自分の軸になる中心点はどこにあるだろうか。
Where is a central point that can define an axis of one’s self?
全ての物体には中心点がある。
All objects have a center point.
数学の幾何中心は
図形の点を亙ってとった算術平均の位置にあり、
その図形の全ての点をピンで止めた時、
完全に釣り合う点を示唆するようだ。
A geometric point of mathematics seems to be found in a figure
when pinned points and angles are perfectly balanced
and positioned at an arithmetic average.
体の中心点を見つけようと意識すると案外、難しい。
It is hard for me to locate when I try to find
the center point of my body consciously.
昔のバレエの先生が“女子はバランスが命”だと言っていた。
My former ballet teacher always told us that
“balance is girls’ decree”
そのバランスを取るためには
中心がしっかりしないといけないとも言っていた。
She also said, to take the balance
the center point in body must be solidly fixed.
バレエの中心点も数学の幾何中心のように、
足の裏で足の指とかかとが釣り合う交点が
中心になるところのようだ。
Taking center point in ballet is similar
with getting geometric point in mathematics,
it must be centered at the sole of the foot
where all points are counterbalanced.
その中心点を体で実感すべく、
レッスンが終わっても残って猛練習したが、
どこが的確な中心なのか確信が持てなった覚えがある。
To follow her instruction, I have thought that
I ought to get the center point with my physical experience,
so I did hard practices after lesson,
but I found myself not yet sure where the correct point was.
歩く時も中心を移動させることを集中していた時もあったのだが、
意識に長く留まってなかった。
Even when I was taking a walk,
I tried to concentrate on mobilizing the center of my body,
but the consciousness did not stay in my mind.
処が、普通に座る時は自然に中心点が取れる。
However, when I sit normally
the center point stands spontaneously.
身体が接する面積が広いと
足の裏よりは中心が簡単にとれるからかも知れない。
Maybe it because the wider square measure of the body
the easier stabilize than the sole of the foot.
座りの中心は割と簡単に取れるとしても、
坐禅や簡単な瞑想をやる場合は、
その坐り方に決まりことがあるため、
体の中心を指示に従って定める必要がある。
Comparably say,
even though the center points relatively easier when have a sit,
in cases of doing simple meditation and Zazen,
there is certain direction to follow to be accurate.
その指示に従って改めて中心を探そうとすると
逆に座り方が不自然になり、
不安定になってしまう。
For the sake of instruction,
finding the center point can have opposite effect,
and the sitting form falls and looks artificial or unstable.
自分の体の感覚に頭の理屈がついていけなくなるようだ。
It seems my body senses are unable to keep up
with my brain orders.
中心を定めようとする意図は意識上に長く留まらない。
The intention of control to the center
does not stay long in my mind either.
中心を探しているうちに、
その過程で生じた違和感や軽い痛み等に
意識が向いてしまうからだ。
While I try to find center point,
my conscious tends to toward uneasy feelings and slight pains.
そのような体の感覚と教えの見本のズレで悩んでいたので、
日本で南直哉師からの坐禅指導を受けた際に
“体の中心をどうやって探すのですか?”と
坐禅後の講談で直接聞けた時があった。
When my last visit to Japan to take zazen practicing
from Minami Jikisai who is known as a master,
I could ask him directly about finding the center point in the body
when questions were allowed.
Since the gap between actual physical sense and
sample of directions was bothering me, my question was:
“how can I find the exact center point of my body?”
彼は、“私もその中心点を探すのに困ったことがあるが、
ある日突然、パタッと体の全てが何かのところに当てはまるような時があった”
と答えてくれた。
He answered for me and told me that
“I also have had the same trouble as you have
finding the center point
but one day suddenly a moment has come to me
where every part of my body fits in somewhere righteously
sounded like bang”
また、“これ以上、ズレるところがないところに中心点であるようだ”
と教えてくれた。
He added more detail that
“it seemed the center point is located
at a place where there is no other gap”
私は完璧な中心感覚が絶対にあるはずだと思っていたから、
彼からの例談で少し気が楽になった。
Since I thought that
there must be a perfect physical sense of catching the center,
his teaching made me feel released in a way.
その教え以来、
絶対的な感覚、数学の数字みたいな数値がなくても
『これ以上が無い』ところで
それ以上を追及しなくなり、
余計に考えなくなった。
Following his guidance,
I stopped chasing unnecessary thoughts
and pursuing extra ways to think [no more of it]
even though I can’t have such absolute sense
or precise value like mathematics.
