☀️心に響く明かり☀️②
🔸石井、もっとも、北欧に行って学ぼうにも、アメリカに行く時のような奨学金制度がまだなくて、
留学するに私費で行くしかありません。
しかも当時は1人500ドルまでしか国外に持ち出せなかったため、
それだと2ヶ月ぐらいしか向こうで暮らせない。
🔹村上、どうされたのですか。
🔸石井、先ほどの本に出ていた方の中で、フィンランドの照明器具メーカーで、主任デザイナーをされていた リーサ・ヨハンソン・パッペ先生に手紙を書きましてね。
私の全作品を収めた写真も同封して、
私をアシスタントにしてくださいってお願いしたんです。
🔹村上、なかなかの勇気ですね。
🔸石井、そうしたら2ヶ月後にお返事が来まして、分かりましたと。
1時間5マルカで雇います、とあって、
それが日本円で500円でしたから、
私の初任給は1万5,000円だったのに比べて、大変な高給なわけですよ。
これなら向こうで照明のことを勉強できると思って、
スーツケース1つ持って勇んでフィンランドに行きました。
向こうでは、照明器具のデザインを基本から覚えていきましたが、
1年も経つとだいたい分かってきましてね。
ドイツの設計事務所からお誘いをいただいたご縁で、
今度はフィンランドからドイツに移り、
そこでは、主に建築照明をやりました。
ドイツもちょうど復興期でしたから、
すごくお仕事がいっぱいあって、大変いい経験をさせてもらいました。
🔹村上、そうやって若い頃に外国で生活されたことが、石井先生の活躍に寄与しているんじゃないかな。
🔸石井、私もそう思いますね。
それに北欧では当時から女性も働くのが当たり前でしたから、
日本に帰ってきてからもすごく励みになりました。
特に建築関係の仕事ですと、日本では現場に女性が行くだけで皆さんビックリされて、
来ないでくれ、なんて言われる時代でしたからね(笑)。
🔹村上、そのまま向こうで仕事をしようと思わなかったのですか。
🔸石井、やはり私は、そこの国の人間ではなかったので、永住しようというつもりは全くありませんでした。
それで日本に帰ってきて、フリーランスで仕事を始めたわけですが、
私は運がよかったなと思うのは、
そのちょうど2年後が大阪万博だったんです。
あの頃は菊竹清訓先生をはじめ黒川紀章さんなど、錚々(そうそう)たる建築家たちが、
何か新しいことをやりたいと、皆さん本当に一所懸命でした。
そこにヨーロッパから照明の勉強して帰ってきた人がいるというので注目していただいて、
何人もの建築家の方と一緒にお仕事をすることができました。
🔹村上、戻ってきてすぐに、よいスタートが切れたわけだ。
🔸石井、ええ。そのまま仕事のほうも軌道に乗るかなと思っていましたら、
まもなく石油ショックに見舞われて、
照明なんて余計なものは、とにかく消せ消せと(笑)。
例えば、少し前にデザインしたホテルのシャンデリアの照明をどこまでなら消せますか、
みたいな話がなくなって、あの当時は本当に辛かったですね。
でも、その時に私は悟ったんです。
たとえ日本に仕事がなくなったって、
世界のどこかには唸るほど仕事があるんだって。
というのも、ある日のこと、世界貿易センタービルを設計した日系人建築家のミノル・ヤマザキ先生から電話がありまして、
十日以内に、あなたの作品を持ってデトロイトのオフィスに来いって言うんですよ。
びっくりしましたけど、
すぐに作品をまとめてデトロイト近郊のトロイにある事務所を尋ねると、
先生に促されてすぐにプロジェクターでバーッと作品を映し出しました。
そしたら先生が頷かれて、
いま隣の部屋で会議中だから入ってくれ
と案内されたところから始まったのが、
サウジアラビアの迎賓館の仕事でした。
🔹村上、石井先生はその建築家の試験を見事にパスされたわけだ。
それにしても大きな仕事ですね。
🔸石井、それはもう豪華な迎賓館でして、
設計はアメリカ、現場はサウジアラビア、そして建設はドイツの大手建設会社と言う具合で、
その中にあって照明はほとんど私1人で引き受けました。
🔹村上、たった1人で。
🔸石井、もう夜に寝る暇もないくらい忙しくて、
アメリカとサウジアラビア、日本とをしょっちゅう行ったり来たりでした。
その後も海外の仕事をいくつか経験させていただくうちに、
日本もようやく石油ショックから立ち直ってきたことで、
再び照明の仕事ができる環境が整ってきたんです。
最初にいただいた依頼は、東京駅のレンガ駅舎をライトアップしてくださいというものでした。
それを皮切りに、先ほどお話ししました東京タワーなど、国内でもたくさん仕事をさせていただけるようになりました。
🔹村上、これまでにどのくらい仕事をしてこられたのですか。
