駄楽器駄日記(ドラム、パーカッション)

ロッキンローラーの打楽器日記

初めて買った歌謡曲「平山三紀/真夏の出来事」(71年)

2021年03月08日 | オールドミュージック
平山三紀 - 真夏の出来事(71’)


3月8日(月) 本日のJOG=45分
子供のボクは、歌謡曲より洋楽が好きだった。生まれたての小鳥が初めて見る動物を親と勘違いして懐くというが、ボクは初めて聞いたベンチャーズの洗礼を受けたせいなのかどうか、ロックぽいビートが効いた洋楽が好きだった。
しかし、歌謡曲の中でも、小学校の高学年になった67年ぐらいからはグループサウンズが流行して、ビートの効いた曲がヒットしていた。
6年生の時にピンキーとキラーズの「恋の季節」(68年)が大ヒットした。ボクも大好きでクラスの中で皆で歌ったことを覚えている。ただこの時はステレオなどは持っていなくて、レコードを手に入れるなどということは考えてもいなかった。

中学2年の時にわが家にステレオが来てからは、小遣いを貰うとレコード屋に走って面白そうな新譜を探すことが多くなった。
ある日、最新の入荷したてのレコードの中に、平山三紀の「真夏の出来事」(71年)があった。歌謡曲だけど、イントロのリズムが洋楽のように印象的で気に入って買ってきた。
鼻にかかった歌声がたまらなく好きで、ボクは毎日この曲をかけて何度も聴いていた。
作詞橋本淳、作曲筒美京平のこの曲はやがて大ヒットした。

このレコードは、ずっとあとで自分が引っ越しした時に豊橋のラビットフット・レコ―ドに売った。当時この曲はけっこうな高値でやり取りしていたころだったけれど、売値は安かった。
平山三紀さんは、ばんばひろふみと結婚したことも知られていますが、のちに離婚したようです。
今では平山みきと芸名を改めて、歌謡曲というよりもポップス界で精力的に音楽活動を続けています。
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初めて買ったレコード「ジョーン・シェパード/サマー・クリエーション(夏の日の出逢い)」

2021年03月07日 | オールドミュージック
3月7日(日) 本日のJOG=45分
人の話で、「自分が初めて買ったレコードはビートルズのアルバムだった」とかよく聞くけど、ボクが初めて買ったレコードはアルバムじゃないんだな。
ジョーン・シェパードの「サマー・クリエーション」(71年)というシングル盤だった。

Joan Shepherd/サマー・クリエーションSummer Creation(夏の日の出逢い)


親戚の家にはステレオがあっていつも聴かせてもらいに行っていたんだけど、ウチにも欲しいと親にずっとねだっていた。
親も困っただろう。貧しい若夫婦には洗濯機だの冷蔵庫だの白黒テレビだの、三種の神器をやっと揃えたと思ったら、次にカラーテレビだったり薪で炊いていた窯や風呂をガスや灯油式に改装したり、クルマも欲しいなど余裕などなかった。
中学2年の時、成績が上がったらの約束だったような気がするが確かじゃなけれど、母親と電器屋にステレオを買いに行った。母が選んだのは一番安かったサンヨーのOTTO(オットー)という4CHステレオだった。ビクターやテクニクス、日立ローディーなどは高くて手が届かず、パイオニアやトリオ、山水のステレオは高根の花だった。

わが家にステレオがやってきた日はかけたくてもレコードがなく、その翌日レコード店へ買いに行った。
レコードは自分の小遣いで買ったので高いアルバムは買えない。その時のいちばん新しいレコードが、テレビで化粧品のCMで流されていたサマー・クリエーションだった。ちょっとおしゃれな曲だなと思い、たしか400円で買ってきた。嬉しくてワクワクしながら針を下したことは忘れない。けっこうヒットした曲だったけれど、それから自分はすぐに飽きてしまってあまり聴かなくなった。このレコードは、ずっとあとで自分が引っ越しした時に豊橋のラビットフット・レコ―ドに売った。

