🍀孫正義🍀②
孫正義という人物を語るとき、彼の生い立ちから振り返るのは、
これまでの孫正義伝では定番となっている。
むしろ出自の部分に焦点を当てたものも多い。
本書は経営者としての孫正義の実像に迫ることを目的としたため、
これまで、あえて孫の生い立ちには言及してこなかった。
もちろん孫正義という人物を知る上で、この部分は外せない。
在日韓国人としてバラック小屋に生まれた男の苦難や挫折、葛藤、反骨心、そしてそこから這い上がってやるという強烈な意志。
間違いなく、それらは事業家としての孫正義の根底に流れるスピリットを形作る原点となっている。
ただし、在日韓国人としての出自や無番地での悲惨な暮らしといった部分にだけに目を奪われすぎると、
この類いまれな経営者の本質を見誤るというのが筆者の考えだ。
では、何が事業家、孫正義の原点となったのか。
筆者なりにまとめてみたい。
孫正義は、1957年8月11日、父・三憲、母・玉子の次男として生まれた。
孫の父方の祖父、孫鍾慶は故郷の韓国大邱から日本に出稼ぎに来ていた。
一度は大邱に戻るが仕事がなく、戦後すぐに日本に戻った。
密航だったという。
孫一家が住み着いたのが国鉄鳥栖駅のすぐ近く。
線路の脇にあり本来は国鉄が所有している土地だか、
住む場所に困ったら朝鮮人たちがバラック小屋を建てて、肩を寄せ合い暮らすようになっていた。
正義の生まれ育ったのもこの土地だった。
集落の真ん中に幅5間(9メートル)の道路があるから、鳥栖市5間道路無番地。
不法占拠のため番地がないから無番地とされた。
今では再開発されて跡形も残っていないが、
正義が生まれた頃は、5間道路も舗装されておらず、大雨が降るとすぐに冠水してしまっていたという。
この無番地のトタン屋根の下で、孫一家は豚を飼って生計の足しにしていた。
強烈な匂いが立ち込めていたことは想像に難くない。
そして一家は、ここでは「孫」ではない。
日本名の「安本」と名乗っていた。
孫は鎌谷らがまとめた、あの30年ビジョンの発表会を、
この頃の生活を振り返る話で締めくくっている。
スクリーンには1人の老女の写真が映し出された。
李元照。
14歳で日本に渡って、すぐに孫鐘慶と結婚した、孫の祖母だ。
トタン屋根のバラック小屋で豚の世話をしていたのが、この祖母だった。
毎日リヤカーをひ引いて駅前の食堂を回る。
客が食べ残した残飯をもらって回り、豚のエサにするためだった。
正義に「散歩に行くぞ」と言ってそのリヤカーに乗せる。
正義はその当時のことを発表会で振り返った。
「滑るんですよ、ぬるぬるして。
何か腐ったようなにおいがして、
雨上がりのでこぼこ道だと、水たまりでぬるっと滑って。
落ちたら死ぬなと思いながら
『しっかりつかまっとけ』
って言ってリヤカーを引っ張るおばあちゃんについていっているわけです」
孫は大好きだったおばあちゃんのことが嫌いになった時期があったと告白する。
在日韓国人としての出自を意識するようになったからだった。
「なぜ嫌いになったかと言うと、
おばあちゃん イコール キムチ。
キムチ イコール 韓国なんです。
生きていくのにつらいことが、やっぱりあるんですよね。
息を潜めるように、隠れるように日本名で生きているわけです。
なおさらそれがコンプレックスになっていました」
その孫一家を支える大黒柱となったのが父・三憲だった。
三憲は中学校を出るとすぐに働き始めた。
孫正義というあまり類例を見ない経営者の根っこの部分を作ったのは、
在日韓国人という出自からくるコンプレックスや、反発性もさることながら、
この父親の存在が1番大きいだろう。
まさに孫一家の起業家スリットを体現したような人物だったという。
息子の正義はこう言う。
「僕は今でも最も尊敬するのはオヤジですね。
オヤジはまったくのゼロからというよりマイナスからのスタートだった。
色々な困難がある中で、それを乗り越える情念と執念ね。
そして常に、自分の頭でアイデアを生み出していくんですよ」
中学校出た三憲が始めたのは、密造酒造りだった。
何度も警察に踏み込まれたが、
全く気に留める様子もなく密造を繰り返していたという。
焼酎の密造酒をトタン屋根の自宅で造り、それを売り歩く。
