はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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008-本居宣長と江戸時代の医学―医学と和歌1/2―

2013-08-24 22:28:34 | 本居宣長と江戸時代の医学

Kusuribako

 伊勢は松阪、蒲生氏郷の築いた松阪城跡の一角に本居宣長記念館があります。そこには宣長の使用していた往診用の薬箱(久須里婆古)が展示されています。宣長はこれを持ち歩き医業に励んでいたのですね。

   さて、この薬箱の中には薬包がきちんと整理されて、一包毎に薬の名前が記されて入っています。一段目から見ていきましょう。

  葛・朴・防・雪・苓・童・芋・薑・茈*1・桂
圖・薑・茈・芍・精・葛・蕗・皓・苓・田

  Kusuribako1
*1 茈: 艸カンムリ+此 (注: 文字が消えている場合はUnicodeに設定してください)

   とありますが、これらはどんな薬か分るでしょうか。分らなくても大丈夫です。おそらく一見して全て分かる人は専門家の中でも数える程かもしれません。どうしたらそれらの薬が何であるか知ることができるのでしょう。どうぞご安心を。中身を取り出して分析しなくても、誰でも簡単にそれらを知る方法があるのです。

   宣長は医学を学んでいる時、『折肱録』という名の勉強ノートを作りました。このノート名は、『春秋左氏伝』定公にある「肱を三折して良医と為るを知る」から取られています。これは、「張仲景傷寒論摘方」と「同・金匱要略摘方」、「眼科秘書」と「一本堂家方抜粋」そして「方剤歌」、および他の雑多な処方から成っています。『傷寒論』や『金匱要略』は、宣長が古方派たちが彼を視ること「神のごとし」と言った、張仲景が著した医書であり、「一本堂家方」というのは香川修徳の家方です。またこれと別に『方剤歌』と『方彙簡巻』という処方集も作っています。これらを読んでまとめれば一目瞭然なのです。

   例えば、『方彙簡巻』に、「四君子 【彡伽匿甘】」とありますが、この「四君子」とは「四君子湯」のことで、これを構成する生薬は、「人参・白朮・茯苓・炙甘草」です。なので「甘」は「(炙)甘草」を意味していることが分りますね。また、きっと「彡」は「人参」の「参」の省略形でしょうが、確定するにはまた別の処方を比較する必要があります。「四君子」の隣には「六君子 【皓田四君子】」とあり、「六君子湯」という処方は「四君子湯」に「陳皮」と「半夏」を加えたものなので、「皓」と「田」はそれぞれどちらかを意味しています。また「二陳 【皓田匿甘】」というのもあり、「二陳湯」というのは「陳皮・半夏・茯苓・甘草」から成り立っているので、ここで「匿」が「茯苓」であること、「伽」が「白朮」らしいことが分ります。このようなことを続けていくと、ほとんどすべての物が特定できるのです。

   ということで、薬箱の一段目は、

  葛(葛根)・朴(厚朴)・防(防風)・雪(桑白皮)・苓(茯苓)・童(青皮)・芋(沢瀉)・薑(生姜)・茈(柴胡)・桂(肉桂・桂皮)
圖(桔梗)・薑(生姜)・茈(柴胡)・芍(芍薬)・精(蒼朮)・葛(葛根)・蕗(甘草)・皓(陳皮)・苓(茯苓)・田(半夏)

   と判明しました。では次に宣長が「一本堂家方抜粋」をどう書き記したか、その一部分を見ていきましょう。

 順気剤 匿 田 洞 淡 甘 姜
潤涼剤 匿 嬴 文 理 井 甘 姜
解毒剤 土ヘン+匿 翁 忍 芎*2 軍 (「甘」の書き洩れ有り)
敗毒剤 莞(「茯」の書き間違い) 揺 吉 芎 洞 周 甘 姜

  *2 芎: 艸カンムリ+弓

   とありますが、修徳の『医事説約』を見ると、

順気剤 茯 半 売 厚 草 姜
潤涼剤 茯 果 芩 知 膠 甘 姜
解毒剤 茯 通 忍 芎 大 甘
敗毒剤 茯 獨 桔 芎 枳 柴或は升に代う 甘 姜

   とあり、また他の部分も比較すると、宣長はこの『医事説約』を書き写したことが推察できます。ちなみに、修徳の敗毒剤の処方で、「柴 或は升に代う」とある所は、本来は「柴胡」を使い、時には「升麻」に代えても良い、という意味なのですが、宣長は柴胡は無視して「周(升麻の略)」を記していますし、また処方を書き違えた所があるのですが、それらはここでは問題ではありません。それぞれ生薬の名の省略の仕方を比べると、

  茯苓(匿・茯)、半夏(田・半)、枳実(洞・売)、厚朴(淡・厚)、甘草(甘・草)、生姜(姜・姜)
栝楼*3(嬴・果)、黄芩*4(文・芩)、知母(理・知)、阿膠(井・膠)、木通(翁・通)、金銀花(忍・忍)、川芎(芎・芎)、大黄(軍・大)、獨活(揺・獨)、桔梗(吉、桔)

*3 栝: 木ヘン+舌
*4 芩: 艸カンムリ+今

   とあり、大部分は異なっています。では、なぜ同じ生薬なのに人それぞれ違った名前に代えるのでしょうか。これが中国だったらそうはならないのです。産地や性質などにより生薬の名を変えることはあっても、歴史的民族的風土的に異なる生薬の名前が残ることはあっても、その名を積極的に使用することはありません。あらゆる医書は例えば「葛根」をあくまで「葛根」と書き表すのです。しかし、なぜ日本ではこうなるのでしょう。生薬名の略し方を見ると、大きく分けて三種類あります。