身体の中心点は意識を定めることによって、
体が勝手にやってくれるようだ。
Somehow my body is enabled to find
the point with its own way as set up conscious.
だが、自分のという意識の軸はどこに位置しているのだろうか。
But where is the axis of conscious? called as being me?
軸があるなら、
その軸を中心点に形が展開していき、
機能できるような構造になっていく。
If there is an axis of one’s mind,
the centered axis will be developed to form,
and the formatted structure becomes functional.
ある形が機能するとそれが動く。
When the form functions it moves.
動きだすと、その動きによる反応が生じる。
When it moves, it generates reaction.
その反応は状況に影響する。
The reaction affects situations.
その影響力は動きの範囲を限定する。
The affection limits the range of movement.
その限定力は動きに外からの圧力をかける要因になる。
The limiting force will be a factor to exert
upon the movement as an external pressure.
外からかけられた圧力は中からの動きと交流し、流れ始める。
The pressure which is set by external force interacts
with inner movements and starts to flow.
その流れが上手く流れない時に、
全ての問題が生じるようだ。
When the flow is unable to stream well,
all problems about to occur.
しかし、問題点が無く自由に動けるようになった動く物体は、
軸を中心に外に向かって広がるようになる。
But movable object which can work freely with no problems
can spread to the outward based on axis.
外に向かって広がる運動性が連続すると、
そこから速度が増加する。
When the mobility moves outward,
the speed increases as velocity is activated.
その速度が一定に安定してくると
その動き自体から遠心力が生じる。
When the speed becomes constant and unchanged,
the velocity produces centrifugal force.
その遠心力の核心に中心点の安定性がある。
At the core of the centrifugal force,
the stability of center point can be found.
遠心力は基の動きの限界性を超えて広がるようになる。
The centrifugal force will expand
as it exceeds the limit of the underlying mobility.
その自我の軸になることはもしかしたら
『命を生きる』ことなのかも知れない…
Perhaps [live a life] may be the axis of ego…
ファッションの話ですが、果たして服がかっこ良く着られるのは顔やスタイルなどの元々の見た目がいい人の特権なのでしょうか?そうではなくて、服をいい感じで着られるかどうかは中心感覚とも関係があるのではないかと思います。
日本人が洋服を着ることの根本的な滑稽さは置いておくとして、現代の大部分の日本の若者が洋服も和服も似合わないのは日本人本来の中心を失っているせいではないか?と思います。幕末から明治にかけての一般人の姿を見ただけでも羨望でヨダレが出てきます。日本人としての解放感も説得力も全然違います。あのエレガントで柔らかそうな体付きはなんでしょう。文化とはなにかということです。
でも社会全体で柔らかいままでは駄目だと判断されたんですね。明治の正岡子規の俳句は江戸の俳句に西洋の鉄骨を入れちゃったんですね。だから芭蕉と比べるとつらいですよ。だけどそれ以降の俳句は江戸時代みたいに全体のレベルが乱高下せずに現在まで安定した水準を保っているんです。だから今でも日本人の意識はなんでも複雑ですよ。
日本人は根底で洋服を嫌がっているけど和服を着るのも自意識過剰みたいで嫌なんです。じゃあ丹田で洋服を羽織ろうじゃないかということです。西洋人は軸で服を着ているんだから日本人は丹田だよと。それで様になるんだよと。丹田で分かりづらければ様式美に置き換えてもいいかと思いますし、日本人が柔道やフリースタイルレスリングで強い事実とも繋がります。「不自由な空間」で能力を発揮するのが日本人の運動性や創造性の特徴だよということです。
和服という「布っきれ」は、日本人を包む自然なのであり、自然は人間の霊性に感応するスクリーンでもある、というスタティックな洒落を効かせる劇場が和服なのです。
体型は不恰好だがなにかのイベントで半纏を着ている人の思わぬ解放感を見よ!たとえ洋服でもコーディネートによっては同じ効果を得ることは可能なはず。丹田が育てば和服じゃなくてもかっこいい日本人像を構築できる気がします!