最初は近所のおっちゃんやおばちゃんに売るだけだったが、それではタカが知れている。
そこで考えたのが「売れる仕組みの発明」だった。
自転車で行く先々に頼み込んで一升瓶の密造酒を置いてもらう。
そこで売れたぶんのうちの幾分かを支払うという方法だ。
これが口コミで広がっていった。
孫一家の四男・泰蔵は
自著『孫家の遺伝子』の中で、
この当時の三憲は毎日、家に帰ると鏡の前で、笑顔の練習をしていたと振り返っている。
「やっぱり商売人に笑顔は大事だからね」
というのが、その理由だった。
焼酎売りで儲けたカネで三憲はパチンコ店とサラ金を始める。
これが成功して孫一家は裕福な暮らしを手に入れた。
正義が小学校低学年の頃だ。
三憲はパチンコブームが下火となった際には、
店に釣り堀を併設し、
「赤コイを釣ったら10,000円」
など、奇抜なアイデアで乗り切った。
一家は無番地を出て、一時は北九州に引っ越し、
正義が中学生になると福岡市城南区に転居している。
この頃には、もう生活に困ることはない。
ただ、孫に
「事業家としての父から学んだことは何か」
と聞いたとき、
孫が挙げたのは三憲が一家を支えるために塗炭の苦しみを味わった頃や、その奇抜なアイデアではなく、
成功したこの頃の親父の姿だった。
「オヤジがいつも嘆いていたのは、
俺はゼニカネのために今の目先の商売をしているけど、
それは本来の姿じゃないということでしたね。
カネのために働くのは価値のあることではないと常々言っていた。
酒を飲んだときに、まだ小学生か中学生くらいの僕にそう言って聞かせるんですよ。
俺はまだ男子の本懐を遂げられていないって。
いいか正義、お前が大人になったら、そんな目先のゼニカネのために人生を費やすんじゃないぞ、
お前なら必ずできるからなって、そう言うんですよ」
「そのことは僕の事業家としての根底のところにありますよね。
自分が大人になって事業家になった時には、
そういうものを、はるかに超越するものを目指しさなきゃならんと」
(つづく)
(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)
孫正義という人物を語るとき、彼の生い立ちから振り返るのは、
これまでの孫正義伝では定番となっている。
むしろ出自の部分に焦点を当てたものも多い。
本書は経営者としての孫正義の実像に迫ることを目的としたため、
これまで、あえて孫の生い立ちには言及してこなかった。
もちろん孫正義という人物を知る上で、この部分は外せない。
在日韓国人としてバラック小屋に生まれた男の苦難や挫折、葛藤、反骨心、そしてそこから這い上がってやるという強烈な意志。
間違いなく、それらは事業家としての孫正義の根底に流れるスピリットを形作る原点となっている。
ただし、在日韓国人としての出自や無番地での悲惨な暮らしといった部分にだけに目を奪われすぎると、
この類いまれな経営者の本質を見誤るというのが筆者の考えだ。
では、何が事業家、孫正義の原点となったのか。
筆者なりにまとめてみたい。
孫正義は、1957年8月11日、父・三憲、母・玉子の次男として生まれた。
孫の父方の祖父、孫鍾慶は故郷の韓国大邱から日本に出稼ぎに来ていた。
一度は大邱に戻るが仕事がなく、戦後すぐに日本に戻った。
密航だったという。
孫一家が住み着いたのが国鉄鳥栖駅のすぐ近く。
線路の脇にあり本来は国鉄が所有している土地だか、
住む場所に困ったら朝鮮人たちがバラック小屋を建てて、肩を寄せ合い暮らすようになっていた。
正義の生まれ育ったのもこの土地だった。
集落の真ん中に幅5間(9メートル)の道路があるから、鳥栖市5間道路無番地。
不法占拠のため番地がないから無番地とされた。
今では再開発されて跡形も残っていないが、
正義が生まれた頃は、5間道路も舗装されておらず、大雨が降るとすぐに冠水してしまっていたという。
この無番地のトタン屋根の下で、孫一家は豚を飼って生計の足しにしていた。
強烈な匂いが立ち込めていたことは想像に難くない。
そして一家は、ここでは「孫」ではない。
日本名の「安本」と名乗っていた。
孫は鎌谷らがまとめた、あの30年ビジョンの発表会を、
この頃の生活を振り返る話で締めくくっている。
スクリーンには1人の老女の写真が映し出された。