(1) 生薬名の中から文字を一つ(三文字以上では複数の場合もある)抜き出す。(例:葛根→葛)
(2) 生薬の別名の中から文字を一つ抜き出す。(例:桑白皮→延年巻雪→雪)
(3) 生薬名の中から文字を一つ抜き出し、それを同じ意味(または音)を持つ別の文字に置き換える。(例:茯苓→茯→匿)

(注) その後、さらに文字を省略することもある。(例:人参→参→彡)

   (2)については、生薬の名前が日本の人々にとって外国語であり、その翻訳を行ったため、ということが考えられます。例えば、「桑白皮」を「雪」と略したのは、その別名が「延年巻雪」であったためであり、「青皮」を「童」と略したのは別名が「童皮」、「沢瀉」は「芒芋」、「桔梗」は「房圖」、「蒼朮」は「山精」、「甘草」は「蕗草」、「陳皮」は「皓隠」、「半夏」は「守田」などとそれぞれが別名を持っていたのです。実物を想起しやすい名前を使用することは、医学薬学の普及や教育にとってメリットが多いものです。しかし、なぜ略したのか。その歴史は江戸時代よりさらにさかのぼりますが、省略は他の人にとって理解できなくなったり、誤解を生む可能性もあります。ここで『方剤歌』に移りましょう。

   宣長は、『折肱録』に「方剤歌」を80首、そして別の独立した『方剤歌』には54首を収載しました。これは何を意味しているのでしょうか。「方剤歌」は、『折肱録』に他の抜粋と一緒に載っていることから、またそこに「春庵撰」と記されていることから、宣長が創作した歌ではなく、以前からすでに有ったものと推察できます。また宣長は80首の中から54首を選び、それを『方剤歌』としてまとめているのであり、ここに宣長のそれらを記憶しようとする意志を感じますよね。

   「張仲景傷寒論摘方」や「同・金匱要略摘方」、「一本堂家方抜粋」などを『折肱録』に書き写すことと、『方剤歌』を新たにまとめ直すことは目的が異なります。前者は、自分が所持していない書を、その内容を忘れた時にそれを見て思い出すことが目的であり、後者は、その内容を忘れないように記憶することが目的なのです。なぜそう言い切れるのか、例えば『方剤歌』の第一首を見てみましょう。

  参蘇
参蘇飲 二陳葛根 桔梗しそ 人参前胡 きこく木香

   この歌の意味は、参蘇飲という『和剤局方』に収載されている処方は、二陳湯(半夏・陳皮・茯苓・甘草)に、葛根・桔梗・紫蘇・人參・前胡・枳殻・木香を加えたものである、というものです。このまったく風雅の趣を感じることも何の感動もない歌は、単なる語呂合わせと同じ、処方を記憶するためだけのものです。参蘇飲のようなあまり複雑ではない処方であれば、生薬名を省略する必要もありませんが、それが複雑になるとどうなるのでしょう。『方剤歌』の二十八首を見てみましょう。

  防風通聖
芒消に わうごん芎歸 麻苛堯兌 伽軍吉丹 餘液荊防

   これは、防風通聖散という『宣命論』にある処方で、芒消・黄芩・川芎・当帰・麻黄・薄荷・連翹・石膏・白朮・大黄・桔梗・山梔子・芍薬・滑石・荊芥・防風から成り立っている、という歌です。これはもう、名前の省略法を知らない人が見たら、きっと歌の意味は何も分らないことでしょう。しかし、ここに省略することのメリットが一つありましたね。そうしなければこの歌は創れなかったのです。

   ここにおいて日本の詩歌・和歌について考えていく必要が生まれました。三十一文字に意を込め、俳句ではもっと短く十七文字であり、そんな詩歌の形態が日本人を魅了してきました。多くの国々では、言葉を尽くし、その結果、文字が多くなってもそれを厭わないような詩が非常に多く残されており、それらをながむると、その作者たちは多くの人々からの理解、共感を求め、また影響を与えたいと望んでいるように感じられるのです。最近では中国でも「漢俳」のような短い詩がありますが、これはやはり日本との交流や相互理解を目的に始められたような印象があります。しかし、日本では異なります。彼らは多くの人々からの理解、共感を求めることはなく、歌は自然な感情の発露であり、求める理解や共感は、一あるいは少数の、特定の人またはコミュニティーからのものなのです。この潜在意識にある働きが、日本仏教や諸芸学問のあり方をも決定してきたのであり、これは現在も続いていることなのです。

   ということで、この生薬の名前の省略も、その働きの一つなのです。彼らは書き記した処方が多くの人に理解されることを望んでおらず、ただし理解されたくないとも思ってなく、ただ無意識に、また伝統に従っていたのです。省略するにも上記のようなルールがあるのであり、流派が異なればルールの選択傾向も異なるのです。

   さて『方剤歌』を見ていくと、そこにはいわゆる後世方派の処方が書き連ねられているのですが、『折肱録』には、「張仲景傷寒論摘方」や「同・金匱要略摘方」、「一本堂家方抜粋」などいわゆる古方派の処方が書かれてあります。いったい宣長はどちらの派閥に属するのか、それともどちらにも属さないのでしょうか。

  つづく

  (ムガク)



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