむのはなぜか、
それは、人生に意味があるものだと思っているからだ。
しかし、人生にはとくに意味は最初からないとしたら、
意味はありやなしやと苦しむこと自体が、勘違いかもしれない。

「死因」とは聞くが「生因」とはついぞ聞いたことがない、
普通は生まれた原因は両親にあることになっている。
しかしこれも、生まれたことの条件であって、
生まれたことの原因ではない。
素直に考えれば、そもそも存在しないものが、
生まれることができるはずがない。
生きていないものが死ぬはずがないのと同じである。
だが、「生まれた」ということは、生まれたという
まさにそのことにおいて、
生まれないこともできたということを含意する。
生まれないこともできたのにもかかわらず、
生まれたのである。
だとしたら、「どうして」生まれたのだろうか。
生まれたことの原因は、やはり不明なのである。
たぶん、「生と死」と分けて言い、分けて考えるところから、
この面倒は生じている。
死がなければ生とは言えない。
生と死とは対としての言葉であり、言葉がなければ生死は言えない、
つまり、「ない」。
言葉以前のこの存在をさして「存在」と言うことにしている。
「存在」は生死でもあり、生死でもない。
同じ事を「色即是空」と言った人もいる。
そう言ったその人は、輪廻転生には決して言及しなかった。
否定したのではない。
そう言うと、まるでそうであるかのように聞こえてしまうからである。
業を背負った人間が、何生も何生も生まれ変わり死に変わりする。
生まれたことの原因は、業が存在するからであると、
まるでそう言っているかのように聞こえるからである。
しかし、そういった諸々が一切空であるとは、
当の本人が言っているところである。
生死というものは、あるようでない、空なのだと。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-11 14:03:31
ちなみに私は、南さんが翻訳についてどんな対応をしたのか興味があります。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-11 14:00:03
他人のことは分からない、と南さんも言っていなかったでしょうか。

南さんとの面談の様子を公開しようと思った動機は何だったのでしょう。

何かを理解してもらいたかったからでしょうか。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-11 13:05:14
ここまで読んで下さった方へ

この記事を書いてた時は
続編を全て書いておいてました。

ですが、それを全部放棄して
新たな視点で書き直したりしています。

月曜に間に合わせて投稿できるかどうかも
はっきり言えないです。

自分が書いたものが
軽くて、浅はかで
絶えられなかったから
全部、捨てたのでしたが、

どうせ、似たようなものしか書けないだろうと
自責の念を振り切らず、

特に南師のような高貴な方との面談の中での
核心を書こうとしたら
軽々しい気持ちでは
どうも先へ勧められないですね。

実は2回も書き直したりしているのですが、
書き直す度に新しいことに気づくことになるから
なんでしょう、どこまで
自分が馬鹿になれるかの基準が必要かな等など....
兎に角複雑な心境です。

他人のことを書くことというのは
自分だけのことをすらすら書くのとは
全く異なる世界だと痛感しています。

月曜までなんかと決着をつけて(自分との)
約束とおり投稿せねばですが、
まああ、自信が無くなりました。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-11 12:45:56
たかはしさんのキャラをうちの夫に説明した時があります。
この前の記事コメント欄で言及した病気のこととか
その病気のために結婚も遠慮したとか
今まで私が分かってきた情報を話していたら、
たかはしさんが人の言う全体構造を掴めないことも
分かるような、理解できそうな気がしましたね。

いつか、私宛に
それは分からないと(感情の移り変わりについて)
2回書かれたことがありましたね。
その時に私は
何が、どのように分からないのかを
具体的に聞いてなかったです。

そのまま流したのは私でした。
それが、今になって気になりましたね。

部分的にどこでいつ言ったかをコピペするのは
もう過ぎ去ったことだし、面倒でもあるので
置いといたとしても
当時、私は自分の問題で精いっぱいでしたから
たかはしさんの問題まで
さわれなかったから、触れなかったと思います。

ですが、分からないことを分からないと言っていた
事実は厳然とありましたね。

人とのズレ、それは
何を共感するか、それかもしれませんね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-11 12:33:17
〉仏教は人間の自己肯定の可能性を根こそぎ吹き飛ばすものなのです。避難するために飛び込んできた「自我」に地雷を踏ませるものなのです。<

