陰と陽
Shadow and Brightness
プラスとマイナス
Plus, Minus
肯定と否定
Affirmation and Denies
静と動
Static and Dynamic
明と暗
Light and Dark
苦しみと幸せ
Suffering and Happiness
それらの対極現象は
対になっている単のものである
Those counter electrode phenomena are
-a singular consists with pairs
磁石も陰極と陽極があって磁場になり
Magnet also makes electric field with minus pole and plus pole
電流を発生させている
Both poles outbreaks electric current
プラスとマイナスがあって
加わったり減ったりする加減になる
There are plus and minus and they make measurement
-with addition and subtraction
肯定が無いと否定は指定できない
Denial cannot be specified without affirmation
否定が無いと肯定できない
Cannot affirm without denial
静の状態で動が見える
Can be seen a motion in a static state
動の動きは静に向いて働く
Dynamic of movement works to be state
苦しみを得て幸せになる
Be happy throughout suffering
幸せもやがて苦しみになる
Happiness eventually becomes suffering
それらの対極性は常に片面だけで表れ
These parings always appear on one side
もう一方の片面は意識できる領域から隠れる
And the other side hides from the aware range
意識は常に全体を照らすことができないので
Since consciousness cannot illuminate all over for whole picture
一面を見せてそれらが認識できると
It shows one side and when after recognizing it
次の一面を見せてくれる
-it shows the following side
意識自体では対になっている全体像を見ることはできない
With consciousness it is impossible to see the entire picture of paring
心が流れている時
When mind is flowing
流れていく方向は見えるが
The direction of flowing is visible
流れてきた原点は見えない
-but the starting point of flowing is invisible
だが、坐禅を行うと
However, when do zazen
陰と陽、プラスとマイナス
肯定と否定、静と動
苦しみと幸せ、明と暗などの対極性が
Such counter electrodes
Shadow and Brightness, Plus and Minus
Affirmation and Denies, Static and Dynamic
Suffering and Happiness, Light and Dark
同時に、一か所の同時空間の中で
動きを持つ静けさで現れてくる
They appear as serenity which has dynamism
-in single dimensional space at same time
坐禅の行為その無動は
The action of immobility of zazen
対極にある現象の境目であり
It is a boundary point of phenomena at counter electrodes
片面から両面を見渡せる中心点になる
It becomes central point where can look around from one side to both
https://de.wikipedia.org/wiki/Viktor_von_Weizs%C3%A4cker
以上の二つのリンクは
unknownさんのGestaltkreisに関するネット情報です。
右クリックで英語とその他の言語に変換できます。
今回の記事は私の坐禅イメージ、静と動のダイナミズムを書いたのですが。
書いていた時も
書いてからも
これは他の人が理解できないだろうと思って
難解だと言われることを承知で書いたのですが
日常で私と共感するものがあると言われて正直驚きです。
私も日常生活の中で坐禅のイメージを描くので
その過程が似ているかもしれませんね。
コメントをするのに慣れていない感じがあるのに
わざわざ書いて示してくださってありがとうございます。
励みになりました。
もう木曜ですね。
時間があっという間に過ぎて
心が時間の流れについていけなくなりました。
窓から見える庭はもうすっかり色が変わって
空気も寒気がしてきます。
今日は日差しがよくて晴れていますが
寒そうな日差しのようです。
明日はアレルギー性皮膚炎の薬服用の結果を診てもらうために診察所に行きます。(Doctors office)
コレステロール値の処方箋も出たので
二日前から服用始めています。
血液が汚れてドロドロだと
アレルギー性皮膚炎とつながるようですね。
私の担当はきはきした親しみのある若い医者です。
日本での20年間担当した医者は
70代以上の聞いたことしか答えない無口な医者でしたが
3年に一度くらいはジョークを言ってくれましたね。
私を診察所に連れていくのにエリックは仕事を休み
ついでに連休も取って
今度の土曜の朝、カナダに向かいます。
カナダまで車で4~5時間かかるようで
彼は仕事関係(カナダ人の歌手ビッキーがクライエント)で結構行っていたようです。
私には初のカナダ旅行ですけどね。
Tも私やエリックに会うのは面倒で嫌でしょうけど
デレクさまと地雷さまと一緒にみんなで(みんなでなら怖くない症候群)
カナダ旅行はどうですか?
予定は未定なので予定倒れになっても
計画している時はワクワクなので。
躍動的に、且つ興奮気味に、心がワクワクして居られる時が、まあ一番生き生きしますよね(How exciting it is!!っていう心境かな、・・・まあ小学生時代の遠足とかね・・・)。
(注;思い出したけどTにはそういう小中学校時代の想い出は無かったなァ~。)
まあ、旅行によって非日常性の出来事を体験するのも悪くはないですよね。
でもまあ、老人的には何となく面倒臭くなっちゃったりして・・・・、
ならばまあ、わざわざ旅行に行かなくても、
日常の中にも非日常性の経験は、
考えようによっては幾らでもあったりして・・・、
例えば、庭を見たり、季節を感じたり、
近所を散歩したり、
TV Japanで出てくる色々な人間像から自分の知らなかった別の人間性の存在を発見したりで・・・、
毎日が・・・、日常生活そのものが・・・、
常ではない(=無常の世界での)旅行と言う訳でもある訳で、
まあ左様に、簡単に非日常性(=変化)を感じる事が出来てしまう訳だし・・・
まあ、実際の旅行をしても、目新しい事はさして発見出来ないのも事実だし・・・
で結局、旅行してから、
家に帰って来て感じるのは、
自分の家が一番心が落ち着くと言う発見であったりして・・・
mmmmm、
まあ米国の活性化にTはあんまり役だたずで・・・すんまへん!!
振り子を外から眺めれば、人生の在り様が見通せる。
しかし澤木老師が言う(per お月さん@本店米10-13,07:26:42)、『坐禅は人間の修養ではない。人間の廃業である」と・・・・
たしかに文明開化の無かった釈迦時代に於いては、
坐禅で達する事が出来たのは、
生きとし生けるべきの心の放棄、その滅失・・・、
即ち人間性の完全否定であった。
で、それ故に、坐禅は人間の廃業とならざるを得なかった。
・・・が、
Kさんの言う、振り子の中心を知る・・・とは
人間性の修養と言う事では無いのだろうか??
座禅の究極目標にある【非想非非想】とか【滅尽定(想受滅)】とどういう関係にある事に成るのでしょうかね。
なんか「非想非非想」や「滅尽定」は振り子の中心のゼロポイントに留まったままの【絶対的静】の状態を指しており、到底【動と静のダイナミズム】を感じる状態ではない様にも見えるけど???
非想非非想や滅尽定に達すれば涅槃(解脱?)状態になって、その状態で脳が固着するかも??
脳を使わない事となって、脳が劣化(化石化する・・・認知症と同じパターン化)する・・・という科学的事実に直面してしまうかも???