はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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No.44 気一元論と理気二元論

2008-08-21 19:46:32 | 気・五行のはなし

伝統医学が基づく存在論には大きく分けて二種類あります。それは「気一元論」と宋代では画期的であった「理気二元論」です。


中国では古来、気一元論が伝統的であり、それは「天人相応」思想と密接に関係しています。


「生や死の徒なり。死や生の始めなり。孰か其の紀を知らんや。人の生は、気の聚まるなり。聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る。若し死生が徒為らば、吾又何をか患えんや。故に万物は一なり。是れ其の美とする所の者は神奇為り。其の悪む所の者は臭腐為り。臭腐は復化して神奇と為り、神奇は復化して臭腐と為る。故に曰わく、天下を通じて一気のみと。聖人は故に一を貴ぶ」(『荘子』知北遊篇、小川環樹訳より)


と、『荘子』にあるように、紀元前から、人は気が集まったものであり、自然界の全てのものも同じであると考えられていました。生死も美醜も同じものの変化として捉えられていました。そこには根源的な一つの構成要素を仮定し、自然・生態系の中で循環するというヘラクレイトス(註1)の思想と共通点が見られます。これは宋学では張横渠(1020-1077年)の思想に引き継がれていきます。


「形よりして上なる者、之を道と謂い、形よりして下なる者、之を器と謂う。」 (『易経』形而上より)


「天地宇宙の間には、形あるものと形ないものとがある。五感によってとらえられるものは形より下にあるもので、器といわれ、それ以上のものは、形のないもので、道という。現象を超えたもの、または現象の背後にあるもの、根源的なものを研究対象とする学問を形而上学と呼ぶのは、これから起った。」(諸橋轍次『中国古典名言事典』より)


朱熹(1130-1200年)は程伊川(1033-1107年)の思想を受け継ぎ、この『易経』の言葉の中の「道」を「理」、「器」を「気」と定義しました。理も気も共に存在するものですが、理は非物質であり、気は物質です。これを理気二元論と呼びます。


現代の自然科学の中にも無数の法則や原理、定理が存在します。それらは形はありませんが、無いことを疑う科学者はいません。それを物質から独立させたのが朱子学のようです。


さてこの気一元論と理気二元論はどちらが正しいのでしょうか。どうもどちらも正しいように思えます。それはものごとを観察する視点が異なるというよりも、数えている対象が異なるのかもしれません。譬えると同じサイコロがあっても、一方はサイコロそのものを数え、もう一方はサイコロの目を数えているようなものです。


理気二元論は次第に気と理の価値の比重が変化していきました。人々の中で形而上的な理を重視する傾向がでてくると、現実をありのままに見れなくなり、現実が非有機的なものとなります。これが医学(例えば後期の後世方医学)の中で起こると悲劇が生じ、またそれが空理空論などと批判される対象にもなります。この問題は現代の医療界でもあるかもしれません。


(註1)ヘラクレイトス(BC540-480年頃): 古代ギリシャの哲学者。、「万物は流転する(Panta rhei)」の言葉で有名です(が本当に言ったかどうかは分かりません)。


(ムガク)


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