女性と男性では体重と力の差があり
重量差が圧倒的に左右します
競技で重量差が在るのはその事ゆえです
よほど技に優れていなければ組伏せられます
まして、アメリカは銃社会
とにかく逃げましょう
技など絵空事
海兵隊の体格、重量をみれば
一目瞭然ですね
一撃でダメージを受けます
優雅に美しく
バレエの精神で暮らして行きましょう
離れた間合いなら逃げること。捕まったら危険の少ない痛点を全身の力で攻めるのです。掴まれた際の合理的、力学的な意味での離脱のメカニズムや瞬時の力の集中も工夫してください。オーソドックスな逆技などもできた方が心強いのですが、目的はあくまで暴漢から逃げることです。この前ブラジルの女性が強盗をブラジリアン柔術で捕まえていましたが、あれはよほど幸運な例です。なにか物を使って自分と相手の間に距離を作る、ガードする、もしくは相手の凶器を叩き落とすなどの常識的な発想の方が大事です。
自分も相手も無傷で争いを治めようとする意志は、やはり武道が捨ててはいけないモラルなのですから。
ところでどんな空手をやるのか分かりませんが、いざとなったら一に逃げること、戦わざるを得なければ急所を狙うことだと思います。体中に急所があり、打つ、掴む、押し込む、複数の手段があります。つまり本当に役に立つものはとっても馬鹿馬鹿しいのです。武道の本意とは理を学ぶこと。しかし実際の戦闘になれば、そこには「全力」があるのみ。心身が一定のコンディションとリラックスを維持していなければ機能しない効果的だが難しい技術を実戦で使いこなすことが我々凡人の納得できる本音になりえますか?全力の逃走か、全力の攻撃にしか自分を託すことができないのが土壇場の人間なのです。理が通っているかどうかは消し飛ぶのです。
空手をやる意味は自分をより高く深く広くするためと思うべきです。つまり中心、丹田の調整です。中心を得たならば非常手段は空手に限定されるべきではないという広い視野が備わると思います。その上で採用される馬鹿馬鹿しいぐらいシンプルな一手が本物です。まああえて言ってしまうと最良の選択は仏教なのですが。武道哲学も仏教には届かないと思っています。
ホログラム論もある程度分かってくるのでしょうね。
最後のprotonも消えた宇宙
宇宙が終わる時
ブラックホールしか残っていない時
紐も無くなった時
しかし、ブラックホールには
中心があるのです。
宇宙の物質が消えると
時間も消える?でしたかね?
一応、大気圏からだと
中心など存在しないとおもいますが、違いました?
例えば、ヒモ理論
スティーヴン・W・ホーキングの最後の論考と解説を
載せた小冊子、「ホーキング、最後に語る」
ブラックホール量子論とヒモ理論とを結びつけると
「ホログラム宇宙」説に・・・一読される事を
空間的な広がりを持ったヒモだとするなら、
そしてそのヒモの最小スケールが
中心問題で舞台になるスケールよりも大きいとすれば、
問題は消え去るというか中心問題など
最初からなかったと説いているのです
人の心も中心問題など無いのかも知れません?
詩を除いた『勘弁』文(分)は一番面白くて
笑っちゃいました。
ご自身の本を読者の眼で冷たく診て(≒視て)いるのですね。
まあ、自分が書いたものを愛らしく、
誇らしくいう人よりは
よっぽどマシ(better)ですが、
読者の冷たい実の反応に直面するのも
薬になりかも、です。
ところで詩は
可愛く切ない時代感が希望に隠れていますね。
私は詩には才が無いので
格好良く歌返しはできません。が!
月よ
そなたは月を名乗る
月のような人間であるといいたいのか?
月のようなら
地球には決して降りることはなるまい
永遠に地球の周りを
ただ回る運命なのだ
地球を回って
夜を照らして
それがそなたの使命なのだ
そなたは自らを月という
夜中でしか見えない月
昼間では
太陽の光で存在が見えない
太陽が沈んでいる間でしか
表れることができない
真夜中の審判なのか
真夜中の明なのか
上記の気の消費系は
私も引っ掛からないようにしてます。
といっても徹底して
思考や考えを推考してますんで、
笑ゥせぇるーことはないかなと。
Zip類ジョークは難易度高いですね。
私の書いたものを見たいなら、昨日即興っぽく(約三時間半で)書いた詩があるのでご鑑賞ください。それで私の作品への興味を昇華していただいて一応勘弁してもらうということで(笑)
私はなにかを書く時は推敲に時間をかける人間なので本当はもっとすごくなるはずなんだと言い訳したいのですが(笑)、三時間ちょっとですからこれぐらいが限界ですね。それでもよくできた方かなと。
日本では新元号に歓声が挙がっていますが、その声がなぜかある女の子に届いて不思議だなという趣向で書いてみました。新元号はとてもいい名前だと思います。
「令和」
私は令和
私ねラッコなの
ワカメが好き
あなたは私を知ってるの?