その後、ジョーン・シェパードは千昌夫と結婚して、売れっ子となりTVによく出ていたが、離婚してからはハワイに移住したという。キレイな人でした。
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大好きOldies(その5:憧れのドラム)

2021年02月27日 | オールドミュージック
2月27日(土) 本日のJOG=45分
当時、通学路にあるレコード店は楽器屋も兼ねていて、店頭にヤマハのドラムセットが飾ってあった。
憧れのドラムセットを生で見られる場所はここだけで、ちょくちょく寄り道してウインドウを眺めていた。当時のヤマハの機種は1967年発売の「D20」ということになるが、色が明るかった気がする。何にしても手の届かない、神々しさがあった。
ボクはそこで初めてスティックを買った。300円だったような、そんなに安く買えなかった気もする。

ある日、学校の帰り道に、自分の家の近くの民家でエレキバンドの練習をする音が聞こえて釘付けになった。GSなのかインストだったか覚えていないが、とにかく生ドラムの音にシビレて動けなかった。暫くして練習の音が止んだ。ガラス窓の向こうに立ち尽くすボクを見つけて、中からお兄ちゃんというような優しそうな青年が出てきた。
そのお兄ちゃんは何か話をして、家の中のドラムを見せてくれた。エーストーンの大きなアンプもあった。ドラムとシンバルがきらきらと輝いていて、スティックがフロアタムの上に置いてあった。「触らせて欲しい」と頼んだが、それは叶わなかった。
その家がどこにあったか今でも覚えていて、すごく鮮明な思い出なのだけど、この出来事はひょっとすると夢だったのかも知れない。
毎日学校の帰りに通ったのに二度とバンドの音が流れていることはなかった。

6年生になった時、担任の女の先生から器楽部への入部を誘われた。担任は音楽の先生でもあり、器楽部の顧問だった。ボクが机を両指でタカタカと喧しく叩いて遊んでいると、「太鼓叩きたいのなら叩かせてやる」と言われて、喜んで付いていった。
音楽室について行くと部員が揃っていた。女子ばかりで男子は自分だけだったので、少し恥ずかしかった。
ボクの担当はスネアだった。ボクは初めてスネアを触った。嬉しかったかと聞かれると、実はちょっと違った。本当はドラムセットが叩きたかった。叩き方も知らないけれど、あのかっこいいセットで座って叩いてみたかったが、学校にはドラムセットはなかった。
音楽室には、大太鼓とティンパニーが置いてあった。ボクはなぜかでっかいタイコはかっこいいと思っていたので、スネアは小っちゃくてイマイチな気がしていた。まだスネアについて何も知らなかったのだ。

実は、以前から音楽室には何度か友達と休み時間に遊びに行って、大太鼓で練習をしたことがあった。『8時だヨ!全員集合』でカトちゃんが叩いていた祭り太鼓のフレーズ「ドンドンドン・カラカッカ・ドドンドドン」のカラカッカというリム打ちの部分が面白くて練習していたのだ。
最初は友達が上手く叩いてカッコよかった。自分は上手くできないので教えてもらい、少し練習したらすぐにできるようになった。それがドラムでの最初の成功体験かも知れない。

先生は今年の演奏曲を教えてくれた。「マルタ」という曲で、それで地区大会に出場するという。
ボクの出番は中盤と終盤だった。中盤の曲のつなぎにスネアソロで4小節「タラッタタ・タラッタタ」というフレーズで入り、後でみんなが付いてくるというドラマー冥利に尽きる出番だった。
先生は「タラッタタ」を教えてくれた。今なら「フラム」とすぐわかるが当時は叩き方も知らず、「トリルというのよ」と先生がクラシック風に教えてくれた。
それからボクは一生懸命練習して、「トリル」を使ったスネアのフレーズを覚えた。

