【2015年2月24日の記事にチラシとチケット半券の画像を追加しました】
1956年(昭和31年)7月31日、ワルツで有名なシュトラウス一族の末裔、エドゥアルト・シュトラウス2世が東京交響楽団の招きにより指揮者として来日しました。
東響の常任指揮者、上田仁氏が海外に招かれて帰ってくるまでの3ヶ月間、シュトラウス氏が「留守番」をしてくださったということです。
Eduard Strauss II. (1910-1969) 来日時の写真。『音楽之友』1956年9月号
エドゥアルト・シュトラウス2世とシュトラウス一族との関係は?
「ワルツの父」、ヨハン・シュトラウス1世(1804-1849)には3人の息子がいます。
長男 ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899) 一番有名な「ワルツ王」
次男 ヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870)
三男 エドゥアルト・シュトラウス1世(1835-1916)
来日したエドゥアルト・シュトラウス2世は三男のエドゥアルト・シュトラウス1世の孫だそうです(エドゥアルト・シュトラウス1世の息子であるヨーゼフの息子。多少ややこし~)。←ここに家系図がありました。
とにかく、シュトラウス一族の、それも結構血の濃い子孫だということにウソはないですね。
Eduard Strauss I
↑ 「ワルツの父 ヨハン・シュトラウスの曾孫」は本当のことだけど1世と明記しないところに若干ズルさが見え隠れ?
↑ 若気の至り的なドイツ語へのこだわりを「は」が堂々ブチ壊し。
↑ アサヒビール提供のコンサートもありました。プールでコンサートって涼しそう。『音楽之友』同号より。
日本での初コンサートである7月27日・日比谷公会堂での「ウィーン音楽の夕」ではシュトラウス一家の音楽のほかに、シューベルトの交響曲第5番、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を指揮しました。
当時の『音楽之友』では「クルト・ヴェスのデレデレしたワルツよりサッパリしていて後味がいい」など、日本人評論家には概ね好評です。江戸っ子のヤケクソな感想にも聞こえますが、シュトラウスさんも当時の日本のオーケストラから本場のワルツの音を少しでも引き出そうと苦労されたでしょうね(下の写真の顔)。
↑ 7月27日夜の日比谷公会堂。冷房がきかず、しにそうに暑かったそうです。同誌10月号より。
↑ エドゥアルト指揮の青きドナウと皇帝円舞曲の17センチLP