月さまのその部分は
強烈な例えのように捉えるのですが、
仏教の捉える自我の裏と表を表象するとしたら
そのような例えもありでしょうね。

地雷を踏んだと分かった瞬間
そこにじっと耐えていないと
爆発して、その踏んだ人が破壊されますよね。

地雷を削除できる人は
専門家、その専門家は誰に当たるでしょうかね。

なんか、皮肉的で極端な例えですが、
例えは可能性として可かもです。

返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-11 10:47:52
でも、南さんの出した答えには共感できるから、それは受け入れる、ということ。

結局、自分のことは自分では分からない、という側面があるし、自分で考えるだけでは解決が付かないから、他者の言説を学ぶ、ということをやることになりますね。

みんな同じことをやっている、違いは、誰の言説に共感するかということにすぎない。

そう思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-11 10:38:07
他者の言説の引用を嫌う、ということも、他人から答えを与えられることが気に入らない、それよりは答えを得られなくても自分で考え続けている方がいい、ということではないかと。
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Unknown (たかはし)
2018-11-11 10:29:42
南さんの受賞インタビュー記事から引用

>しかし私には、この「答えがあるから大丈夫」というところが気に入らない。問いは問いのまま抱えるべきで、ブッダも安直に「大丈夫だ」と言ったとは思えないのです。


南さんは、無記を、安直に答えを出せない、問いは問いのまま抱える、ということに応用している、それが南さんの仏教・私流かな、と私は思っています。

そして、そういうところに共感する人がいるということかなと。
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Unknown (月のような者)
2018-11-11 08:26:54
今のところ桂蓮さんがやるべきことは日本語の読解力と仏教への理解力を上げていくことではないでしょうか。その上で一思想家である南和尚の翻訳に取り組むということでよろしいのではないかと。
いわゆる南ファンの人々がファンでいられる理由の一つが「仏教がよく分からないから」であることは正直に言わざるを得ない部分ではないでしょうか。
仏教に理解力がある人は現在ではもう大抵がテーラワーダに流れていると思います。時にテーラワーダと比肩できるぐらいの禅僧を見いだすことによって禅に戻る人もいるかもしれませんが。

自分の人生を肯定していいのか分からない不安があるが、結局肯定したいので誰かに分かりやすい認可を貰いたいというところでしょう。そこで南和尚の言う「無記」が、なにも考えなくてもいい、考えないことによって人生を正当化できる、うってつけの簡単な認可になるのだと解釈されているのだと思います。しかもそれが仏教の正統な態度なのだと。
しかし、仏教は人間の自己肯定の可能性を根こそぎ吹き飛ばすものなのです。避難するために飛び込んできた「自我」に地雷を踏ませるものなのです。
時代が古すぎてブッダが本当に言っていたことは分からないと言っても無駄です。仏教にあっては「我」の立つ瀬は絶対にないことは確実です。その厳しい事実をむしろありがたいと思えるレベルまで自分を掘り下げていること(つまり世界の悲劇性の考察)が仏教を理解していくための前提になります。
自我がないということは、世界の厳密な存在を見いだせないということです。その結果として人間や世界を蔑ろにすることは単なるバカなのです。自我がないということを本当に理解できておらず、形を変えた自我の暴走になっているのです。自我がないと理解できていれば世界や自我の足場である「苦しみ」の考察もできているはずですから、わざわざ破壊的な選択をする必然性がないのです。
南和尚が言うところの「無記」に関しても考察を放棄するような逃げ場にはならないだけでなく、結局のところは処理されていない自我を肥大させ暴走させる危険性をはらんでいると言わざるを得ないと思うのです。
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まず (Unknown)
2018-11-10 15:54:27
私は、「私」をわかっているの?