大会当日、ボクはひどく緊張していた。ボク達の出番がやってきた。そしていよいよスネアソロのパートでリズムが走ってしまうという失敗をした。
この時「ボクはあがり症だ」ということと「緊張すると走る」ということを初めて知った。そして、その何十年後も同じ失敗を繰り返すことになる。。。
演奏が終わった後、よその学校の顧問の先生がボクに近寄ってきて、「スネアを見せてごらん」と言った。ボクはスネアを布製のケースにしまうためにヘッドを緩めようとしていた。
何だろうとスネアを手渡すと、その先生は、「このスネアは本革じゃないからいちいち皮は緩めなくても大丈夫だよ」と言って、ギュッギュッと締め上げた。
プラスチックヘッドは割れないということを初めて知った。そして、スネアらしい音というのは、もっとしっかり締めて「タンッ!」という音が出るようにするという事も初めて知った。響き線を鳴らせることも必要だということもだ。
そのよその学校の先生は、ボクの演奏を見て、あまりのチューニングのひどさに呆れて教えに来てくださったのだった。
ボクはいつも皮をだらだらの状態で、「ボコンボコン」とスナッピーが響かない音で演奏していた。練習が終わると、さらにヘッドを緩めて片付けていた。それでもボクの先生はよしとしてくれていたのでスネアの本来の姿を知ることもなかったのだ。
ボクの先生は、音楽教師であっても打楽器については疎い人だったようだ。

今、オレは先生に懺悔したい。
器楽部の練習の時、ティンパニーをいじって遊んでいて皮を破った。先生はいつも、「自分の楽器以外は絶対に触るな」と言っていたし、「ティンパニーの皮は高いから割ったら弁償だ」とも言っていた。
その日ボクは学校の外で見つけたきれいな四角いタイルを持っていた。ティンパニーの上に載せて叩くと、ボ~ンと鳴ってタイルが飛び跳ねるのが面白かった。
女子の部員も面白いと言って笑ってくれたので、調子に乗って何度もボヨ~ンドウィ~ンと飛ばして遊んでいたら、タイルの角がヘッドに突き刺さり、ヘッドは真っ二つになった。
練習時間になり先生がやってきて、「あれほど触るなと言ったのに」と、当然のごとく叱られた。
ボクはウソをついた。咄嗟に「ティンパニーも興味があるので練習したかった」と言って逃げた。ふざけて遊んでいた癖に、苦し紛れに音楽愛というか打楽器愛を訴えたのだ。そして先生は騙されてくれた。
女子たちも現場を見ているのに、誰もタイルの事を告げ口しなかった。それで助かったのだと思う。先生はそれから何も言わずに練習を始めた。
結局、ボクはヘッドの弁償を見逃してもらった。ヘッドは本革だったような気がする。ヘッド代はいくらと言ったか忘れたが、今では相当な値段だろう。。
先生、ごめんなさい。
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大好きOldies(その4:プラターズ)

2021年02月25日 | オールドミュージック
2月25日(木) 本日のJOG=45分
ボクが初めて黒人音楽を知ったのは、たぶん小学校3年生ぐらいの頃じゃないかと思う。

母親の従兄弟(いとこ)で、チカラさんというおじさんがいた。続柄で言えば自分から見て又従兄弟(またいとこ)なのだけど、まだ若くて20代だったんだと思う。
チカラさんは仕事を転々として、その時は自転車屋を経営していた母の実家に居候していた。
すごく頭のいい人なんだよと母から教えてもらっていて、物知りで尋ねたら何でも教えてくれたし、絵を描いて欲しいとせがむと何でも上手に書いてくれたのでボクはすごく好きだった。
ただ、気まぐれで落ち着かない人ということも聞いていた。今にして思えば、一発当てようとあれこれ挑んだりしていたのか、それとも自分探しをしていたのだろうか。

ある時、チカラさんはドライブに行こうと言って、ボク達を誘ってくれた。ボク達というのは、チカラさんが居候していた母の実家の従兄弟たちで、3人兄弟だった。たぶん、ボクを誘ってくれたんじゃなくて、遊びに行っていたボクはおまけだったんだろう。
車種まで覚えていないがスズキフロンテとかN360みたいな軽自動車に子供たちがいっぱい乗り込み、どこかへ行った。ドライブで何をしたか全く覚えていないけれど、クルマに乗せてもらえて嬉しかった。
今にして思えば、あの時代に軽とは言え自由に乗れる車を持っているなんて、すごいなと思うんだが、ただボク等ははしゃいでいた。

