ヤフーオークションで雑誌を一冊、競り落としました。競り落としたといっても、競合者はいませんでしたが(1000円。送料無料)。
手に入れた雑誌はこれ、『旅』(昭和30年4月号)。
「昭和30年かぁ、生まれた年だなぁ」
実はこの雑誌、興味深い一文が載っているんですね。めくってみると、
日焼けして薄茶っぽくなった紙面に、松本清張『ひとり旅』の文字。
興味深い一文とは、これでした。
松本清張は戦後、朝日新聞西部支社に復職しますが生活が苦しく、箒(ほうき)売りのアルバイトを始め、北九州から中国地方、関西方面に売り歩きました。その時の一コマが『ひとり旅』に描かれています。
それによると、
その日清張は、昼過ぎに広島を芸備線で出発、父の出身地鳥取へ行く途中、山の中にある備後落合駅で下車し、駅前の宿で一夜を過ごすことになります。
(『読売新聞』)
「備後落合という所に泊まった。汽車はここまでだった。小さな宿屋で谷の底のような場所である。一部屋に案内されたのではなく、八畳ばかりの間の真中に掘りごたつがあり、七八人の客が四方から足を突っ込んで寝るのだ。夫婦者もいれば見知らぬ娘も交る雑魚寝であった。朝の一番で木次線で行くという五十才ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に目が覚めた。」(『ひとり旅』)
「出雲で東北弁」。この備後落合での経験が、のちの名作『砂の器』につながります。
この備後落合駅、への次郎も思い出があります。
中学校2年生(昭和44年)の夏、学校行事の一環として道後山にキャンプに行きました。最寄りの駅から福塩線に乗って北上、塩町駅で芸備線に乗り換え、道後山駅に向かいました。 道後山駅の一つ手前が備後落合駅。ここは芸備線に木次(きすき)線が交わる中国山地の要衝、しかも単線によるすれ違いのために列車はしばし停車します。ホームには降りられませんでしたが、山の中にしては大きな駅構内を車内から見回した記憶があります。
その2年後の高校1年生(昭和46年)の夏、中学校の同級生数人と、同じところにキャンプに行きました。この時は備後落合駅のホームに降り、列車が出発するまでのわずかな時間、構内を見て歩きました。その時の写真がこれです(撮影場所●)。
写真左端の建物は駐泊所?、右は機関車車庫、中央はディーゼル機関車DE10。写っていませんがDE10の背後には、転車台もありました。当時、ホームには立ち食いそばの店もあったんですよ。
キャンプからの帰りの写真もありました(撮影場所●)。芸備線のホームに入ろうとしている列車から撮ったものです。
前方はすれ違いのために芸備線のホームに入っている貨物列車です。写っていませんが、貨物列車の右奥に木次線のホームがあります。
この写真、よく調べたら松本清張が一夜をとったあの旅館が写っていました。どれかというと、右端の大きな屋根の建物です。ここで清張は、『砂の器』のヒントを得たんですね。
大学生の夏休み、実家から東京に戻る際、福塩線から芸備線・姫新線を乗り継いで、姫路から新幹線に乗りました。その時も備後落合駅のホームに降りましたが、それからもう、半世紀近くになります。
高校2年生の時にキャンプに行った友達の写真を見ながら思いました。
「備後落合、どうなっているかなぁ。友達はどうしているのか…」