🍀プラットフォーム🍀
独占あるいはプラットホームを追い求める孫が好んで例えに出すのが、
米国の石油王ジョン・ロックフェラーだ。
ロックフェラーが頭角を現した19世紀後半、
また鯨油の代わりの灯油、あるいは薬の原料ぐらいしか用途のなかった石油にいち早く目をつけた炯眼は凄まじい。
1859年、ロックフェラーは20歳の年にペンシルベニア州北西部にあるオイルクリーク(油の運河)近郊でドレーク油田が発見されると、
その年に、モーリス・クラークと会社を設立。
当初は食料品を売っていたが、早くも石油の将来性を見抜いて、4年後に地元クリーブランドの製油所に投資した。
ロックフェラーは1865年にクラークと決別した。
2人は石油事業をどちらが取るかオークションで決めた。
500ドルから始まった入札は7万2,500ドルで決着した。
500ドルの差だった。
それは、もともとは石油を農産品取引の副業と考えていたロックフェラーが、
石油王への道を邁進し始めた瞬間だった。
名著『石油の世紀』の中の中で著者のダニエル・ヤーギンは、この日の出来事をこう記している。
「このときの2人の握手は、近代石油産業の始まりでもあった。
ペンシルベニアの野蛮なブームと混乱を脱し、
産業界に新しい力の支配の秩序をもたらすシグナルだった」
文字通り石油の世紀の始まりである。
だが、新たな産業の夜明けに気づいた者はこの時、
まだほとんどいなかった。
夜明けとはそういうものなのかもしれない。
くどいようだが、当時は灯油くらいに用途が限られていた。
ヤーギンの著書によると、ドレークがペンシルベニアの油分を発掘した後も、
石油そのものより、それを入れるために使われたウイスキー樽の方が2倍も高かったという。
ガソリン自動車が誕生するのは、これより20年近くも後の1886年。
ドイツでカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーが別々に開発している。
さらに米国デトロイト近郊でヘンリー・フォードが「T型フォード」の生産ラインにベルトコンベアを採用して、コードをして山に音入れる自動車が産業と言える地位を確立するのが1910年代だから、
ロックフェラーは半世紀も前に石油の将来性を見抜いていたことになる。
ロックフェラーは『石油の世紀』が始まる前に、さして価値がなかった油の出る土地を次々と抑えていた。
これは危険な投資だろう。
なにせ鯨油の代わりである。
一歩間違えば自ら供給過剰の状態を作り出してしまう。
ロックフェラーが設立したスタンダード・オイルは文字通り米国の石油業界を支配するプラットフォーマーとなる。
孫が注目するのは、ロックフェラーが油分だけではなく、その配送手段としてパイプラインなど郵送網の建設まで手掛け点だ。
自動車が大衆化し巨大産業となった功績は主にヘンリーフォードの名で語られる。
ベルトコンベヤで安く車を作る一方で、
従業員の賃金を一気に2倍にして米国経済を支えるミドルクラス(中流階級)が生まれる礎をつくったからだ。
だが、ドイツで生まれた自動車が米国で爆発的な発展を遂げた背景に、
ロックフェラーが築いた「石油プラットフォーマー」の存在があったことを忘れてはならない。
仁木が調べたところ、アームも半導体産業を回路設計という形で裏から牛耳るプラットフォーマーユーになりうる存在に思えてきた。
さらに話が逸れるが、ソフトバンク子会社のヤフージャパンで副社長兼COO(最高執行責任者)の川邊健太郎は、何気ない会話の中で孫の経営哲学に触れることが多いと言う。
ある時、
ヤフーのグルメ情報の話になった。
「ヤフーグルメは万年3位で、『食べログ』と『ぐるなび』にはどうしても追いつけないでいます。
やはり、どちらかを買収する必要があるかもしれません」
川邊が言うと、孫はこう答えた。
「お前、カードゲームをやるか?」
「は? まぁ、わかりますけど、それが何か」
ほら、ポーカーでもそうじゃん。
ツーペアよりフォーカードの方が強いだろう。
そしたら、そしたら絶対に勝てるだろう」
「それはそうですけど」
「だから、そういう時はどちらか、じゃなくて、どっちも買収するんだ。
最初からそのためには、どうすればいいかを考えるんだ」
この後、実際にはヤフーは両者の買収を検討したが実現しなかった。
孫が言いたかったことは、どうせやるなら中途半端なことはせず、
最初から徹底してプラットホーマーの地位を狙え、ということだ。
(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)