どこかをぐるぐるしたあと、チカラさんはボク達を自分の家に連れて行った。自室に着くと、1枚のレコードを取り出してポータブルステレオに載せた。チカラさんはレコードを聞かせてやると言って連れてきてくれたのだった。
ボクは、ここからはっきりと覚えていて、その光景も、その時にすごい衝撃を受けたのも覚えている。
レコードはプラターズだった。曲は「ユール・ネバー・ノウ(1958)」だった。

ユール・ネバー・ノウ


「聴いてみん、この地響きするような低音の声。日本人じゃこんな声は出ないよ。」と言い、ボクは「そうなのか」と驚いた。
アメリカには黒人のボーカルグループがいっぱいいて、すごい歌を聞かせてくれるんだ、とその時に知った。
それから「ユーネーバノ~」というフレーズをそれからずっと覚えていて、プラターズという名も忘れなかった。
次に「オンリー・ユー(1955)」を聞かせてくれた。

オンリー・ユー プラターズ 1955


こちらはプラターズの代表曲なのでラジオでもよく流れたが、「ユール・ネバー・ノウ」はさほど流れず認知度は低い。だがボクは「ユール・ネバー・ノウ」の方が好きになった。

映画「アメリカン・グラフィティ ー」のサントラ盤にもオンリー・ユーのほかに、「煙が目にしみる(1958)」「ザ・グレート・プリテンダー(1955)」が収録されている。
やはり50年代後半から60年にかけては、本当にすごいグループがいたのだ。可愛らしい女性ポップ、軽やかなポップグループ、美しいコーラスバンド、インストバンド、ロカビリー。そして、黒人ボーカルグループ。
オールディーズは音楽の宝箱や~。
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大好きOldies(その3:エレキブーム)

2021年02月24日 | オールドミュージック
2月24日(水) 本日のJOG=45分
小学生のボクは(オレ、でもなかったので)、ラジオで流れるザ・ベンチャーズ「ウォーク・ドント・ラン=急がば廻れ(1960)」「10番街の殺人(1964)」などのドラムサウンドにすっかりハートを掴まれた。
ボクが5年生の時だったと思う。小学校の図書室で遊んでいると、6年生の子が近づいてきて「この曲知っとる?」とフフフ~ンとハミングした。「知っとるよ」と返した。聞いたことがあるが曲名は知らなかった。今にして思うと、ベンチャーズの「クルー・エルシー(1964)」だったか「ハワイファイブ・オー(1968)」だった気がする。
この時はまさか将来、還暦を過ぎて人前でこの曲を演奏するとは夢にも思っていなかった。

The Ventures (1966)


テケテケサウンドは、米国のサーフ・ミュージックから派生してエレキブームを生んだと言われます。ラジオからはベンチャーズ以外のバンドの曲、シャンテイズ「パイプライン(1962)」や、アストロノウツ「太陽の彼方に(1964)」なども流れていたが、自分ではバンド名などは区別がついていなくて、全部がベンチャーズに聞こえた。歌物なら声の違いで判別できるが、エレキは皆同じように感じたのだ。
当時は一つの楽曲を多数のバンドで競作するということはよくあった時代なので、曲名だけ見てレコードを買うと自分の聴きたいバンドじゃなかったってことは、あるあるでもあった。

日本では寺内タケシがブルージーンズを1962年に結成して人気となる。同じインストゥルメンタルバンドでも、サーフミュージックと違って民謡やクラシックをアレンジする寺内タケシはエレキの王様として君臨する。
先輩ギタリストに尋ねると、ベンチャーズと寺内は似て非なるものだそうだ。その違いは、例えばサウンドスタッフのパンチ宮本氏が、「僕は寺内タケシ専門だからベンチャーズは知らない」と明言するぐらい全然違うものらしい。。。

また、俳優で歌手の加山雄三も自分のバンド、加山雄三とザ・ランチャーズ「ブラック・サンド・ビーチ (1965)」を率いて、映画とコラボしてインストのヒット曲を飛ばす。加山さんは、ビートルズの1966年の来日の際、宿泊していたホテルに訪ねて4人と対面できるという特権が与えられたというくらいに、当時日本を代表するスターだった。

