「実家を壊したとき、こっちに持って来た物があったよなぁ」
7月に見舞った叔母が亡くなり、関わりのあるものがあるかと思い物置を調べていたら、
叔母のものはありませんでしたが、こんなものが見つかりました。
中を開くと、親おそらく母がつけていたと思われる家計簿でした。
記録されていたのは、昭和31年11月から34年9月まで。ただし完全に記録されていたのは、昭和32年と33年の2年間のみ。
当時、わが家は6人家族。父母、祖母に子供3人。
田んぼや畑はありましたが、農業だけでは生活ができないため、父は小規模な養鶏を営みながら卵を出荷し、競馬場の印刷事務に不定期で勤めていました。
収入は、月平均で昭和32年(29,977円)、33年(32,740円)。 養鶏が主で、競馬場が従。この2つからの収入が約半分で、それ以外からも額は少ないながらもちょこちょこ。またガリ版の印刷技術を生かし、町役場や地域から請け負う仕事も増やしつつありました。
支出は、毎月出ていっていたものは肉・魚などの食料品、子供用品(菓子・玩具・衣料)、薬・通院・散髪など医療衛生費、鶏の飼料代、電気代、新聞代、ラジオ聴取料※にラジオのローン…。
※昭和43年に廃止されました。
次年度への繰越金は、昭和32年(3,300円)、33年(626円)。
以上から見えてくる生活は、現金収入と田んぼや畑からとれる米・野菜で何とか生活していく、自転車操業の生活でした。
でも、わが家が地域で特に貧しいという訳ではありませんでした。
昭和31年、政府は「もはや戦後ではない」と宣言しましたが、地方の農村部では、そういう言葉とはかけ離れた生活がまだ一般的だったのでしょう。
家計簿は、昭和31年11月に始まります。この年、妹が生まれて子供が3人に増え、家計が心配になり、つけ始めたのでしょう。
その家計簿、昭和33年12月まではきちんとつけられていましたが、34年になると収入と支出のみが記録され、差引残高は記入されなくなりました。
家計の収支のおおよその見通しがつくようになったためか、病気がちであった母の体調が悪化し、きちんと記録ができなくなったのか…。昭和34年9月10日を最後に、家計簿の記録は止まりました。
家計簿が止まった3年後、母は34歳で亡くなりました。
家計簿がつけられていた時期の記憶は、ほとんどありません。叔母が亡くなったのを機に、家計簿からその頃のことが少し想像できました。