仕事へと向かう湘南新宿ラインの中でなんとかアワノさんに連絡してから、そのまま参考資料を読み始めた。
それは電車に揺れる私の胸をふるふると震わせた。
最初の数行からぶんぶん首がうなづく言葉ばかりだった。この数年自分が生きることから学んだことが丁寧にまとめられていた。
(無駄な装飾のない洗いざらしのことば)
苦難に打ちのめされた時のこと、苦しみの中にある人を「助ける」のではなく、共にあること。
その中ある恵み、砕かれたからこそ現れることのできるもの。
主体性つまり命の本来の流れ。
出会うことによって立ち現れるもの。
謙虚でしかいられないその場所、祈りの場所。
純粋文節。
(ここにいる人たちは誰もみんな苦しみを知っている)
胸がふるふるした後はお腹がぐるぐるした。
思考だけではなく感情だけでもなく、全存在が感動して満たされているんだけれど、それに名前をつけるなら感謝が近いかもしれない。
わかってもらえて。
わかっている人がいて。
そのようにある人がいて。
私が見ていた風景の中にその人はすでにいて、過去の苦しみ(クライシス)にまでそのメッセージは届き、解放されていくようだった。
特に「寄り添うということ」については、学校に行かないこどもたちを育てるコミュニティでホームエデュケーションについて話す内容(とてもわかりにくい「アクロバティック」なことが必要とされる現場)ととても関連が深かった。
不思議なんだけれども、書かれてあることを理解するという形ではなく、書かれてある眼差しでこちらが理解され許されるようだった。
「たまたま足を踏み入れた公園に感じの良い池があって、水辺に近づいた。何も難しいこともなく親しみやすいその水になんとなく目をやったら、きらきら光る水面と清廉な流れ、ひたひたと胸を全存在を満たす水だった。」
西平先生、ありがとう。
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