TVでは『勝ち抜きエレキ合戦』が1965年からテレビ放送されて、自分も白黒で見た覚えがある。寺内タケシが審査員を務めていた。
同時にベンチャーズやビートルズに影響を受けて次々と生まれたのがグループ・サウンズだ。
ジャッキー吉川とブルー・コメッツ「ブルー・シャトウ (1967)」、ザ・スパイダース「フリフリ(1965)」、ザ・タイガース「僕のマリー(1967)」、ザ・テンプターズ「忘れ得ぬ君(1967)」、オックス「ガール・フレンド(1968)」などがヒットしてTVを賑やかした。演歌やオケをバックに歌う歌謡曲よりも、刺激的でかっこよかった。
グループサウンズとは一線を画して最も印象的だったのは、ピンキーとキラーズ「恋の季節(1968)」だった。本来はボサノバグループだったと言うが、歌謡曲で大ヒットした。

思い出すのは、ピンキーこと今陽子のお父さんである今津次朗さんのことで、毎年湖西市鷲津にある『本興寺の花祭り』に来て、漫談をしていたのだ。
桜の名所である本興寺では、毎年4月の第一週末に花祭りを行い、境内の長い参道には屋台など出店がずらりと並ぶ観光地だった。鷲津駅からずらずらと歩く列ができるほどの賑わいで、ちょっとした遊具や長い滑り台で子供は遊び、広場には立派な舞台があり、そこで歌謡ショーなど行っていて、花見というよりそれを楽しみにしていた。イラストレーターでもあった今津次郎さんは、有名人の似顔絵を描いて時事ネタで漫談をするのだが、最後には必ずピンキーの山高帽を被った似顔絵を描いて場を〆たのだった。
その後だったか前だったか、その舞台で地元のバンドがライブ演奏するのだ。インストだったりGSだったりしたが、曲よりもドラムの響きがその子供心に染みたのだった。
ボクはドラムが叩きたかった。
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大好きOldies(その2:60年代の記憶)

2021年02月23日 | オールドミュージック
2月23日(火) 天皇誕生日 本日のJOG=45分
2月20日に投稿したオールディーズについてのブログを少し加筆しました。
主に1950年代と60年代のオールディーズと呼ばれるポップスについて、時代背景なども考えながら書きましたが、どんどん思いが膨らんでいってしまうわけです。幼い頃に真空管ラジオから流れてくる海外のヒットソングの記憶は一生残っています。それが1960年代。

オレがまだ幼い1964年の東京オリンピック前の頃、母親は自宅で洋裁を仕事としており、居間でラジオを聞きながら仕事をしていた。テレビジョンはまだ家にはなくて、唯一の情報源はラジオだった。
やんちゃ坊主のオレは、いたずらをしたり腹が減ったと駄々をこねたり、母親の仕事の邪魔ばかりしていて、怒って洋裁の50㎝の竹製物差しで尻を叩かれたことをよく覚えている。
幼稚園の頃だと思うが、新聞に載っていた白黒の自動車の広告写真を母親の裁縫バサミで切り抜いては、型紙作りの糊で家の2階の土壁に貼り付けていた。当時は新型の乗用車も次々と開発されていて、毎日のように広告があった。クラウン、コロナ、サニー、ブルーバード、コルト、キャロルなどが土壁にいっぱい走っていた。それで親に叱られた覚えはなく、「そんなに自動車が好きだかん」と言われた。車名ではないがダットサンやトヨペットという名前も、かっこいいなあとこの頃思ったものだ。

そんな時にラジオから流れてくるヒットソングは、強烈な印象だった。
当時は日本の歌謡曲も流行していて、ザ・ピーナツ「情熱の花(1959)」や弘田三枝子「ヴァケーション(1962)」、伊東ゆかり「大人になりたい(1962)」、中尾ミエ「可愛いいベビー(1962)」、園まり「マッシュ・ポテト・タイム( 1962)」などが洋楽をカバーしていて、原曲より和製オールディーズ(といっても当時は新曲)の方が印象に強い。