李元照。
14歳で日本に渡って、すぐに孫鐘慶と結婚した、孫の祖母だ。
トタン屋根のバラック小屋で豚の世話をしていたのが、この祖母だった。
毎日リヤカーをひ引いて駅前の食堂を回る。
客が食べ残した残飯をもらって回り、豚のエサにするためだった。
正義に「散歩に行くぞ」と言ってそのリヤカーに乗せる。
正義はその当時のことを発表会で振り返った。
「滑るんですよ、ぬるぬるして。
何か腐ったようなにおいがして、
雨上がりのでこぼこ道だと、水たまりでぬるっと滑って。
落ちたら死ぬなと思いながら
『しっかりつかまっとけ』
って言ってリヤカーを引っ張るおばあちゃんについていっているわけです」
孫は大好きだったおばあちゃんのことが嫌いになった時期があったと告白する。
在日韓国人としての出自を意識するようになったからだった。
「なぜ嫌いになったかと言うと、
おばあちゃん イコール キムチ。
キムチ イコール 韓国なんです。
生きていくのにつらいことが、やっぱりあるんですよね。
息を潜めるように、隠れるように日本名で生きているわけです。
なおさらそれがコンプレックスになっていました」
その孫一家を支える大黒柱となったのが父・三憲だった。
三憲は中学校を出るとすぐに働き始めた。
孫正義というあまり類例を見ない経営者の根っこの部分を作ったのは、
在日韓国人という出自からくるコンプレックスや、反発性もさることながら、
この父親の存在が1番大きいだろう。
まさに孫一家の起業家スリットを体現したような人物だったという。
息子の正義はこう言う。
「僕は今でも最も尊敬するのはオヤジですね。
オヤジはまったくのゼロからというよりマイナスからのスタートだった。
色々な困難がある中で、それを乗り越える情念と執念ね。
そして常に、自分の頭でアイデアを生み出していくんですよ」
中学校出た三憲が始めたのは、密造酒造りだった。
何度も警察に踏み込まれたが、
全く気に留める様子もなく密造を繰り返していたという。
焼酎の密造酒をトタン屋根の自宅で造り、それを売り歩く。
最初は近所のおっちゃんやおばちゃんに売るだけだったが、それではタカが知れている。
そこで考えたのが「売れる仕組みの発明」だった。
自転車で行く先々に頼み込んで一升瓶の密造酒を置いてもらう。
そこで売れたぶんのうちの幾分かを支払うという方法だ。
これが口コミで広がっていった。
孫一家の四男・泰蔵は
自著『孫家の遺伝子』の中で、
この当時の三憲は毎日、家に帰ると鏡の前で、笑顔の練習をしていたと振り返っている。
「やっぱり商売人に笑顔は大事だからね」
というのが、その理由だった。
焼酎売りで儲けたカネで三憲はパチンコ店とサラ金を始める。
これが成功して孫一家は裕福な暮らしを手に入れた。
正義が小学校低学年の頃だ。
三憲はパチンコブームが下火となった際には、
店に釣り堀を併設し、
「赤コイを釣ったら10,000円」
など、奇抜なアイデアで乗り切った。
一家は無番地を出て、一時は北九州に引っ越し、
正義が中学生になると福岡市城南区に転居している。
この頃には、もう生活に困ることはない。
ただ、孫に
「事業家としての父から学んだことは何か」
と聞いたとき、
孫が挙げたのは三憲が一家を支えるために塗炭の苦しみを味わった頃や、その奇抜なアイデアではなく、
成功したこの頃の親父の姿だった。
「オヤジがいつも嘆いていたのは、
俺はゼニカネのために今の目先の商売をしているけど、
それは本来の姿じゃないということでしたね。
カネのために働くのは価値のあることではないと常々言っていた。
酒を飲んだときに、まだ小学生か中学生くらいの僕にそう言って聞かせるんですよ。
俺はまだ男子の本懐を遂げられていないって。
いいか正義、お前が大人になったら、そんな目先のゼニカネのために人生を費やすんじゃないぞ、
お前なら必ずできるからなって、そう言うんですよ」
「そのことは僕の事業家としての根底のところにありますよね。
自分が大人になって事業家になった時には、
そういうものを、はるかに超越するものを目指しさなきゃならんと」
(つづく)
(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)