私の英語はほぼ独学である。
Most of my English is self-taught.
日本や韓国の学校で習った英語は
成績や受験のためには役に立ったのたが、
いざその知識を活用しようとすると逆に邪魔になる。
The educated English I learned at schools in Japan and Korea
was useful to get scores and passing exams,
but at a moment I try to use it practically,
it interferes conversely.
実際、アメリカ住まいになってから、
人と話す時に、一番厄介になるのは、文法の知識である。
In fact, since I live in the United States,
the trickiest thing I ever have is
the knowledge of grammar when I need to talk with people.
話す内容を掴まえる前に、主語や動詞を考えてしまい、
疑問文か肯定文かを判断したりする際に
もうすでに何秒か経ってしまうのである。
When the time to talk about a topic,
before grasping the whole picture of I am going to speak,
I instantly think which subject and verb I should use appropriately,
and moreover, I have to decide
which I rather make interrogative or affirmative sentences,
while I am judging such grammatical constructions,
time already has passed a few seconds.
人と話す時に、だったの1秒の遅れは致命的な支障になる。
When you talk with people,
just a one-second delay can be a fatal obstacle.
人に質問されて、だったの1秒や2秒の遅れでも、
その時点で相手が返事を待つことになり、
その上に相手に忍耐を要求することになる。
Even one- or two-seconds delay on the answering for the asking,
the listener has to wait for the response for the moment
and top of that, it requires the patience of the listener.
運良く、相手が1秒や2秒の遅れでも構わず、
待っていてくれても、
その瞬間だけは何とか凌ぎつなぐことはできるが、
問題は次にもそのようにまた待ってもらえるかなのである。
If the listener does not mind waiting for one second or two seconds,
fortunately, somehow you can manage to pull through only the moments,
but the problem is the same delay will happen again
and others would bear or not.
一度や二度、我慢強く待っていてもらっても、
それがずっと続くとなると、
お互いにとって会話がストレスになる。
Once or twice people can wait patiently,
but when it comes continuous for long,
the conversation will be stressful for each other.
しかも、考え抜いて、
文法的に正しい語順を頭で構造的に作り上げたとしても、
肝要な内容がもう注意から外れてしまっているので、
自分が何を言おうとしたか忘れてしまう可能性が高い。
Moreover, even though if you think thoroughly about the topic
and built up grammatically correct word orders to talk in your head,
but the crucial contents that you were trying to say
are taken out from the attention already,
so it may accrue forgetting what you really arguing about.
私は人を待たせるのが大の嫌いであるから、
瞬時に話せないと思われる話題には、
できるだけ短く応じるようにしている。
I hate letting people waiting for me,
so I intend to respond shortly as possible to topics
that I may not be able to have a conversation with instantly.
人と話すというのは、
其の人特有の考え方や感じ方を交わすのであり、
正しい知識を交換することでないのに、
習った文法が本来の話すことを邪魔する。
Talking with people is exchange ideas and their own ways to feel peculiar,
so it is not an exchange of correct knowledge
but educated grammar interferes with the originated speaking.
恐らく、私のような非英語圏で
学校の教科として英語を習った者は、
文法的に間違うことは大きなNOとして脳に刻まれている。
Perhaps someone like me
who learned English as one of the curricula at school
in countries where non-Anglosphere,
probably mistaking in grammar
would have been carved as a big NO in their brains.
文法的に間違うことは、テストで誤答、
つまり✗をされるのと等しく、
合格すべきテストに落ちるのと同格である。
The grammatical mistakes equal to the wrong answer for a test
and it means marked incorrect ✗
and failing the test which should pass.
その学習の背景から、
非英語圏の人は文法的に間違うことに
完全なる抵抗感があるのである。
From such a background of learning,
non-English speakers have the perfect reluctant feeling of
making grammatical mistaking.
更に、ほぼ間違いなく間違う確信はあっても、
間違わないで話せる自信感が全く無い状態では、
話すことが根本から成り立っていない。
To add to it, non-English speakers have the assurance
to speak mistakenly without a doubt
and they have no confidence to speak without making any mistakes,
so the conversation would not be formalizing fundamentally.
以前仕事で、日本で大学院まで卒業した人の
試験論文を添削したことがあった。
I had a correct sentence work before
for a client who graduated from a graduate school in Japan
for his treatises to submit.
その人が書いた英文は、単語の使い方が
ツギハギで表現様式がバラバラだった。
His written English sentences were like
patching and darning in the usage of words,
the writing style was scattered in pieces.