ザ・ピーナッツ オールディーズメドレー


また男性歌手では、橋幸夫が吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を(1962)」、舟木一夫「高校三年生(1963)」、西郷輝彦「君だけを(1964)」などが御三家として人気だったのだがオレは興味がなかった。当時、母親が北原謙二「若いふたり(1962)」が好きだと言って、なんとなく妬きもちを焼いた記憶がある。

自分がいちばん気持ちが弾んだのは、洋楽のビートの効いた音楽だった。歌物よりも、ザ・ベンチャーズのような8ビートのリズムに憧れたような気がする。たぶんもうその時はドラムを叩きたい気持ちがあったのだろう。ロックだとかビートという言葉も知らないくせして、欲していたのだ。
ザ・ビートルズもラジオから流れていた。すごい人気らしいと感じていたけれど、自分には歌物バンド、コーラスバンドと感じていたので虜になるでもなく、リンゴ・スターの天才ドラミングに気付いていなかった。

東京オリンピックの年に、わが家に白黒テレビがやってきた。親は相当無理して買ったはずだ。
でもやはり昼間はラジオをかけて母が洋裁をしていて、オレはそれを小学校から帰って聞いていた。
ラジオは、小学生の自分にとってとびっきりの音楽の宝箱だった。忌野清志郎さんが「トランジスターラジオ」で歌った通りの気持ちだった。
テレビでは、大相撲、プロ野球、プロレス中継が中心で、てなもんや三度笠の時代劇コメディ、シャボン玉ホリデーのジャズっぽい大人の音楽&コメディという番組などを見ていた。
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大好きOldies(その1:歴史)

2021年02月21日 | オールドミュージック
2月21日(日) 本日のJOG=45分
この頃のJOGのお供はオールディーズを聞いています。
オールディーズバンドである『ソウルフィンガー』は、コロナ禍で活動休止してはや1年が過ぎました。今のところは活動予定なしで聴き直す必要もないのだけれど、やっぱり好きなんだよね。
オールディーズといえば、映画『アメリカン・グラフィティ(1973)』を思い浮かべがちですが、流れる曲は1958年とか60年ぐらいの渋めの曲が多くて、日本ではまだ知られずにヒットしていない曲が多かった。
オールディーズとは50~60年代のポップスを主に指すといわれてきたのだけど、今はもう2021年。半世紀前が70年代だから、70年代も立派なオールディーズとも言えそうだね。

オレが思うに、50年代はポップスの黎明期。
かつて、西洋のクラシック音楽とは違い、民謡のように地元だけで育ってきたカントリーやブルースとか、ラテンのカリプソやマンボなどの世界の音楽が、レコードやラジオなどの技術が発達することで紹介されだしたのが1940年代とする。その音楽が、いろいろな形に融合され発展し、新しい音楽として爆発的に知らされた時代が50年代だと思う。

カントリーからはロックンロールの誕生があり、エルヴィス・プレスリー「ハートブレイク・ホテル(1956)」「ハウンド・ドッグ(1956)」が登場する。同じくチャック・ベリー「ロール・オーバー・ベートーヴェン(1956)」「ジョニー・B.グッド(1958)」、ファッツ・ドミノ「エイント・ザット・シェイム(1955)」、リトル・リチャード「トゥッティ・フルッティ (1955)」」、カール・パーキンス「ブルー・スエード・シューズ(1956)」、ジェリー・リー・ルイス「火の玉ロック(1957)」、ビル・ヘイリー「ロック・アラウンド・ザ・クロック(1954)」らがヒットを飛ばした。
ポップス畑ではハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート(1956)」、プラターズ「オンリー・ユー(1955)」、ポール・アンカ「ダイアナ(1957)」、二―リル・セダカ「おお!キャロル(1959)」、「カレンダー・ガール(1960)」、「恋の片道切符(1960)」などの名曲をヒットさせる。

