🍀孫正義🍀④
米国での奮闘記も、これまでの孫正義伝で詳しく紹介されている。
入学した現地の高校を飛び級に次ぐ飛び級で、わずか3週間で卒業したこと。
大学入試の検定試験で試験官に直談判して辞書の使用と時間の延長を認めさせたこと。
どれも後の大成功を予感させるスーパーマンのように描かれているが、
ここではあえて省略する。
この頃の孫は、決してスーパーマンではなく、異常なまでの執念を持つ一人の少年だったのだろう。
大学では「勉強の鬼になった」と言う、
「大学では、大げさじゃなく、僕より勉強してる奴はいないと言い切れるよ。
だって物理的な限界があるから。
食事の時も、右手に本で、左手にフォーク。
両目で見ながら食べたら、おいしいんだろうなと思いましたよ」
このときの経験を2浪が決まった泰蔵に言って聞かせ
「だから、俺はビル・ゲイツとかが交渉相手でも、全然平気なんだ」
と豪語したと言う。
ホーリーネームズ・カレッジという大学からカリフォルニア大学バークレー校 経済学部に3年生として編入すると、
孫は手っ取り早く学費を稼ぐ手段を考え始めた。
この頃には三憲も健康を取り戻して、潤沢な仕送りを受けていたが、
それが心のどこかで引っかかっていたのだ。
「1日5分間だけ発明のために頭を使う」
と決めた孫が、250ほどのアイディアの中から選んだのが音声機能付き電子翻訳きた。
これが大恩人の佐々木正に認められ、
事業家人生の第一歩となったことは、すでに述べた。
日本に戻り1981年に「孫正義」の名で日本ソフトバンクを起こした孫は1人の男と出会う。
立教大学などで教鞭を執り、
この年に非営利団体の日本総合研究所の理事長となっていた野田一夫だ。
福岡・雑餉隈(ざっしょのくま)から東京に出てきたばかりの孫にはカネがなく、
日本総合研究所の1部門である経営総合研究所が持つビルに間借りしていた。
挨拶を兼ねて野田のオフィスを訪れた孫は直立不動で野田の話を聞いたという。
日本ソフトバンクが軌道に乗ってからも、
野田は孫の良き相談相手となっている。
今でも孫は
「駆け出しの時代に野田先生から
『君は見所がある』
とおっしゃっていただいたことが、
僕には飛び上がるほど嬉しかった」
と振り返る。
初対面の時、野田は直立不動の青年に起業家としての心構えを説いた。
「孫君。君は夢と志の違いが分かるか」
「違いですか…」
孫が言葉に詰まると野田が続ける。
「夢というのは少年少女の淡い期待だ。
志というのは決意なんだ。
いいかい孫君。
夢じゃダメだ。
志を持ちなさい」
「志、ですか…。先生、わかりました。ありがとうございます!」
後に大成した孫はサインを求められることが多い。
そういう時には決まってこの言葉を書くようにしている。
「志高く」
孫が今でも1番大事にしている言葉だと言う。
ソフトバンクは上場企業ではあるが実質的にはオーナー企業である。
孫個人が株式の2割を握る筆頭株主であるだけどなく、
絶対的なカリスマ経営者、そして権力者として君臨している。
これまで仕掛けた数々の大勝負の主役が孫正義その人であることは間違いない。
だが、その志に共感した先達が陰に陽に協力してくれたからこそ、若き才能が開花したのだ。
そして孫の志に共感する腕に覚えのあるストリートファイターたちが孫のもとに集うことで、
この異形の企業集団ができあがった。
創業期に孫を支えた10の恩人。
その中でも年齢的にも孫に近く兄貴分だったハドソン創業者の工藤浩は
数年前に孫に、こんなことを話したという。
「なあ正義さぁ、もう十分だよ。
もう十分良い思いをさせてもらった。
お前はもうこんなところまで来たんだ。
俺たちの手の届くところじゃないからさ。
だから恩人とか、もういいよ」
孫が毎年、社を挙げて祝う「恩人感謝の日」。
今も欠かさず超多忙なスケジュールをやりくりして、孫自らが恩人たちをもてなす機会をもうけている。
この時もそうだった。
誰もが知る世界的な経営者に成長した孫に、これ以上余計な負担をかけさせまいという工藤の気遣いだった。
そんな兄貴分に、孫はいつになく真剣な表情で言葉を返した。
「いや、工藤さん、それは違います。
今の僕に寄ってくる人は山ほどいるんです。
でもね。
あの時はそうじゃなかった。
あの時、僕に力を貸してくれたのは工藤さんとか佐々木先生とか、
恩人の皆さん以外に、いなかったんです。
あの時があるから、今の僕があるんです」
工藤は当時を思い出しながら筆者にこう語った。
「もう痛快だよね。ウチで家内が作った味噌汁の豆腐を見て
『工藤さん、僕は豆腐になります。
一兆、二兆って数えるような経営者になります』
なんて言ってた奴がさ、本当にやりやがった。
でも、あいつは、あの時となんにも変わっちゃいないんだよな」
工藤もまた孫の志に惹かれた男だ。
その情熱にほだされ情報革命という孫の志に賭けてみたくなった男だ。
だから今の孫の活躍を見るのが楽しくて仕方がないと言う。
孫正義
100年後の人々は、この男をどう評価してるだろうか。
それは筆者にもわからない。
代わりに本人の言葉を紹介して、この書を終えたい。
「僕が後悔していること。
それは60年近くも人生を過ごしているのに、まだ誇れるものが何もないということだ。
自分に対して、もう、非常に不満なんですよ。
もし明日、事故で死ぬようなことがあったら、悔やんでも悔やみ切れない。
まだ、何も成し遂げていないから」
この男の物語は、まだ終わらない。
(おしまい)
(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)