私はこれでいい
あなたは大丈夫?
氷に気をつけてね
いつも貝をくれるのはあなたね
私は雲に行けない
深くまで潜れない
あなたは誰なの?
おぼえているわ
私が初めて冗談を言ったのは
目が覚めた瞬間
夕方と間違えたとき
あなたも笑うのかしら
私は笑っているかしら
いつも見てくれてありがとう
あなたの声が聞こえるわ
じゃあね
もっと向こうに行くね
ある程度の苦しみがあって当然なわけです。
くれぐれも、同一性、合理性、規則性から恒常的に解放される、などとは決して思わない方が身のためです。
志しの低いことをいうようですが、
今更してもしょうがない後悔や、これから先のことに必要以上の期待や、過剰な理想を抱かない事です。
せいぜい、今ある自分を、昔の自分や未来の自分と比べる事はなるべくしない方がいい、という程度に留めておくべきです。
なんだか、笑ゥせぇるすまんみたいなことを言っているわけです。
『自己を考える』
私も幾度なく、その観測方を観察しているのですが、
自己を他己からの角度でみるのは
難儀です。
昔、一度だけ夢で私自身を見ました。
26才の時の姿でした。
夢から眼が覚めて
自分を見られたことが恐ろしくて
脊椎に寒気がした覚えがあります。
以後、頑張っても2度と自分を外から見ることは
できませんでした。
差支えが無ければ
Zipさんの自己と他己をみる視点を教えてください。
仏教知識もZipさんにかかると
哲学が深まる気がします。
自己を自己として保つ苦しみから解放されるという意味です。
公式=諸法
「諸行無常」「諸法無我」<
上記の公式はなんとなく
納得できるのですが、
>スケーターは「一切行苦」から解放されている<
それは全く検討がつかないので
よろしかったら解説お願いします。
やはり、私の視野よりスケールがでかいですね。
外部からの力が作用として働かなければ、
そこに公式は成立しないわけです。
即ち、
作用=諸行
公式=諸法
「諸行無常」「諸法無我」というわけです。
スケーターは「一切行苦」から解放されているわけです。
その感想を書きますね。
頭であれこれ考えて書くのは
時間の無駄なので、
やってみて、体感で書くーこれが私のモットでもありますんで。
>大爆発(あえて類型的な作品。そこに失恋のエネルギーを過剰投入することでかえって批評性を獲得しようとする試み。技術的には幼稚だが我ながら行間の妙あり。コックリさん的、自動記述的な現象も初めて自覚。現存せず)の後のなんとも抜け殻のような<
上記の引用した分は
そっくり同感できる部分で、苦笑いさせられたところです。
そのそっくりの過程を体験したので、
どんな状況が文章中に蓄積されているか、想像がつきます。
書きながらイメージを追える者なら
少なくても一度はとおる橋でしょうかね。
月さんはその橋をわたり、
橋の向こう側につけたようですね。
私?橋を渡らず、
その橋の下に降りて
橋のA側、B側を観測しているところです。
その点からいうと
月さんの文学的な作業は完成度がある程度あるのではないかと思えますね。
完成されたら教えてください、読みます。
軸の力動の内力、外力に一定の説がとおらないですね。
しかし、スケートの運動性なら
内外の運動範囲は
軸、つまり軸を回す中心点(軸を回すものの意志)が
完璧にコントロールされてますよね。
そうすると、
軸からみては『他力』ですが、
軸の中心点からだと『自力』になると思うのです。
完璧なスケーターは
その軸や中心移動を自在に駆使し
その結果で
外側の人の心の中心(感動)を移動させますよね?