そして、レコードからテープレコーダーへの技術の進歩、ラジオからテレビジョンと進化をするのが60年代ということで、次々と新しいスターが生まれ、ヒットを飛ばす。
60年代といえば、ザ・ビートルズはじめ、ローリング・ストーンズなどのカリスマアーティストがロック畑を広げていき、オールディーズとは別のジャンルとして成立する。印象としては、ロック畑は米国よりも英国のグループが圧倒的に目立っていた。

一方、ポップスはドリフターズ「ラストダンスは私に(1960)」、ニール・セダカの所属していたトーケンズ「ライオンは寝ている(1961)」などなどのドゥワップやコーラスグループのヒット曲も多かったが、リトル・エヴァ「ロコモーション(1962)」、コニー・フランシス「ボーイ・ハント(1961)」、「ヴァケイション(1962)」など、女性シンガーのポップスが大ヒット。その影響から可愛らしい女の子が歌うアメリカンポップスがオールディーズのカラーになったと思えるのだ。
また、インストゥルメンタル・バンドも次々と誕生していくのも60年代。ザ・ベンチャーズは、「ウォーク・ドント・ラン=急がば廻れ(1960)」を皮切りに次々とヒットを飛ばし、日本ではテケテケサウンドと言われエレキバンドがブームを起こし、社会現象となる。

ヒット曲の年代から見ると、(1年前の1959年から始まる)60年代は、玉石混合というと聞こえが悪いが、ロックもポップスも黒人コーラスグループも女性アイドルも全部ひっくるめて、あらゆるジャンルの新しいメロディがラジオから溢れ出す、素晴らしい時代だったと言えよう。

70年代も述べてみたいと思う。
(続く)
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なんてこったパンナコッタ!

2019年02月08日 | オールドミュージック
2月8日(金)
今週買ったDeep PurpleとQueenのCDをウォークマンに録りこんで、ビートルズ以外では久々に通勤時の楽しみとして聴いています。
Queenが懐かしくて、アルバム「ジュエルズ」がベスト盤だけにとてもいいので娘に勧めてみると、自分のウォークマンに録音してくれというので、アルバム2枚を録りこんでやった。
ウチの娘も話題の映画を観て初めて知ったクチなんだけど、親父と同じ音楽を楽しむというのもいいじゃんね(笑)。
録音してやったその時のこと。
買ってきた「ジュエルズ」というCDの、前から持っていた「ジュエルズⅡ」というアルバムがどこにあるかなと棚を探していたら、ナナナント、その隣に「紫の炎(BURN)」が見つかった。

なんてこった。まさかの真横。。。
1枚だけジャンルが違うところに入っていたので忘れていたけれど、買わなくてもCDを持っていたのだった。
じゃあ、バーン1曲だけのために買ったベスト盤3,500円(税抜き)はムダかというと、聴いてみるとデビュー当時のレアな曲も多いし、持っていない曲も含まれているのでこれはこれで良しとしましょう(笑)
負け惜しみでもあるけども、ないと思ったアルバムがあって、なんか嬉しい。

改めて、最初から最後までちゃんと聞いちゃったこの夜でした。バ~ンと(笑)
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名豊ミュージックにて

2019年02月05日 | オールドミュージック
2月5日(火)
このところ、ドラム教室の同世代の生徒さんとの間で、「ザ・ビートルズ」のほかに「グランド・ファンク・レイルロード」や「ディープ・パープル」「レッド・ツェッペリン」などのクラシカル・ロックの話題で盛り上がっています。
そして、ディープ・パープルの名曲を研究するという話になって、イアン・ペイスの超絶ドラミングを丸コピはできないにしても、リズムパターンやフィルの手順などはゆっくりめのテンポでやってみましょうかということになりました。楽し~!(笑)
なので先月の日記にも書きましたが、ディープ・パープルの古いCDを引っ張り出して名曲の数々を録音したりしていたわけです。しかし、いかんせんLPレコードやカセット時代の人間なので、CDを持っていないアルバムがいっぱいあって、そういう曲に限ってリクエストがあったりするわけです。
その1曲が皆さんご存知名曲中の名曲「紫の炎(Burn)」でした。