米国での奮闘記も、これまでの孫正義伝で詳しく紹介されている。
入学した現地の高校を飛び級に次ぐ飛び級で、わずか3週間で卒業したこと。
大学入試の検定試験で試験官に直談判して辞書の使用と時間の延長を認めさせたこと。
どれも後の大成功を予感させるスーパーマンのように描かれているが、
ここではあえて省略する。
この頃の孫は、決してスーパーマンではなく、異常なまでの執念を持つ一人の少年だったのだろう。
大学では「勉強の鬼になった」と言う、
「大学では、大げさじゃなく、僕より勉強してる奴はいないと言い切れるよ。
だって物理的な限界があるから。
食事の時も、右手に本で、左手にフォーク。
両目で見ながら食べたら、おいしいんだろうなと思いましたよ」
このときの経験を2浪が決まった泰蔵に言って聞かせ
「だから、俺はビル・ゲイツとかが交渉相手でも、全然平気なんだ」
と豪語したと言う。
ホーリーネームズ・カレッジという大学からカリフォルニア大学バークレー校 経済学部に3年生として編入すると、
孫は手っ取り早く学費を稼ぐ手段を考え始めた。
この頃には三憲も健康を取り戻して、潤沢な仕送りを受けていたが、
それが心のどこかで引っかかっていたのだ。
「1日5分間だけ発明のために頭を使う」
と決めた孫が、250ほどのアイディアの中から選んだのが音声機能付き電子翻訳きた。
これが大恩人の佐々木正に認められ、
事業家人生の第一歩となったことは、すでに述べた。
日本に戻り1981年に「孫正義」の名で日本ソフトバンクを起こした孫は1人の男と出会う。
立教大学などで教鞭を執り、
この年に非営利団体の日本総合研究所の理事長となっていた野田一夫だ。
福岡・雑餉隈(ざっしょのくま)から東京に出てきたばかりの孫にはカネがなく、
日本総合研究所の1部門である経営総合研究所が持つビルに間借りしていた。
挨拶を兼ねて野田のオフィスを訪れた孫は直立不動で野田の話を聞いたという。
日本ソフトバンクが軌道に乗ってからも、
野田は孫の良き相談相手となっている。
今でも孫は
「駆け出しの時代に野田先生から
『君は見所がある』
とおっしゃっていただいたことが、
僕には飛び上がるほど嬉しかった」
と振り返る。
初対面の時、野田は直立不動の青年に起業家としての心構えを説いた。
「孫君。君は夢と志の違いが分かるか」
「違いですか…」
孫が言葉に詰まると野田が続ける。
「夢というのは少年少女の淡い期待だ。
志というのは決意なんだ。
いいかい孫君。
夢じゃダメだ。
志を持ちなさい」
「志、ですか…。先生、わかりました。ありがとうございます!」
後に大成した孫はサインを求められることが多い。
そういう時には決まってこの言葉を書くようにしている。
「志高く」
孫が今でも1番大事にしている言葉だと言う。
ソフトバンクは上場企業ではあるが実質的にはオーナー企業である。
孫個人が株式の2割を握る筆頭株主であるだけどなく、
絶対的なカリスマ経営者、そして権力者として君臨している。
これまで仕掛けた数々の大勝負の主役が孫正義その人であることは間違いない。
だが、その志に共感した先達が陰に陽に協力してくれたからこそ、若き才能が開花したのだ。
そして孫の志に共感する腕に覚えのあるストリートファイターたちが孫のもとに集うことで、
この異形の企業集団ができあがった。
創業期に孫を支えた10の恩人。
その中でも年齢的にも孫に近く兄貴分だったハドソン創業者の工藤浩は
数年前に孫に、こんなことを話したという。
「なあ正義さぁ、もう十分だよ。
もう十分良い思いをさせてもらった。
お前はもうこんなところまで来たんだ。
俺たちの手の届くところじゃないからさ。
だから恩人とか、もういいよ」
孫が毎年、社を挙げて祝う「恩人感謝の日」。
今も欠かさず超多忙なスケジュールをやりくりして、孫自らが恩人たちをもてなす機会をもうけている。
この時もそうだった。
誰もが知る世界的な経営者に成長した孫に、これ以上余計な負担をかけさせまいという工藤の気遣いだった。
そんな兄貴分に、孫はいつになく真剣な表情で言葉を返した。
「いや、工藤さん、それは違います。
今の僕に寄ってくる人は山ほどいるんです。
でもね。
あの時はそうじゃなかった。
あの時、僕に力を貸してくれたのは工藤さんとか佐々木先生とか、
恩人の皆さん以外に、いなかったんです。
あの時があるから、今の僕があるんです」
工藤は当時を思い出しながら筆者にこう語った。
「もう痛快だよね。ウチで家内が作った味噌汁の豆腐を見て
『工藤さん、僕は豆腐になります。
一兆、二兆って数えるような経営者になります』
なんて言ってた奴がさ、本当にやりやがった。
でも、あいつは、あの時となんにも変わっちゃいないんだよな」
工藤もまた孫の志に惹かれた男だ。
その情熱にほだされ情報革命という孫の志に賭けてみたくなった男だ。
だから今の孫の活躍を見るのが楽しくて仕方がないと言う。
孫正義
100年後の人々は、この男をどう評価してるだろうか。
それは筆者にもわからない。
代わりに本人の言葉を紹介して、この書を終えたい。
「僕が後悔していること。
それは60年近くも人生を過ごしているのに、まだ誇れるものが何もないということだ。
自分に対して、もう、非常に不満なんですよ。
もし明日、事故で死ぬようなことがあったら、悔やんでも悔やみ切れない。
まだ、何も成し遂げていないから」
この男の物語は、まだ終わらない。
(おしまい)
(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)