あなたは、「あなた」をわかっているの?
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Unknown (たかはし)
2018-11-10 15:39:56
分からないことが、分からないことだと分かることが、分かること。

そう言っている仏教学者がいます。

分からなくて当然、多くを期待しない、という気持ちも必要かも。

仏教を語るには、分かってもらえないことだ、という覚悟も必要、とさえ思えます。
返信する
今までのことなど。 (桂蓮)
2018-11-10 13:22:14
最近、頭が冴えた気がする。

私と言う個人を本当に分かってくれる人を
5人ほど発見したからかも知れない。
(ブログの世界で)

以前一人いたが、(ブログの世界で)
最後の段階で、実はその人は
分かっていないことが判明した。

その人が最後の最後まで
私について分からなかったことは
私の本性だった。

分からないことを認めないと
分からない、見えてこないことであった。

その人の最後のカードは
分からないことを分かることにした、
自分自身を選んだのである。

人と真に関わるための条件があるとしたら
最後の最後に
だれか、どちらかを選ぶことになる。
誰のための存在であるかを選ぶことになる。
渡らざるの橋なのである。

その人はその橋を渡れなかった。


文頭に言ったその5人は
段階を必要としない、優れた感覚の持ち主であるため
彼らに最終段階での選択は要らない。
彼らは最初から
誰かを選んでいるのだ。

自他の区別が厳格にできている。
だから、言葉が明瞭だ。
偉い人の偉いことばを必要としない。

その5人は私を生きるようにさせてくれる。
未来に向けて
私の眼を静かに開けてくれる。

その5人で私は醒めた。
感覚が甦った。

長い長い睡眠から....
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Unknown (桂蓮)
2018-11-10 12:49:40
>Unknown (Unknown)
2018-11-10 04:53:18
今、クサビを加えて置けば、
其の割れ目に水が浸み込んでいって
後になって岩が割れる事もある。

将来ハタと思い当たるという事もある。
過去に投げられた言葉にはそんな力もある<

この激励をくださった方へ

何より、励まされました。
心の奥まで届きました。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-10 12:47:19
栄久さまの言っていること、言おうとしていることを分からない人は
私が言っていること、言おうとしていることも分からない、
故に
分かったと思ったことを
分かったこととして、延々と扱うでしょう。

その扱いは自分でしか通用しないことも
分からない訳だから
分からないことの責任を他人に転化するでしょう。


塾をやってた、その15年間
私が扱ったことは
『分からないことを分かる』ことでした。

相手が子供だとその分からないことを分かることが
常にワクワク、活き活きしているのですが、

相手が頭が固くなっている大人だと
分からないことが分かったことになっているので、
それは希望も無ければ
全ての門が閉じられたような
息苦しさしか残ってないような気がします。

自らを分かったことへ閉じてしまうその分からなさは、他人が関われない断絶がありますよね。

言わない、気づくまで待つ
それしかないかな。


返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-10 12:11:56
こんなん出ました。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/ef291438a4ec281415d659732b0faef8
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-10 04:53:18
今、クサビを加えて置けば、
其の割れ目に水が浸み込んでいって
後になって岩が割れる事もある。

将来ハタと思い当たるという事もある。
過去に投げられた言葉にはそんな力もある。
返信する
わからない人 (榮久)
2018-11-10 04:19:12
はじめからわかりたくない人を、
どうしてわからせることができるわけか。
という当り前のことが、これらの人にはわからない。
わかるということを、わかってないからである。
裏返して、それをわかってないということさえ、
わかってないからである。
歩きたくない人を歩かせることができないのと同じなのだ。

人は未知である、わからない、と感じ、だからわかりたい、
と希うからこそ、それについて考え追い詰めてゆくことができるのではないか。
自分がわかっていないということさえわかってないなら、
人が考えるということなど、あり得ない。
したがって、自分がわかってないということもわかってない人が、
自分は考えていると言うのは、じつはたんに何かをなぞり、
唱えているだけの信者でしかない。

わからない人をわからせることができないように、
わからないといことをわからせることも難しい。
自分が居るということや、世界が在るということを、
「不思議」と感じない人に、不思議と「感じろ」とは言えないのだ。
ここにはどうしようもなく断絶がある、私は口を噤む。噤むしかない。

釈迦もイエスも、ソクラテス、プラトンも、傲然たるままに、
はたと口を噤んでいるところが必ずやどこかにある。
道元、あの完璧なる論理性こそ神秘主義の真骨頂、
あれほどあからさまにわからないとわかるなら、
これ以上明らかな認識はないと言える。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-10 03:17:25
泣かない人はいないと思いますね。

だから、どうやって泣くかを考える方が有益に思えます。
返信する
独り言 (桂蓮)
2018-11-10 02:53:06
最近、涙脆くなった...