そうなると、個別性、一貫性というのも
軸の軌道線上に乗っかっている性質なのかなと。
と言っても、
私の支離破滅的な仮想現実仮説に付き合って頂いて
心が満たされました。
論理的に叶うかの視点より、
ある仮説から導かれた他の接点を考えてみるのも
結構、やりがいがありますね。
将来も甲斐性もない四十男になってみて、十九歳の時の自分に、創造の魔力においても単純な理想においても勝利しております。しかし二十二歳の一時期の発想力を乗り越えることはまだできていません。私の「文学」の方向性、スタイルがだいたいできたのはその時期です。前年の大爆発(あえて類型的な作品。そこに失恋のエネルギーを過剰投入することでかえって批評性を獲得しようとする試み。技術的には幼稚だが我ながら行間の妙あり。コックリさん的、自動記述的な現象も初めて自覚。現存せず)の後のなんとも抜け殻のようなどん底状態で思いがけず重要なアイデアが芽を吹いたものです。
私の願望は私の作品を座右の書にしてもらいたいということです。もっと言うと、冥途の土産にもしてもらいたいのです!
「まあ、いいんじゃないの?」と言われて終わりかねない私の作品の言葉達は、しかし誰かにとっての死という事態をその渦の中で「整理」(肯定でも否定でもなく、その人の生の本当の尊重のために)するための言葉でもあるのです。そうありたいがための産みの苦しみなのです。
「これってただの趣味だろ?」と言われることは死刑宣告に近いです。そう言われないための「アイデア」を二十四時間考えていましたが、はっきり言って皮算用だったと思います。普通の人に読んでもらいたいのに普通の人の無理解を恐れていた自分。バカでした。当たり前の歩幅をとことん美しい一歩にすることが普通の人に対する自分の仕事なのです。私の創造の泉も神通力の発生源もその場所にしかないのです。
もし、複数の他人からの評価にある程度の一貫性があるのであれば、それ以外には考えられないわけです。
確かに、天体であれば桂蓮さんのおっしゃるように、自らの軌道に乗ってさえいればいいのでしょうが、他人から「随分変わったね」と言われることを説明する為には、天体自体の軌道が一定では説明できないわけです。
軸は軸で途中から曲がりもするし、歪みもするはずです。
天体同士の接触や衝突も当然加味しなければ説明がつかないわけです。
身体的な意味において軸を意識するのであれば
スケートは役に立ちそうですね。
正に、月の軌道とVenusの周りは差があって
月『らしく』回るには
自らの軌道に乗ってればいいので、
そこから仮説を展開すると
それぞれの軌道(範囲)は
置かれているところで
回ることが回るようにすれば
月が月である、ようになるから
AがAであるにはAに与えられていることに
身を任せればいい、とのことですかね?
桂蓮さんの、桂蓮さんらしさ
榮久さんの、榮久さんらしさ
のしてんてんさんの、のしてんてんさんらしさを説明できないわけです。
軸に「らしさ」をもたらす作用が別に存在するはずです。
メール拝見して返信しておきました。
ところで、中心というのは
物質、抽象的な自分(自我)と定義よりは
その物理原理を仮説(私の味方)をたてたものです。
自分と言う意識のメカニズムを
数理学の中心点のつり合い原理に例え
その力動性を文字で書いたものです。
見方に正誤はなくて
絵の表現のように
自らが納得する方法として
文字でイメージを表した私見にすぎません。
そうであってものしてんてん様の私見も聞けて
書いた涯はありますね。
セピア色のような色彩感が文章に現れていますね。
>歴史は人間っぽい生き物であり、歴史の節目には目に見えない人間の本質が様々な形で浮かび上がるという<
うちの夫も歴史を語る時、活き活きした物語りのように話します。
で、なぜ歴史が好きなの?と何度も聞いたことがありますが、
彼は歴史から学べるからと
毎回、同じ答え方をして
つまらない理由だねと私も同じ応えかたをして
結局はそこでお終いになるのですが、
もし、夫が月のような者さんのように
>歴史は人間っぽい生き物<だと言って
そのような、昭和の面影の記憶を
無意識につなげたくれたら
私も張り切って、次々と質問して
結果的には『習う』ようになるかも、と読んでて思ってみました。
塾をやってて2年目に新しく入ってくる中学生の生徒が平成生まれになりましたね。
昭和生まれの子が、
平成生まれの子を指して、
『あの子、平成生まれなんだよ』と私に言っていた時のお姉さんのような表情が思い浮かびましたね。
あの子と小銭の昭和発行を探したりしてた想い出を読んでて思い出せました。
日本は平成31年で終わり、新元号になるようですね...それもブログ記事で分かったことですが、
平成の余韻を残してくださって
なんか切ないような、懐かしいような
とにかく風勢のコメントをありがたく受取りました。
体の軸についての内容は深いので
再読してからコメント応答をしようかなと思います。
また余計ですが、
以前に何十年もののプロジェクトをついに起動なさるようなことを書いて下さって、
私はそれが何だろうかと
気になっていますが、
訊いていいのかどうか、迷っています。