🔸石井、そうですね、1,500は超えていると思います。
いまもだいたい並行して20〜30くらいはやっています。
🔹村上、よくこんがらがりませんね。
🔸石井、一つひとつの仕事のピークがずれていますから、
段取りよくやれば、それほど大変なことではありません。
むしろデザイナーにとって大事なのは、体力と気力ですので、
この2つが続く限りはやっていこうと思っています。
それと仕事を進めていく上で困難はつきものですけど、
何があっても、これは神様の思(おぼ)し召し だと思うようにしてきました。
何か悪いことが起こった時に、これは何かのお計らいなんだと。
というのも、友人なんかを見ていると、
結構、平等にいろんなことが計られているように思うんです。
例えば、若い頃にすごく恵まれて素晴らしい活躍をされていたのに、
晩年になって寂しい思いをされる方もいれば、
その逆の方もいる。
それはもう十人十色ですけど、
それぞれに、何か与えられているものがあるんじゃないでしょうか。
🔹村上、石井先生が長年活躍されているのは、
そういう気持ちが仕事にも反映されているからなんでしょうね、きっと。
🔸石井、それはわかりませんけど、
毎日寝る前には
「今日も1日ありがとうございました」
という気持ちで手を合わせています。
別にこれといった信仰があるわけでもないんですけど、
先生がおっしゃっているサムシンググレートというか、
何か大きな力が働いているんじゃないかという気はずっとしていました。
それから
「継続は力なり」
「一念岩をも通す」
という言葉にあるように、
やはり長く続けていくことっていうのは大事ですよね。
🔹村上、僕も研究生活を50年以上続けてきましたけど、
どの分野の研究でも、やっぱり波がある。
非常に伸びる時と停滞期があって、
伸びている時期に遭遇すると、
とびきりの才能がなくてもいい仕事ができるチャンスが巡ってくる。
ところが停滞期にあたると、
なんぼ才能があっても、仕事がうまくまとまらない。
これは全くの運ですよ、時代の波に乗れるかどうかっていうのは。
もちろん努力も大事ですが、
大きな仕事をされる方には、
やはり、天の味方というのがあって、
僕はそこにサムシンググレートの働きを感じるんですよ。
(つづく)
(「致知」8月号 村上和雄さん石井幹子さん対談より)
🔸石井、もっとも、北欧に行って学ぼうにも、アメリカに行く時のような奨学金制度がまだなくて、
留学するに私費で行くしかありません。
しかも当時は1人500ドルまでしか国外に持ち出せなかったため、
それだと2ヶ月ぐらいしか向こうで暮らせない。
🔹村上、どうされたのですか。
🔸石井、先ほどの本に出ていた方の中で、フィンランドの照明器具メーカーで、主任デザイナーをされていた リーサ・ヨハンソン・パッペ先生に手紙を書きましてね。
私の全作品を収めた写真も同封して、
私をアシスタントにしてくださいってお願いしたんです。
🔹村上、なかなかの勇気ですね。
🔸石井、そうしたら2ヶ月後にお返事が来まして、分かりましたと。
1時間5マルカで雇います、とあって、
それが日本円で500円でしたから、
私の初任給は1万5,000円だったのに比べて、大変な高給なわけですよ。
これなら向こうで照明のことを勉強できると思って、
スーツケース1つ持って勇んでフィンランドに行きました。
向こうでは、照明器具のデザインを基本から覚えていきましたが、
1年も経つとだいたい分かってきましてね。
ドイツの設計事務所からお誘いをいただいたご縁で、
今度はフィンランドからドイツに移り、
そこでは、主に建築照明をやりました。
ドイツもちょうど復興期でしたから、
すごくお仕事がいっぱいあって、大変いい経験をさせてもらいました。
🔹村上、そうやって若い頃に外国で生活されたことが、石井先生の活躍に寄与しているんじゃないかな。
🔸石井、私もそう思いますね。
それに北欧では当時から女性も働くのが当たり前でしたから、
日本に帰ってきてからもすごく励みになりました。
特に建築関係の仕事ですと、日本では現場に女性が行くだけで皆さんビックリされて、
来ないでくれ、なんて言われる時代でしたからね(笑)。
🔹村上、そのまま向こうで仕事をしようと思わなかったのですか。
🔸石井、やはり私は、そこの国の人間ではなかったので、永住しようというつもりは全くありませんでした。
それで日本に帰ってきて、フリーランスで仕事を始めたわけですが、
私は運がよかったなと思うのは、
そのちょうど2年後が大阪万博だったんです。
あの頃は菊竹清訓先生をはじめ黒川紀章さんなど、錚々(そうそう)たる建築家たちが、