コメントを読むと
涙が出る。

私を理解しようとする親近感のあるコメント
私を勇気つけるようとする本当の激励....

独りで
このアメリカで只一人
自分が正しいと思うことを
只管やっている、だが寂しさには勝てない....

自分への憐憫だけではない。
だが、泣きたくないのに
涙が出る。

袖で涙を拭き
涙で画面が滲んで見えても
書いている、これは笑えない。

先週は確か悔しさで泣いた。
私を裁く、私に反省を求める声に
悔しさと悲しみが相反して泣いてた。

人の感情を論理で暴く人の残酷さにも泣いてた。

最近、泣きたくないのに
本当に涙脆くなってしまった。

いずれ、この涙も枯れるだろうが....
返信する
Unknown (通りすがりの者)
2018-11-09 09:13:50
こちらのブロガーさんの、自他共に切り捨てるような潔い表明に息をのみました。

私は元々、ブログの記事を楽しみにしている者です。
この変化が記事にどう現れるのか、とても楽しみです。

今後を期待しております。
もちろん当方の勝手でのコメント、義理のお返事は無用です。
勝手にエールを送ります。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-08 17:49:23
皆様へ

今までコメント欄を通して
私は何よりコメントへの応対を優先させてきました。
正直に、偽ることなく
批判も恐れず、常に最善を尽くせたと言えます。

その過程を得て
皆様からも率直な意見、的を得た感想、
私にアドバイスなども
私なりの受け入れ方で受けてきました。

真に受けたから、受け方が変わり
私の考え方や態度もつられて変化してきました。
変化したから、これからも変化していくと思います。

私は固定した考えに囚われることを控えているのもあり、
常に過去を踏まえて、
現在の状況を最大限、未来に活かしたいと思っています。

なので、これからは
過去での私の言動と相反することになるとしても
変わったことを過去の慣習に合わせて
再び連れ戻す、
或いは他人によって連れ戻されることは
しない、させない腹つもりです。

従って、頂いたコメントは
私の一方的な価値判断で
応答する、或いは応答しませんので、あしからず。

義務的な応答もしない予定ですので、
そこも了解を。

また、今回の記事を折り目に
今までの私の習慣、慣例、慣用的な
コメントスタイルを大胆に捨てました。

今までも正直でしたが、
これからは正直であることを
さらに徹底させていきます。

全部、捨ててしまってからは
失う心配など全く無くなりましたので。



返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-08 15:37:28
あの時、確かに貴女の切実な思いが汲めたから
そうしたわけです。
たかはしさんにも切実な思いがあるわけですから此処に引っぱり込んだわけです。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-08 14:18:05
私のキャラは
その時その時、
与えらた状況で最善を尽くす、
最善を尽くした結果を認める、
その認めたことで変化する、
変化したら前に向かって進み
過去に未練を残さない。

その生き方なので、他人にどう見えるか
一々気にしません。
私のキャラ点数つけはご自由にどうぞ。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-08 14:11:36
名前だけだった謎が解けましたね。

食堂にもネームプレートが『桂 蓮』だけでしたね。
妙だと思ったのでしたが、
あえて聞かなかったです。

最初の坐禅申し込みはZIPさんに頼みましたね。
申し込みが終了してから
面談申請は私が直接しましたね。

当時のZIPさんに頼むようになった経緯も
思い返せば、切ない裏事情があって
今になっては、懐かしい想い出になりました。

あんな時もありましたね。
あの事情が私がいかに
仕事人間であったかをモノ語るのですが、
当時に比べて、今は心に余裕が持てますね。

そういえば、ZIPさんとは
ブログ始めてからの知り合いですが、
名前すら知らないですものね。


返信する
思い出したこと (ZIP)
2018-11-08 13:39:04
何故、表札がフルネームでないのかと言えば
私が代わりに申し込んだ時に、桂蓮、としたからです。
電話をかけてしまってから気づいたのですが
そのままそうしてしまいました。
あの時、アップルバウム、ということ自体知らなかったわけです。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-08 11:55:31
桂蓮さんは、感謝しますと言ったかと思いきや、シャクに障れば蹴り散らかして、はい崩壊、というキャラなのでしょうか。