それは血縁でないと絶対に教えてもらえない特定なものでしょうね。
私が日本に住んでた時、
私は日本の伝統に惹かれて結構根ほりしたものです。
特に、代々に繋がれた技術や口で伝わる無形の文化に憧れてました。
なのに、若者はそれに価値を見つけず
目先の楽しみを追って
自分たちの世代で
旧代の無形文化を流してしまう風潮に
結構、残念だと感じてましたね。
栄久さまの文章からは
それらの無形の文化遺産が
川のように流れているように感じさせます。
今の現代は栄久さんのように
教えらたことを次世代になんとか残す、これが日本人として社会的な責任かも知れません。
中心点と軌道との間に働く向心力は何か、<
書いてた時は
Zipさんが提示した上記の設問が
仮説として念にありました。
仮説と言っても
厳密的に言うとイメージですが、
その軸の回転の力は
E=mc²です。
それを言いたかったでしたが、
>軸の外側の軌道が認識された自己
軌道の外側に離れようとする力が自我<
軸の外力=与えらた力
離れようとする力=超自我
それらを総括するのがEのエネルギーだと
描いていたのです。
というわけで、私が視た視野より
Zipさんの見方が広かったと驚いたのでしたが、
その解釈を簡潔な言葉で書けた能力に
どう応えたらいいのかと
即座に思いつきませんでした。
自我の力の原動力は
人によって定義する方法が異なるのでしょうが、
Zipさんの表し方は
それだけで完結性がありながらも
他の仮説へ導けるものがありますね。
金曜から、どのように応えるか(堪え)について
あれやこれや考えましたが、
素直に感想を述べることしか思いつかなっかたので
ベスト反応でないと思いますが
一応、私の意見として書いておきます。
追伸:おっしゃるとおり、適当に書けなくなりつつあります。
ところで、私の心の体験ですが、中心はないと思います。
中心は己が求める必要であって、己の数だけあると想像できますが、無数の中心を中心とは呼ばないというのが論理的に納得できる答えのように思えます。
己が中心という思いから地球が中心という思いに変り、太陽が中心と知識をひろげ、銀河の中心に思い至り、さてそこからどこに中心が移るのでしょうか。
それは己の内側にしても同じこと。中心を定めたら、無数の真実が歪んでしまうように思えます。
正直全てが腰、丹田、中心に感覚を集めるための方便と言ってもいいかもしれません。丹田が万能という訳ではありません。しかし丹田より頼りになるものってあるのでしょうか。丹田は(上級者なら)爆発的な力を引き起こすそうですが、上級者には深く「諦めの力」も備わるはずなのです。たとえば戦場には生き残る方法はないので、護身の最終形は死の覚悟です。それを知る人が生き残り易いのです。なにも期待していない時、案外丹田に意識のピントが合っているものです。それは頭の片隅に置いていてもいいと思います。
変化するものを同じもの、として合理化する為に時間という概念を用いるわけです。
地球において太陽の運行に一定の規則性があることを発見し、それを根拠に文明や社会というものを構築してきたわけです。
合理性、規則性は、存在することが必然であり自然だと思わせる為の人為的なものに過ぎないわけです。
軸の回転を生み出す力は、普段意識されることない意識の作用です。
しかし実際は、地球があるということも、太陽があることも、人がいるということも、これらはなんら合理的な理由もなく、たまたま存在しているだけのことです。
しかし、規則性は偶然の内なる属性に過ぎないわけですが、向心力としての同一性を確かに保証するものです。
このように、昭和の質感も、平成の質感も自己同一性の向心力になり得るわけです。
月のような者さんみたいな古参の方が、たまに
こうして正解をしてくれることが刺激になるわけですからブログも適当というわけにはいかないでしょう。
昭和天皇が亡くなった朝はたまたまテレビを付けていなくて、母親と出掛けた先の駅の売店の新聞でその事実を知りました。
昭和の最後の日に、電車の窓から昭和の初めのモダン東京を探してみました。そんなことをする10歳の子供はあまりいなかったと思います(笑)
しかし「モダン」は見つかりませんでした。たとえ昭和初期にタイムスリップしても、そこにもまた普通の雑踏があるだけだと思います。
しかし昭和の終わり頃に、「昭和初期の無意識」を写真などからも敏感にキャッチしていたことは、子供ながらに私の中にも存在した歴史的無意識がなせる技だったのではないかと思っています。
当時のモノクロ写真は関東大震災に打ちのめされた東京人のデストピア化した無意識の名残を写し出しています。しかし徐々に陽の光が差してくるような暖かみも写っているのです。光と影と活力、そのバランスの妙こそが私の感じた「モダン」の実態だったのではないかと思います。
その当時たまたま家にあって愛聴していた井上陽水の「レ・ヴュー」というベストアルバムが私にとっての「昭和初期の無意識の音」でもあり、それは日本の深い深い自然に取り巻かれている「文明人」の気持ちとしても響いていたのです。まったく偶然にも最高と言える「音のテキスト」が私の手元にひょっこり存在していたのです!