何か新しいことをやりたいと、皆さん本当に一所懸命でした。
そこにヨーロッパから照明の勉強して帰ってきた人がいるというので注目していただいて、
何人もの建築家の方と一緒にお仕事をすることができました。
🔹村上、戻ってきてすぐに、よいスタートが切れたわけだ。
🔸石井、ええ。そのまま仕事のほうも軌道に乗るかなと思っていましたら、
まもなく石油ショックに見舞われて、
照明なんて余計なものは、とにかく消せ消せと(笑)。
例えば、少し前にデザインしたホテルのシャンデリアの照明をどこまでなら消せますか、
みたいな話がなくなって、あの当時は本当に辛かったですね。
でも、その時に私は悟ったんです。
たとえ日本に仕事がなくなったって、
世界のどこかには唸るほど仕事があるんだって。
というのも、ある日のこと、世界貿易センタービルを設計した日系人建築家のミノル・ヤマザキ先生から電話がありまして、
十日以内に、あなたの作品を持ってデトロイトのオフィスに来いって言うんですよ。
びっくりしましたけど、
すぐに作品をまとめてデトロイト近郊のトロイにある事務所を尋ねると、
先生に促されてすぐにプロジェクターでバーッと作品を映し出しました。
そしたら先生が頷かれて、
いま隣の部屋で会議中だから入ってくれ
と案内されたところから始まったのが、
サウジアラビアの迎賓館の仕事でした。
🔹村上、石井先生はその建築家の試験を見事にパスされたわけだ。
それにしても大きな仕事ですね。
🔸石井、それはもう豪華な迎賓館でして、
設計はアメリカ、現場はサウジアラビア、そして建設はドイツの大手建設会社と言う具合で、
その中にあって照明はほとんど私1人で引き受けました。
🔹村上、たった1人で。
🔸石井、もう夜に寝る暇もないくらい忙しくて、
アメリカとサウジアラビア、日本とをしょっちゅう行ったり来たりでした。
その後も海外の仕事をいくつか経験させていただくうちに、
日本もようやく石油ショックから立ち直ってきたことで、
再び照明の仕事ができる環境が整ってきたんです。
最初にいただいた依頼は、東京駅のレンガ駅舎をライトアップしてくださいというものでした。
それを皮切りに、先ほどお話ししました東京タワーなど、国内でもたくさん仕事をさせていただけるようになりました。
🔹村上、これまでにどのくらい仕事をしてこられたのですか。
🔸石井、そうですね、1,500は超えていると思います。
いまもだいたい並行して20〜30くらいはやっています。
🔹村上、よくこんがらがりませんね。
🔸石井、一つひとつの仕事のピークがずれていますから、
段取りよくやれば、それほど大変なことではありません。
むしろデザイナーにとって大事なのは、体力と気力ですので、
この2つが続く限りはやっていこうと思っています。
それと仕事を進めていく上で困難はつきものですけど、
何があっても、これは神様の思(おぼ)し召し だと思うようにしてきました。
何か悪いことが起こった時に、これは何かのお計らいなんだと。
というのも、友人なんかを見ていると、
結構、平等にいろんなことが計られているように思うんです。
例えば、若い頃にすごく恵まれて素晴らしい活躍をされていたのに、
晩年になって寂しい思いをされる方もいれば、
その逆の方もいる。
それはもう十人十色ですけど、
それぞれに、何か与えられているものがあるんじゃないでしょうか。
🔹村上、石井先生が長年活躍されているのは、
そういう気持ちが仕事にも反映されているからなんでしょうね、きっと。
🔸石井、それはわかりませんけど、
毎日寝る前には
「今日も1日ありがとうございました」
という気持ちで手を合わせています。
別にこれといった信仰があるわけでもないんですけど、
先生がおっしゃっているサムシンググレートというか、
何か大きな力が働いているんじゃないかという気はずっとしていました。
それから
「継続は力なり」
「一念岩をも通す」
という言葉にあるように、
やはり長く続けていくことっていうのは大事ですよね。
🔹村上、僕も研究生活を50年以上続けてきましたけど、
どの分野の研究でも、やっぱり波がある。
非常に伸びる時と停滞期があって、
伸びている時期に遭遇すると、
とびきりの才能がなくてもいい仕事ができるチャンスが巡ってくる。
ところが停滞期にあたると、
なんぼ才能があっても、仕事がうまくまとまらない。
これは全くの運ですよ、時代の波に乗れるかどうかっていうのは。
もちろん努力も大事ですが、
大きな仕事をされる方には、
やはり、天の味方というのがあって、
僕はそこにサムシンググレートの働きを感じるんですよ。
(つづく)
(「致知」8月号 村上和雄さん石井幹子さん対談より)