ホームスクールあるいはホームエデュケーションという育ち方がある。
学校やフリースクールに毎日通わずに、主に家で子どもが育つ、育ち方育て方だ。
私たちは毎分毎秒365日これをやっていて、全国の仲間たちとこの国でも最先端の専門家と常にやりとりしながら、励まし合い学びあいながら日々戦っている(本当は戦いたくはないんだけど、戦う場面は多いから)命がけで。
それは親にとっては地図のない未開の地に足を踏み入れること、自ら回復や成長について学び、実践する現場に立ち続けることだ。
自分の中にも子どもの中にもある、世間一般の汎用ものさしを棚卸しして作り直すところからのスタート。
私たちは痛みと共に学ぶ。
たとえば兄弟であっても子どもはそれぞれにニーズもたどるルートも違うこと。
兄弟姉妹ですら違うということはつまり、どんな一般化もできない。
その子という生々しく生きている現象をうまく世界とつなげるにはどうすればいいのか、それを何より考えながら行動しながら暮らしている。
人に話したら笑われるようなどんなにささやかな小さなステップも、決して偶然でも必然でもない親子の勝利だ。
かける言葉も、自分の在り方も。
子どもという命と向き合うことは、私たちのいわば、本業だ。
「そこは親が出て行くところではないんじゃないか」とか「その年齢なら自分で解決すべきじゃないか」というアドバイスをもらうことがあるのだけれど。
なんと返答すればいいのか、途方にくれる。
その人たちに見えるのはコップ一杯の水かもしれないが、私たちは、毎日、海に出るのだ。
苦難と愛と奇跡に満ちた海に。
その光景を、どうやって伝えよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ce/e3240f69bcd0f71abcf61201373a1e94.jpg)
学校やフリースクールに毎日通わずに、主に家で子どもが育つ、育ち方育て方だ。
私たちは毎分毎秒365日これをやっていて、全国の仲間たちとこの国でも最先端の専門家と常にやりとりしながら、励まし合い学びあいながら日々戦っている(本当は戦いたくはないんだけど、戦う場面は多いから)命がけで。
それは親にとっては地図のない未開の地に足を踏み入れること、自ら回復や成長について学び、実践する現場に立ち続けることだ。
自分の中にも子どもの中にもある、世間一般の汎用ものさしを棚卸しして作り直すところからのスタート。
私たちは痛みと共に学ぶ。
たとえば兄弟であっても子どもはそれぞれにニーズもたどるルートも違うこと。
兄弟姉妹ですら違うということはつまり、どんな一般化もできない。
その子という生々しく生きている現象をうまく世界とつなげるにはどうすればいいのか、それを何より考えながら行動しながら暮らしている。
人に話したら笑われるようなどんなにささやかな小さなステップも、決して偶然でも必然でもない親子の勝利だ。
かける言葉も、自分の在り方も。
子どもという命と向き合うことは、私たちのいわば、本業だ。
「そこは親が出て行くところではないんじゃないか」とか「その年齢なら自分で解決すべきじゃないか」というアドバイスをもらうことがあるのだけれど。
なんと返答すればいいのか、途方にくれる。
その人たちに見えるのはコップ一杯の水かもしれないが、私たちは、毎日、海に出るのだ。
苦難と愛と奇跡に満ちた海に。
その光景を、どうやって伝えよう。
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