◆大原 安治
50年来の友人が数人いる。いわゆる「同じ釜の飯を食った仲間」だ。今はもう、消えてしまった職業「モールス通信」の技術を一緒に学んだ「大分逓信講習所」の同期生である。
今でも、年に何度か集まって酒を飲むが、この歳になると酒の肴はいつも回顧譚になる。作家の開高健氏が「男にとって、思い出ほど最高の酒のサカナはない」と言ったそうだが、まったくその通りだと思う。
酔いが回りだすと、まず出るのが講習所を受験した時の苦労話だ。
「受験票に貼る写真代がなくて、薪運びのアルバイトをした」とか「朝、5時に起きて始発の汽車で大分まで来た。その時、大分の町を生れてはじめて見た」などと、それぞれが脳裏にしみついている当時の記憶をなまなましく語り出す。
私自身も、疎開して以来、それまで大分の町に出たことはなかった。受験用に、当時賀来※にⅠ軒しかなかった写真屋で大急ぎで写真を撮り、生乾きのそれを持って賀来から大分市の大道町までテクテク歩いて受験した。新制中学3年の夏休みも終わりの頃だった。
※大分市の西南約4kmの大分郡賀来村。昭和38年に大分市となった。
みんなの話の出発点になる逓信講習所は、その名の示すとおり逓信省の一機関で、電信技士の養成所だ。私たちが入所した時は逓信省の管轄だったが、9ヵ月の養成期間を終えた頃には電気通信省に移管され、その後、半世紀の間に電電公社、NTTと時代の変遷とともにめまぐるしく変貌していった。
受験したのは、戦後の激動がまだ静まっていない昭和23年だった。当時の大分市はほとんどが焼野原状態で、竹町の電車通りから新川の松林が見通せたのを覚えている。巷にはヤミ市がたち、浮浪者や戦災孤児がさまよっていた。復興の土木作業のほかには仕事らしい仕事もない頃だった。
そんな時代の逓信省の採用試験だったから、受験者がワンサと押しかけた。採用されれば、即、お役人になれるのだから無理もない。しかも、養成中から給料をもらえるのだ。下は、私たちみたいな14,5歳の少年から、上は予科練帰りの屈強な若者まで、たった20人の採用に400人以上の人が受験の列に並んだ。気の弱い私など、あまりに受験生が多いので諦めて帰ろうかと思ったほどだった。
もっとも、受験人数については仲間同士でいつも意見が食い違う。「300人くらいだった」「いや600人くらいはいたはずだ」などと言い争う。酒を飲みながらの話だから、なかなか折合いがつかない。結局「まあ何でもいいじゃないか。俺たちは運がよかったのだろう。あの熾烈な受験地獄で勝ち残り、50年間、激動する社会情勢の中を生き抜いて無事退職。こうやって一緒に酒を飲みながら昔を語り合う。本当に夢のようだ。
同期生の中には、すでに鬼籍に入った者も数名いる。今、飲み会に出てくるのは、ほぼ同年代の連中5,6人だ。当時は14歳から17歳。思えば、みんな本当に若かった。
50星霜の苦労の影を全身ににじませながら、気持ちだけは当時と全く変わらない。「おまえ」「俺」で話し合う昔の思い出は、いつまでも尽きることはない。が、こうして集まって酒を飲みながらのむかし話を、あと、どのくらいつづけられるのか、そのことには誰も触れない。
今日ただ今の思い出酒に酔いしれて、先のことはできるだけ考えないようにしているのである。
◆寄稿者紹介
・大原安治、大分県 昭和8生れ 電気通信大分学園(入学時逓信講習所)普通電信科昭和24年卒
・出典 随筆集「黄昏の記憶」(平成14年出版)
寄稿者には、電電公社退職後に出版した上記を含む8冊の随筆集あり、いずれも国会図書館所蔵。
50年来の友人が数人いる。いわゆる「同じ釜の飯を食った仲間」だ。今はもう、消えてしまった職業「モールス通信」の技術を一緒に学んだ「大分逓信講習所」の同期生である。
今でも、年に何度か集まって酒を飲むが、この歳になると酒の肴はいつも回顧譚になる。作家の開高健氏が「男にとって、思い出ほど最高の酒のサカナはない」と言ったそうだが、まったくその通りだと思う。
酔いが回りだすと、まず出るのが講習所を受験した時の苦労話だ。
「受験票に貼る写真代がなくて、薪運びのアルバイトをした」とか「朝、5時に起きて始発の汽車で大分まで来た。その時、大分の町を生れてはじめて見た」などと、それぞれが脳裏にしみついている当時の記憶をなまなましく語り出す。
私自身も、疎開して以来、それまで大分の町に出たことはなかった。受験用に、当時賀来※にⅠ軒しかなかった写真屋で大急ぎで写真を撮り、生乾きのそれを持って賀来から大分市の大道町までテクテク歩いて受験した。新制中学3年の夏休みも終わりの頃だった。
※大分市の西南約4kmの大分郡賀来村。昭和38年に大分市となった。
みんなの話の出発点になる逓信講習所は、その名の示すとおり逓信省の一機関で、電信技士の養成所だ。私たちが入所した時は逓信省の管轄だったが、9ヵ月の養成期間を終えた頃には電気通信省に移管され、その後、半世紀の間に電電公社、NTTと時代の変遷とともにめまぐるしく変貌していった。
受験したのは、戦後の激動がまだ静まっていない昭和23年だった。当時の大分市はほとんどが焼野原状態で、竹町の電車通りから新川の松林が見通せたのを覚えている。巷にはヤミ市がたち、浮浪者や戦災孤児がさまよっていた。復興の土木作業のほかには仕事らしい仕事もない頃だった。
そんな時代の逓信省の採用試験だったから、受験者がワンサと押しかけた。採用されれば、即、お役人になれるのだから無理もない。しかも、養成中から給料をもらえるのだ。下は、私たちみたいな14,5歳の少年から、上は予科練帰りの屈強な若者まで、たった20人の採用に400人以上の人が受験の列に並んだ。気の弱い私など、あまりに受験生が多いので諦めて帰ろうかと思ったほどだった。
もっとも、受験人数については仲間同士でいつも意見が食い違う。「300人くらいだった」「いや600人くらいはいたはずだ」などと言い争う。酒を飲みながらの話だから、なかなか折合いがつかない。結局「まあ何でもいいじゃないか。俺たちは運がよかったのだろう。あの熾烈な受験地獄で勝ち残り、50年間、激動する社会情勢の中を生き抜いて無事退職。こうやって一緒に酒を飲みながら昔を語り合う。本当に夢のようだ。
同期生の中には、すでに鬼籍に入った者も数名いる。今、飲み会に出てくるのは、ほぼ同年代の連中5,6人だ。当時は14歳から17歳。思えば、みんな本当に若かった。
50星霜の苦労の影を全身ににじませながら、気持ちだけは当時と全く変わらない。「おまえ」「俺」で話し合う昔の思い出は、いつまでも尽きることはない。が、こうして集まって酒を飲みながらのむかし話を、あと、どのくらいつづけられるのか、そのことには誰も触れない。
今日ただ今の思い出酒に酔いしれて、先のことはできるだけ考えないようにしているのである。
◆寄稿者紹介
・大原安治、大分県 昭和8生れ 電気通信大分学園(入学時逓信講習所)普通電信科昭和24年卒
・出典 随筆集「黄昏の記憶」(平成14年出版)
寄稿者には、電電公社退職後に出版した上記を含む8冊の随筆集あり、いずれも国会図書館所蔵。
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