彼の文は基礎レベルの簡単な文章に、
難易度の高い単語が突然表れて、
前後の文脈が途切れてしまっていた。
His sentences were structurally basic with easy level words
but suddenly some high level of words came up from nowhere,
so the consequences of the context were cut off in the way.
論文形式で一貫させなくてはならないのに、
突如会話文のような口語体が使われていて、
使い分けが混沌していた。
Although he had to stay in the way consistently to keep the treatise format,
suddenly spoken style such as conversational sentences popped up
so the whole word usage was chaotic.
文全体にも、自らが書いた和文をグーグル通訳した感じを強く受けた。
From the whole sentence,
I strongly felt that he must have used Google translation.
その文を修正しながら、
日本の教育システムや受験英語の問題を痛感したのである。
While I was correcting and rewrite his sentences,
I keenly have aware of the problems
in the education systems and English exams in Japan.
実際、グーグル通訳や他のウェブ通訳アプリケーションは
非常に実用的で実践的である。
In fact, Google translation and other webinar translating applications are
pretty practical and useful.
だが、プログラムされたコンピューターシステムであることから、
単語や文を読み取る性質もアルゴリズムによって処理される。
However, because it is a programmed computer system,
the property of reading sentences and used words are conducted by algorithms.
いくら優れた通訳ソフトウェアだとしても、
まだ機械は人間のセンスを超えることはできない。
No matter how the translation software is excellent,
yet the machine never goes beyond the human sense.
現存のウェブのツールをより効果的に使えるにも、
言語センスを磨く必要がある。
To use web tools effectively in the current web world,
we need to refine the language sense.
言語センスを磨くためには、
文法を本来あるべき骨組として正しく立たせなければならない。
In order to cultivate linguistic sense,
the grammar must build up correctly
as skeleton structure as it should be.
肉付きのない骨が先に行ってしまうと
会話は不気味なホラー映画のようになるのである。
If the fleshless bones go first,
the conversation becomes like an eerie horror movie.
追記Postscript
今度の記事はその根源にある根っこだけ扱うにも、
実用英語の現状と英語教育背景が複雑に絡まっているため、
数回に亘ってシリーズにしていく予定です。
For this article to dig out the roots fundamentally for the starting,
the practical English and the background of the English education system
are intricately entangled,
so I will write as a series several times.
ダンテの詩句の一部で
和訳では「天から降りてくる・・・」
「りんご」という文字や
それを読み上げた音列と
りんごの存在自体とを結びつけているのは
社会的な約束事のみ
異なった言語を知ることは
異なった世界の見え方を会得すること
お互いに
文化の違いを実感する
異邦人の感覚が
りんご
Apple
それらが同じ物の名詞ですが、
榮久さんには
フランス語が私にとってサグァに入れ替えるですよね。
実際、私には
リンゴやアップルよりは
サグァと発音した時に
リンゴの味がして
無条件反射がおきますね。
梅干しかレモンか
まだ温度の摂氏と華氏
マイルとキロ
パウンドとグラム
インチとセンチ
フィートとセンチメートル
などが完全に換算されていないので、
一々変換しないと感覚が掴めないので
異邦人、ですね。
夫も未だに
私と間逆な立場なので、
私の距離、重さ感覚を共有することができないでいます。
異邦人を感じる、現実に感じさせるのは
それらの測量法ですね。
お互い異邦人
スケールを感じ取るスケールが同じであって
また異なりますよね。
やっと今年やるべき仕事がほぼ終わりました。
なので、あなたに会いに来ました。
まずはエリックの勇気に乾杯します。
いつか二人でパドドウを踊るかもしれませんよ!
そして、これは私にとって非常に興味深いテーマです。
今、自分の小説を自分で翻訳する“実験”をしています。
まず翻訳ソフトを使って翻訳しますが、多くの部分を修正しなければなりません。それから中国語の先生と相談しながら、細かい表現をブラッシュアップしていきます。
その過程で、日本語で書いた時には、それほど気にしていなかった場面や動作なども、細かく設定しなければなりません。
日本語はかなり曖昧で、中国語は非常に具体的です。
たとえば、
「彼は答えなかった」のような文章も、
「知らなかったので答えられなかった」
「答えたかったが、事情があった答えられなかった」
「答えたくなかった」
「答える気がなかった」
「答える勇気がなかった」
などなど……を選択して訳さなければなりません。
表現自体を変えたり、削除したり、加えたり、文章の順番を変えたりもします。そしてようやく、ほぼ原文と同じ印象を与えられるようになります。
こんなに大変だとは、始める前は実は思っていませんでした!