平成最初の日の朝に、昭和懐古ということで小津安二郎の「生まれてはみたけれど」が放送されていて嬉しかったです(笑)
まあ東日本大震災の時は東京も独特の雰囲気になっていましたね。そして夜になると日本の中世の無意識までが宙を漂っている気がしました。神社に行くと、神様が東北に行ってからっぽになってる…と思いました。あの時はかなり遠大な時代と時代の狭間だったのでしょうか。後になってみないと正体が分からないでしょうね。
歴史は人間っぽい生き物であり、歴史の節目には目に見えない人間の本質が様々な形で浮かび上がるという話をしてみました。
バレエで充分だと思います
何か危険を感じたら逃げる、近寄らない、と教わりました
女性と男性では体重と力の差があり
重量差がダメージに影響大です
よほど技に優れていなければ組伏せられます
まして、アメリカは銃社会
とにかく逃げましょう
私が習ったというのか
身に付けたのは祖父や父と共に
代々続いた流派の技です
銃の前には役にたちません
生き方と死に方を少しだけ受け継いだのかなと
前回の記事英文中のスペースあけミスは
未だ改訂していないのですが、
このブログ会社がリニューアルして
何やら編集機能が簡単にできなくなっているため
間違ったままになっています。
過去記事編集画面がどこなのか、探せないので
暫くそのままになっちゃいます。
まあ、いい訳ですが、ご了解ほど。
追伸2
日本で空手習ってましたが、
中心の置き方まで詳細に説明されてないです。
来週からコネチカット州にあるバレエスクール通うことになりました。
空手の道場はバレエ稽古が安定したら
通う予定です。
いつもですが、高品質のコメントを頂き恐縮です。
コメント内容が私の身の寸法(応える範囲)になくても
負けじまいと無理無理返答してきましたが、
今回はそう簡単にいかない、です。
私の視野より
遥かに遠いところを視ているようで
少し、時間のスーパンを持って
吟味しようと思いました。
思い立つものが出てきたら
その時に返答しますね。
二人とも、私の心の動きを着実に診て下さっているので、
しっかり時間をかけて
咬み下していこうと思っています。
取り急ぎ、読んだことの報告にかねて書いておきますね。
私が習った武術では足も両足均等に加重しないで
右、左と移しながら立ち、ひたすら自分の身体の内側で
起きている事象を意識してみつめ
身体を構成している無数の「パーツ」に対する
感覚を磨くことを気の錬磨とか練丹法とか伝えられ
同時に呼吸法や瞑想法等も含めて
身体感受性を伸ばすことにあると練習し
また試合というのは副次的なもので
術枝の達成段階のチェックとして
ときたま行うものでした
この「意識」という言葉
読み散らした現象学や仏教の書物
とくに唯識論と「意識の経験の学」としての
ヘーゲルによって確信を得
よっし見えた ━━ と思ったのだろう
だが「私の意識」
この「私」という語に違和感が ━━
すべてを認識できる意識であるところの私
しかし「私」と「意識」の語がうまく重ならなくて
永く納得できないでいた
「魂」という語が突然浮かび
この語と「私」が重なるのかな と思うこの頃です
軸の外側の軌道が認識された自己
軌道の外側に離れようとする力が自我
軸の回転を生み出す力は何か、また
中心点と軌道との間に働く向心力は何か、
ということです。