駄楽器駄日記(ドラム、パーカッション)

ロッキンローラーの打楽器日記

小走りに春が通り過ぎる

2014年04月18日 | 小説
彼女はいきなりやってきた。
あまりの唐突さに、オレは息をのんだ。

いつもの通勤時、あの道である。

さほど混み合うことのないけっこう広い歩道。
地下街から地上に上がり、人混みから解放されると同時に春の爽やかな風に、大きく呼吸をして足を少しだけ速める。
歩道には、その脇に立つ桜の木から散った白っぽい花びらがまだ貼りついて、満開だった頃の名残を感じさせている。
前方から、時折見かけたことのある自転車が風を切って通りすぎていく。
自分の前には少なくとも10メートルくらいは歩く人がいなかった。
オレはいつものようにイヤホンでウォークマンからビートルズの名曲を聴きながら歩いていた。

曲が、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」から「ハロー・グッドバイ」に代わった時だった。
オレの真横にスッと人影が見えたかと思うと、小走りにオレを追い越した。
しかし、追い越してわずか1メートル先でオレの歩く目の前に進路をずらし、いきなりスピードを落として歩きだす。
クルマで言うなら、「かぶせる」という走行である。

そう、「小走りの女」である。

これで歩く速度がオレよりかなり早ければ見過ごしてしまうのだが、目の前で急に速度を落とすからぶつかりそうになって、「何だ?」となるのだ。
危ないし邪魔である。
彼女の普通の歩きよりもオレの歩幅の方が大きいからである。

歩道は、自転車の通行帯や植え込みを含めると5メートルを越える広さがあり、オレは商店の看板や自販機に当たらない程度に、歩道の右端を歩いていた。
歩道の真ん中で追い抜かれても、これまた見過ごすだろう。
にもかかわらず、後ろからオレという標的を見つけて追い付き、わざわざ進路を変更してオレの目の前で歩みを緩める。

毎回のことながら、見事というほかない。
久し振りにやられた。
驚きとともに、心の中で軽く小躍りする気持ちを見つけた。


ところが、今回はオレも気付くのは早かった。
何度もその手は食わないのだ。
彼女が右に進路を変更して歩みを緩めた瞬間、逆にオレは左側に足を大きく広げて歩みを速めた。
1メートルの距離はわずか3歩で縮まって、オレは左側から彼女を追い抜いた。

しかしそのままだと、30秒後に彼女はまた小走りにオレを追い抜きに来るだろう。
そして、この追い抜きチキンレースが続くのである。

今回、久々に小走りの女に遭遇して、軽く心が躍ったのには理由がある。
オレは、彼女の後ろ姿しか見たことがなかった。
追い抜かれて初めて気付くので、黒髪の後ろ姿しか見られないのだ。
今日こそは、と、オレに好奇心という厄介者が顔を出してしまう。

「今度追い抜きにかかった時に顔を見てやろう」

しかし、30秒ほど経っても彼女がやって来ない。
なかなか走り出さないのである。
どうしたのだろう。
疲れたのか。
オレが気負って追いつけないほど足が速すぎたのか。
それとも、オレの歩きがわざとらしくて魂胆を見抜かれてしまったのか。
このままでは、オレがいつもコーヒーやお茶を買うコンビニに到着してしまう。
そうしたら、ここでこのレースは終了するのだ。

「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」に曲が変わった頃、とうとうコンビニの入り口に近づき、オレは思い切って振り返り、彼女の姿を探した。
そしてオレは驚きのあまり声を上げる。

彼女はオレの真後ろにいて、オレをとおり越して行った。

そして、彼女にはなんと、顔がなかった。
小走りに、春は通り過ぎていってしまったのだ。
コメント
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