そんなわけで、英語の勉強はしばらく中断されています。
忙しかったのでしたね。
その実験、私がやっているのと類似しているかも。
それにしても、中国語が具体的だとは初めてききました。
そんなに、主語と述語の間に修飾語がいっぱい入るとは、知らなかったです。
ハングル(韓国語)も
彼女がきいた、との文が
疑問文にも肯定文にも説明文にもなるので、
前後関係把握が要求されます。
場を読み取らないと
一つの文章や会話を理解できないような感じですかね。
だからか、韓国人は(大概ですが)
空気を必要以上に読み取るのです。
大学で韓国からの留学生が3人いましたが、
その中で空気を読めない者がいて
(クリスチャンの盲目信者だった)
仲間外れされた子がいましたね。
でも、あの子を偶然に再会しましたが
彼女の通う教会の仲間同士では
凄く場馴れしてましたね。
話がずれましたが、
実験のデータ、バンク(Bank)にまで発展できること祈っています。
いつかズームで会いましょうね。
言語に関する話は大好きです。
どこかに旅行する時、私は、そこが新潟であろうと、フランスであろうと、
その土地の言葉で話せない事をストレスに感じます。
そのため、私の部屋には、方言や外国語のテキストがたくさん積まれています(日本の古文書も!)。
韓国に行った時も、韓国語を少し覚えて行きました。
「トッキガチュワヘヨ~」とか?
簡単な内容ばかりですが、通じると本当に楽しいし、嬉しいですね。
もっとも、ベルギーでベトナム人と中国語で話した時も、また格別の面白さがありました。
我々は会った時に、やはり日本語で話しますよね……私の方が楽をして申し訳ない!
KYは日本だけでなく、韓国でも不可欠のスキルなんですね。
「同じ国の人間なら、分かり合えるはず」(家族や、教会でのように……)
我々のこの感覚は、言語の変化(おもに省略)に影響を及ぼし、
さらに空気を読むことを求めてきます。そして、さらに省略……。
日本人はそのうち「ヤバイ」と「カワイイ」しか使わなくなるかもしれません。
中国では、誤解をされないために、はっきりと表現する必要があります。
なにかに誘われた時の、「行きたい」も、「行けたら行きたい」のか「喜んで行きたい」のか。
そして、そういう具体的な「気持ち」は、だいたい漢字一文字か二文字の助動詞で表現されます。
そんな“深み”を知ってから、面白い気持ちは増しましたが、注意深くもなりました。
(翻訳ソフトで修正が必要なのも、たいていこの“気持ち”部分です)
英語はどうですか?
私は飛行機などで英語を話さなければならない時、
表情とかイントネーョンが大げさになってしまいます。
貧困なボキャブラリーをそれで補おうという自然な反応なのですが、
日本語しか話さないパートナーは、「よくやるね~」と笑っているようです。
同じように、日本語は静かに話すし、中国語は声が大きくなります。
今後も我々の実験を進めていきましょう!
言語に深い興味があったのでしたね。
情熱を感じます。
情熱は全てが燃え消えた時に、その根っこにまだ生き残っていること、だと誰か定義しましたね。
言語に対する情熱は
持ちたいと願って持てるものでないですよね。
お腹すいた、食べたいことに
理由や理屈が無いことに等しく
情熱が燃えることに
何の理屈が必要ないですよね。
朱夏さんが初めて私のブログにコメントしてたときの私が受けた初印象を今でもはっきり覚えています。
極めて撰びぬいた言葉使い
絶対的に洗いあげた無菌さ
完璧なほどの表現
絶対に自分の欠如を認めない決断力
そういうのがありましたね。
そのような完全性を持つために
時間を惜しまない、気高さがありましたね。
そういうのは
バレエを極めようとする姿勢にも
表れています。
そのピルエットの感じから
正しくなりたいという心が表れていました。
英語は、そうですね。
伝えようとする気持ちは
絶対に、伝わる、と思います。
それは片語で話す日本での外人に対する日本人の印象と少し違うでしょうけど、
自分の口で話す、それこそアメリカ人魂ですしね。
でも何より
中国語の先入観がありましたが、
正確な情報を伝える言語であることを教えてもらって、ありがたいです。
4日のブログの最後が
> 数回に亘ってシリーズにしていく予定です。
となっていますのに、その後の続きの投稿がございませんので、わたしが余計なことを言ったためだろうって心配しています。
桂蓮さんはこれまでの豊富なご経験から言語通訳ツールの脆弱性についてお話しなさったわけですから、わたしのような朴念仁の言ったトンチンカンなことなんか気になさらないでしっかりと前を向いてこれまで通りに元気にブログを続けていってください。