返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 11:50:23
それから、ここでは記事に関係無いことでもOKと桂蓮さんが言っていたように私は記憶しています。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 11:33:48
ちなみに、私がここでそれを取り上げたのは、あちらのブログの記事に関係が無いように思えて、ここはまさに記事に関係があると思ったからです。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 11:27:54
あちらのブログで話題になったことを、ここで取り上げる、ということは、桂蓮さんもやってましたよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 11:26:50
>「さよなら」と嫌われたことが理解できませんか。


以前の桂蓮さんのコメントを読んでいないのでしょうか。さよならの意味じゃない、というようなことを言ってましたけど。

それとも、桂蓮さんの本音は、それで、言い出せないでいるだけだから、Zさんが代弁しているのだ、だから、気を利かせろ、ということを言いたいのでしょうか。

でも、Zさんがそれを代弁するのは、桂蓮さんは喜ばないと私には思えるのですが。
返信する
Unknown (Z)
2018-11-08 10:54:20
引用と翻訳の定義の違いというような外形的なことを問題にしているのではなく、それをやろうとした目的を問題にしていました。→ 本当に理解力に欠ける、障害をお持ちなのですね。論理学以前、国語力が無い。
意見や見方を共有していないのですから、何が前提で何が主題なのか、その区別に鈍感なのか、あるいは分かっていてわざと無視する狡猾な人のように感じる。論じなければならないことを既定のこととして受け入れさせていまおうという、たちの悪い人かも知れない。やはり愚者でしかなかった。このブログから立ち去り己の矮小な考えで遊んで下さい。「さよなら」と嫌われたことが理解できませんか。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-08 10:27:31
>元の著者の意図した意味に拘らない、ということでしょうか。

こんなことになれば、中身が変わってしまいますよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-08 10:23:25
まあ、仏教外部者が、内部者の著書を扱われるのですから、そのような目的も無きにしもあらず、でしょうかね。

そういえばニー仏氏も、どなたかの翻訳をされていましたが、彼は仏教内部者、外部者どちらになるのでしょうか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 09:40:08
引用と翻訳の定義の違いというような外形的なことを問題にしているのではなく、それをやろうとした目的を問題にしていました。

それは、

>自身の解釈に基づく善悪判断基準で、他人の説を身代わりに持ち要る

>それが自分を言い換えることのように、図々しく利用しているように見える

ということには、ならないのだろうかと。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-08 09:39:51
著作者と翻訳者も区別しないと、著作権侵害の問題となるでしょうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-08 09:35:14
多少、翻訳と引用のズレが出ているようですね。
桂蓮さんの定義でいけば、桂蓮さんは仏教外部者なので、御自分の能力で仏教を広めるのは困難だから、仏教内部者の翻訳をすることで仏教外部者の部分を穴埋めされる、ということではないでしょうかね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 09:05:38
>翻訳文は自らの頭で練り直し推敲を重ねる謂わば翻訳者自身の著作


元の著者の意図した意味に拘らない、ということでしょうか。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-08 08:40:35
たかはしさんが私と討論したいなら
まず、国語の授業を取って
翻訳と引用の差を区別できてからにしましょう。

