「思考は私ではないと知る」
を
私のうちから見る。
例えば。
それが欲しかったから手を伸ばしたのではなく、手を伸ばしたかったからそれが欲しく見えた、と知ることもできる。
そうしたら伸ばしたい気持ちをあやしながら、これはよしておくこれは伸ばすとタイミングを決められるかもしれない。
手が届かなくても取り乱さないかもしれない。
「私」というものが乗る流れをもう少しうまく捌けるかもしれない。
思考/言語は目立つ線だけが見える仕様になっている。
うねりながら流れるドライブの上に乗っているテキスト。
地図。
間違いというわけじゃなく、ほんの一部、補助線だということ。
思考以外を省くと見やすくわかりやすいけれど、あまりに多くを取り落とす。
肉を見ずに骨だけ見るような。
取り落とされるものは本体の全て。
余白。
身。
あるいは仏性。
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