音源がないので、ほかにも定番の「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「レイジー」「ブラック・ナイト」などがあるので、そちらでどうかと思ったんだけれど、やっぱりBurnがお気に入りということで、やむなく音源探し。まあこれも楽しいんですけどね。
ですが、CDショップ自体がなくなっちゃって、名駅高島屋の新星堂当たりならあるかもしれないが、金山ではなさそう。
仕事帰りに金山駅「アスクル」内にある新譜と中古CDショップを巡ってみましたが、期待してないけれど当然ながら売ってない。そして一旦電車に乗り、豊橋の名豊ミュージックで再チャレンジ。
以前、ポール・マッカートニーの新譜を買ったときに、洋楽CDの品揃えの豊富さに感動したので唯一期待して行ってみました。
すると、さすが名豊ミュージックさん、ディープ・パープルだけで10枚近くのCDがありました。しかし残念ながら「Burn」がない。でもその隣に3枚組のベスト盤があり、その中に収録されています。

3枚組なので値段が3500円&税と、高くて迷う。他の収録曲はアルバムを持っているか、メンバーが変わって全く知らなくて興味なくなった頃の曲ばかり。1曲だけのために3500円かあ~。。。なかなか手が出ましぇん。。。
迷いつつほかの棚を見ると、今が旬のクィーンのコ-ナーに、なんと廃盤になったはずの「ジュエルズ」を見つけてビックリ。

このベスト盤、じつはなぜかこの次の「ジュエルズⅡ」だけ持っているのです。探していたけど廃盤だったので諦めておりました。
そういえば、何年か前にデジタルリマスターして再発したんだっけと思い出したら嬉しくなって、両方合わせて買っちゃいました。合計6500円ぐらいの散財になりましたが、なんといっても昭和チックなこの名豊ミュージックさんが、このまま営業続けてほしいと、そんな思いで買っちゃったわけであります。
名物オーナーもおねえさんも感じがよくて応援したいし、楽器屋とかレコードショップ巡りって、オレら世代の人間にはワクドキが止まらない楽しみだったし、なくてはならない憩いの場所でした。
なんとか、頑張ってほしい!ってね。
ささやかな応援。大きな収穫!やっほ~。
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王道ハードロック!

2019年01月25日 | オールドミュージック
1月25日(金)
映画「ボヘミアンラプソディ」の大ヒットがまだ続いていますね。我が国での興行収入が100億円を突破したというニュースも聞きました。
今日、仕事場で同僚(女性)と雑談したら、もう一度観に行こうと思っているとのこと。
もともとそんなにマニアでなかった人でもリピーターとなるというのが、やはりヒットが止まらない原因なんでしょうね。
映画のおかげで、Queenの曲はTVのCMでしか聴いたことがないという若者も、昔は好きだったけれどもう忘れちゃったという中年まで、広い世代が映画に影響を受けてQueenのCDを買い求めているようで、CDショップやネットでも品切れだそうです。

クイーン、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、クリーム、言い出したらきりがないけど、これらのビートルズに続いたUKロックがまた注目を浴びています。
オールド・ロックともクラシカル・ロックともいえる王道ロックが見直されるって、なんか嬉しい。なんたってオレ達にとってはリアルにジャスト世代。多感な中高生の頃にラジオから流れるハードロックに胸をときめかした記憶が強く残っている。

自分のドラム教室でも、古いハードロックを題材にレッスンしたいという生徒さんの要望があったりして、ちょっとワクワクしています。
というわけで、リクエストにお応えすべく、古いCDの棚からDeep Purpleのアルバムを数枚取り出して聴き直しています。
だいぶ昔のことだけれど、「All Or Nothing」という名前のハードロックバンドを組んでいたことがあって、そこではオリジナル曲のほかにDeep Purpleの「Fire Ball」をレパートリーにしていました。
イアン・ぺイスのツーバスが印象に残る曲ですが、スピード感が際立つかっちょいい曲です。そのころはまだ若かったので前のめりにガンガン演奏していて、ベースボーカルのツリ君もカッチョよかったなあ。。。なんて思いだしたりして。
改めて聴き直し、一人でノッちゃっております(笑)
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