全体的な文脈を掴めない何かの障害があるようだし、
部分的なことばを取り出し
全体としてまとめることは
論法にも合っていないです。

何より、私が間違っていることを指摘したいなら
それらの根拠を前提に照らし合わせ
説得力のある展開をしてください。

なお、引用した私の発言は
ここでなく他のブログコメントで言ったことなので、
討論の場を間違っていることからも
外れているようですが、

それに、ことばの意味を掴めないのは
たかはしさんがどう教育されたかの問題であって
私が書いたことの正誤を問いただすこととは違います。

人の考えを問いただす時は
それが行っている場とその人が何を言ったのかを
まず、確認してからにしてください。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-08 08:34:38
やはり気づけない、引用文はコペピ、翻訳文は自らの頭で練り直し推敲を重ねる謂わば翻訳者自身の著作でもあるのです。みれんたらしく難癖つけても恥の上塗りでしかない
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 08:04:57
仏教本を翻訳するのも、南さんの本を選択したのも、桂蓮さんの判断なのですよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 07:50:54
>二人は自身の解釈に基づく善悪判断基準で、他人の説を身代わりに持ち要る(リンク、引用などで)ことに対し、
私は他人の説を私の価値観を代弁するために利用したことは一切ありません。

>なお自己を主張するのにあたって、
私は本当に自分の考えを基に
書いてある記事と関連付けてきましたが、
二人は他人の説を引用することで
まるで、それが自分を言い換えることのように、
図々しく利用しているように見えるのもあり、
何で自己を主張しているか、も違います。


他人の本を翻訳するのも、

>自身の解釈に基づく善悪判断基準で、他人の説を身代わりに持ち要る

>それが自分を言い換えることのように、図々しく利用しているように見える

ということのように思えるのですが、どう違うのでしょう。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-08 07:39:09
あちらのブログで話題になってましたけど、桂蓮さんにとって、南さんの本を翻訳するのは、他人の文章の引用には当たらないのでしょうか。

自分独自の考えが何より大事なら、他人の本を翻訳する必要も無いと思えるのですけど、そこは、桂蓮さんは、どう整合を取っているのでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-07 20:33:07
そうでしたか。色々とお疲れ様でした。面談のケースも違うようですね。
ご返信ありがとうございました。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-07 16:08:53
指摘など配慮への心使いありがたく受取りました。

私の場合は公的な性質もあって
ブログで記事にすることを
予め伝えてあって
了解もあったので、

一般的な個人の悩みを相談することとは
ケースが違います。

師匠の問題は
私の一方的な呼び名であって
また、その件については
前回のコメント欄で
徹底して解明しておきました。
今も尊敬していることは変わりませんが、
関係性は特に崩壊しているので
私には過ぎ去ったことになります。

もし、前回のコメント欄での私の解説が理解できないままのコメントでしたら、
それは私の道徳の問題でなく
Unknown (Unknown)
2018-11-07 14:26:06さんの問題だと思います。

師匠など持つ予定は全くございません。
今後良い経験に活かせるなら
尊敬するからといって師匠仕立てしてはいけないということを学んだことですかね。

面談にもカウンセリングの意味があるのもあれば
私のケースのように相談、否、南師からの面接だったと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-07 14:26:06
確か以前の一時アクセスでは、南師の記事でなくとも、上昇したことがあるのではないでしょうかね。その時々の議論や、関心度になるように思いますがね。

また、面談というのはプライベートなことになりますが、タイトルにまで名をあげて、声高に公表してもよろしい事なのでしょうかね。先方との断りなどがあるのでしたら、構わないのかもしれませんが。

以前に先方も、名は出さずとも、かなりのプライベートな内容を記事にされたことがありましたが、どなたかの要請で削除されていましたね。

個人的な相談を断りもなしに公開されると、したい相談も出来なくなるでしょうね。恐らく、そのような指摘も、別にあったのではないかと想像しますがね。


自分はよくても相手はよくない、相手はよくても自分はよくない、両者ともよくない、両者とも了承済みかどうか。

今回は、相談者の方の公開ですから、さほど問題ではないことかもしれませんが、立場が逆の場合を考えてみますと、師匠と仰ぐ方や、師事する方への見方も変わるのではないでしょうかね。


弟子が師匠の忍耐強さを測ったり、師匠を試したりするのなら、それなりに、それ以上の覚悟も必要だったということではないでしょうかね。

配慮が欠けている点があったとはいえ、単に内容がどうのこうのというのではなく、まず自分の態度はどうだったか、何を師匠が教えようとしていたか、視点を変えてみると、また違う景色が観えてくるかもしれませんね。