独占あるいはプラットホームを追い求める孫が好んで例えに出すのが、
米国の石油王ジョン・ロックフェラーだ。
ロックフェラーが頭角を現した19世紀後半、
また鯨油の代わりの灯油、あるいは薬の原料ぐらいしか用途のなかった石油にいち早く目をつけた炯眼は凄まじい。
1859年、ロックフェラーは20歳の年にペンシルベニア州北西部にあるオイルクリーク(油の運河)近郊でドレーク油田が発見されると、
その年に、モーリス・クラークと会社を設立。
当初は食料品を売っていたが、早くも石油の将来性を見抜いて、4年後に地元クリーブランドの製油所に投資した。
ロックフェラーは1865年にクラークと決別した。
2人は石油事業をどちらが取るかオークションで決めた。
500ドルから始まった入札は7万2,500ドルで決着した。
500ドルの差だった。
それは、もともとは石油を農産品取引の副業と考えていたロックフェラーが、
石油王への道を邁進し始めた瞬間だった。
名著『石油の世紀』の中の中で著者のダニエル・ヤーギンは、この日の出来事をこう記している。
「このときの2人の握手は、近代石油産業の始まりでもあった。
ペンシルベニアの野蛮なブームと混乱を脱し、
産業界に新しい力の支配の秩序をもたらすシグナルだった」
文字通り石油の世紀の始まりである。
だが、新たな産業の夜明けに気づいた者はこの時、
まだほとんどいなかった。
夜明けとはそういうものなのかもしれない。
くどいようだが、当時は灯油くらいに用途が限られていた。
ヤーギンの著書によると、ドレークがペンシルベニアの油分を発掘した後も、
石油そのものより、それを入れるために使われたウイスキー樽の方が2倍も高かったという。
ガソリン自動車が誕生するのは、これより20年近くも後の1886年。
ドイツでカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーが別々に開発している。
さらに米国デトロイト近郊でヘンリー・フォードが「T型フォード」の生産ラインにベルトコンベアを採用して、コードをして山に音入れる自動車が産業と言える地位を確立するのが1910年代だから、
ロックフェラーは半世紀も前に石油の将来性を見抜いていたことになる。
ロックフェラーは『石油の世紀』が始まる前に、さして価値がなかった油の出る土地を次々と抑えていた。
これは危険な投資だろう。
なにせ鯨油の代わりである。
一歩間違えば自ら供給過剰の状態を作り出してしまう。
ロックフェラーが設立したスタンダード・オイルは文字通り米国の石油業界を支配するプラットフォーマーとなる。
孫が注目するのは、ロックフェラーが油分だけではなく、その配送手段としてパイプラインなど郵送網の建設まで手掛け点だ。
自動車が大衆化し巨大産業となった功績は主にヘンリーフォードの名で語られる。
ベルトコンベヤで安く車を作る一方で、
従業員の賃金を一気に2倍にして米国経済を支えるミドルクラス(中流階級)が生まれる礎をつくったからだ。
だが、ドイツで生まれた自動車が米国で爆発的な発展を遂げた背景に、
ロックフェラーが築いた「石油プラットフォーマー」の存在があったことを忘れてはならない。
仁木が調べたところ、アームも半導体産業を回路設計という形で裏から牛耳るプラットフォーマーユーになりうる存在に思えてきた。
さらに話が逸れるが、ソフトバンク子会社のヤフージャパンで副社長兼COO(最高執行責任者)の川邊健太郎は、何気ない会話の中で孫の経営哲学に触れることが多いと言う。
ある時、
ヤフーのグルメ情報の話になった。
「ヤフーグルメは万年3位で、『食べログ』と『ぐるなび』にはどうしても追いつけないでいます。
やはり、どちらかを買収する必要があるかもしれません」
川邊が言うと、孫はこう答えた。
「お前、カードゲームをやるか?」
「は? まぁ、わかりますけど、それが何か」
ほら、ポーカーでもそうじゃん。
ツーペアよりフォーカードの方が強いだろう。
そしたら、そしたら絶対に勝てるだろう」
「それはそうですけど」
「だから、そういう時はどちらか、じゃなくて、どっちも買収するんだ。
最初からそのためには、どうすればいいかを考えるんだ」
この後、実際にはヤフーは両者の買収を検討したが実現しなかった。
孫が言いたかったことは、どうせやるなら中途半端なことはせず、
最初から徹底してプラットホーマーの地位を狙え、ということだ。
(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)