我が国に外国の名ヴァイオリニストたちに認められたヴァイオリン製作者がいた!
峰沢峯三(みねざわみねぞう、1899-1978)。
そのヴァイオリン製作現場の写真が『国際文化画報』1959年11月号に掲載されていました。
自分は全然知らなかったのですが、名器「日龍」「月龍」というのがあるそうです。かっこええ!
↑裏板の製作。欧米ではノミを使うところだが、峰沢さんはカンナを使う
↑このカンナはハンドルが付いている
↑手で板の厚みを計る。大切な仕事だ
↑横板に使う薄い木片を切る
↑先端の渦巻は丹念にノミで彫る
↑完成品は峰沢さんがまずテストをし、次に辻久子さんに依頼する。
↑作品を点検する峰沢さん。天井の木片は使用する材料、5年以上吊るして十分乾燥させる
以下、同じ雑誌の記事です。(「峯沢峯三」と表記されています)
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ソ連文化省の招きでソ連各地を演奏旅行していた辻久子さんが、四月二十九日、ラトビア共和国の首都リガでの演奏のあと、ある提琴製作家の訪問をうけた。使用の提琴はストラディバリではないかと訊かれたので、日本の峯沢峯三という人の作だと答えると、「とび上がってびっくりしていた。空気が乾燥しているので、自分でも驚くほどよい音色と音量が出る」と朝日新聞へ伝えてきている。(五月十五日)
オイストラフ氏もたいへん賞めたというこの提琴の製作家峯沢さんは、親子二代つづいいての提琴製作家である。峯沢さんのお父さんは「ストラディバリもグヮルネリも同じ人間だ、私にできないことはない」と、提琴製作の――いや西洋音楽の伝統さえない日本で製作を始めたのだが、道は思った以上に険しかった。つまずいたのはいくどあったか。あるときなど「もうやめた。おれは八百屋をやる、お前は洋服屋になれ」といったと峯沢さんは述懐している。(九月八日のNHK放送)
峯沢さんは大正元年、十五歳でこのお父さんの仕事をついだ。神戸に住んだ(現在京都)が、それは神戸は開港場で外人も多く、提琴製作にはなにかと便宜があったからだ。大正十三年、峯沢さんがこの道に入って十二年目にハイフェッツがこの日本を訪れた。当時十九歳のこの天才提琴家は楽屋を訪れた峯沢さんの願いをいれたその提琴を試演したが「なかなかいい提琴だ。だが君が作ったのではないだろう」といったという。いらい日本へ演奏旅行に来た著名提琴家は、ジンバリストもクライスラーもティボーもシゲッティもみな峯沢さんの提琴を試演して激励したが、峯沢さんが辻久子さんと親しくなってからは製作品は全部辻さんに見せることになっている。
一たい提琴の形状や構造はストラディバリ以後ほとんど変わっていない(高音部を多く使用するため構造が多少頑丈になっている)が、しかし峯沢さんは製作技術については独自のものを生んでいる。峯沢さんはそれを弟子に教えたが、弟子の多くはのちにこの師匠から離れたばかりか、その技術は師匠に教えてやったのだ、といいふらされた苦い経験もなめている。
ともあれ、峯沢さんの名声はすでに国際的になっている。この写真をとるときでも、フランスから五つも修繕が届けられていた。
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著名な来日ヴァイオリニストや辻久子さんに認められていたとは!
峰沢さんのヴァイオリンは今でも名演奏家によってすばらしい歌を歌っていることでしょうね。日龍、月龍はいまだれの手に!?
↑オイストラフ氏から「いただいたヴァイオリンのお礼に」と送ってきた手箱と手紙。(右は夫人とお嬢さん)
↑↓ 週刊新潮1959年6月1日号より。