どちらが悪く正しいということではなく、師匠は嫌でも弟子に苦言を呈し、忍耐強く育てるという立場でしょうから、また誰かを師事するのなら、忘れてはならないことではあるでしょうね。

それらの経験を、今後よい方向に活かしていけることを願っております。
返信する
アクセスから言えること (桂蓮)
2018-11-07 05:29:21
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2018.11.04(日) 373 PV 106 IP 10539 位 / 2845596ブログ

皮肉なことだ。
前回までの記事で
私のブログアクセスは特定の人がコメントしたから
その効果でコメント数が増え
アクセスも増えた、だから
その特定の人が提示するリンク先を熟知して
私の品格を高めろ、とのアドバイス系が多かった。

結果的に私はそれらの期待を裏切り
援助を断ったことになったが、
それを書いてた時は
もう、その特定の人無しでは
私のブログは昔のように
2万台の順位に下がると思っていたし
誰もコメントしなくなることも覚悟していた。

だが、私の予想に外れて
アクセス順位ランクは
上記に添付したとおりだ。

私で無く、明らかに
南直哉師の効果である。
人が読みたいのは
その特定のリンク先でなく
南直哉師との面談なのだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-06 08:18:13
ナイスショットですね。そこでも硫黄の匂いはしましたか。
南師の本とは、何を持たれていたのでしょうね。英訳はわかりませんので、次の日本語を読みたいですね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-06 07:37:12
写真は恐山で3泊泊まった時に
最後の朝、散歩の時に撮りました。

記念として撮っておいたのでしたが、
実際、使えるとは思えませんでしたね。


其の二は書いてあるので
英語版をアップしたら
次の巻にいく予定です。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-06 07:30:22
私も次の記事が楽しみです。
返信する
栄久さまへ (桂蓮)
2018-11-06 07:29:40
栄久様は英訳のスケールを計れるようですね。

南師の使いになることばは
死んでいなく
死語をあまり使いになれてないように見えます。
そのことが
西洋でも受けると思ったのでしたね。

使っていることばが死んでいないとの意味は
語源を遡らないと理解できない今は死語になった、
漢語を砕けていて
現代語に代えていることの指すべく使いました。

ご本人アメリカでお住まいになったことから
言葉使いが世界のレベルまで広がって
受け手の層が日本に限らない可能性へ
開けている感じも受けましたね。

南師はきっと、いつか過去で
ご自身ことばの起源を研究された痕跡が
あるので、
その分、私の関心事と通じるところもありましたし。

もしかしたら、私が通訳の際に
栄久さまの助けが必要になるかもと
今、思いました。

差支えがなければですが、
その時になれば、世話になっていいかと
訪ねたいのですが、
宜しいでしょうかね?







返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-06 07:06:01
コピペを引用に変更しました。

急いで投稿したので、誤りがあってそれに気づいてなかったでした。
すみません。
URLのコピペは次回に載せておきます。
指摘、ありがとうございました。
返信する
翻訳を (榮久)
2018-11-06 05:20:43
南氏の仏教観を英訳にすべく模索中
素敵な思考の永い飛翔が始まっているのですね

明治初期に日本に無かった西洋哲学の観念や
概念を漢文の素養で造語した西周に
今日まで
ついその造語に縛られてしまう私です

仏教概念や南氏仏教観の英訳文
西周の漢文の素養を
英語圏ならと英語の古文とは想像解釈し
英訳の下地にはラテン語もしくは
思索者発祥の一つであるギリシャ語を取り込み
造語の必要があるのではないでしょうか

今の英語自体340~350年ほどの歴史
ラテン語やフランス語の語源をもつものも数多いのはご存じの通りです。

桂蓮さん発の英訳となると
英語での仏教観
新語彙を創り翻訳されんことを
楽しみにお待ちしています。
返信する
Unknown (フォー)
2018-11-05 22:44:28
写真は、桂蓮さんのショットですか。
異様な空気の漂う感じが、よく映し出されていますね。
面談までのぎこちない時間も、しんみり伝わってきますね。

其の二記事も楽しみにしています。
返信する

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